二 喫茶店

 リナが下宿している海月くらげどう書店しょてんがある街は、この国でも指折りの古い書店街らしい。世が大きく変化する時代に、列強に倣え追い越せと外国語や法律を学ぶための学校が作られ、それに伴い学生向けに古本を扱う店がやがて出版社となっていくいしずえにもなったのだという。


 さりとてたかのご先祖が開き、子孫が引き継いだ海月堂古書店はといえば、半ば店主の趣味で細々運営される小規模書店であるままだ。現在の店主、ななが継いでからは、インターネットでの仕入れと販売が伸びたおかげでなんとか経営も持ち直してきてはいるそうだが、さりとて大きな儲けが継続して出るような商売でもない。

 そんなわけで、あちこちガタのきている店内では、隙間風が吹いたり、そこから妖しいが出入りするのも日常茶飯事いつものことだった。


「すみませんね」

 カサカサと部屋の隅で蠢く影から目を逸らし、ひとつため息をついたリナに、七生が申し訳なさそうに頭を下げた。リナは慌てて手を振る。

「あ、いえ、私の方こそ、お世話になってしまって……」

「別に構わねえじゃねえか。七生は家賃収入が増えるし、嬢ちゃんは手頃で安心な住処を得られる。俺も嬢ちゃんがいてくれて目の保養で三方さんぽうよしだ」

「三方よしの使い方違わないっすかね」


 やれやれ、と七生は片眉を上げてリナに肩を竦めて見せた。彼もはじめは鷹生とのやりとりに戸惑ってはいたようだったが、何しろしゃべるカメ——詳細はいずれ後述する——がいつく古書店だ。何代か前の店主が自分より若い姿で現れたにしては、ずいぶん動揺は少ないようだった。あまりにも鷹生が人間じみているせいかも知れない。

 いずれにせよ、空いた二階の二部屋でご先祖と留学生が居候しているというのはめったにないことだろう。


「しかし平時だってのに、本が売れねえのは世も末だなあ」

「今は娯楽も多いですからね。この辺りも後継がいなくて閉店する店も多いし」

 なかなかに厳しい現状らしい。確かにリナから見ていても、街中で本を読んでいる人はほとんど見かけない。

「いっそ店の半分をカフェに、みたいな話も出てはいますけどね」

「かふぇ? 喫茶店かあ。確かにのんびり本が読めるならそっちの方がよさそうだな」

 無精髭の顎を撫でながら、まんざらでもなさそうにしたり顔で頷く鷹生に、七生がやれやれともう一度ため息をつく。

「代々そんなんだから繁盛しないんでしょうねえ」

「いいじゃねえか。本なんて読んでみないと中身がわからねえ。茶でも珈琲コーヒーでも飲みながらじっくり読んで、気に入ったら買ってもらえりゃあ互いに益しかねえだろ」

「誰が珈琲や茶を出すと思ってるんです?」

「そりゃあ店主か店番だろう」

 からからと笑う鷹生はつい、とリナの顔を覗き込んでくる。

「嬢ちゃんはどう思う?」

「どうって何が?」

「ここの店半分が喫茶店になれば、お前さんも常連になるか?」

「美味しい珈琲とお菓子があれば?」


 彼女の故郷では仕事や勉強の合間に友人や家族と、美味しい飲み物やお菓子とともに休憩時間を楽しむのは大事なことだ。珈琲という単語が休憩時間そのものを表すほどに。こちらではまだなかなかそういったことを楽しむ余裕がなかったけれど。


 そう伝えると、鷹生はふぅんと首を傾げてから、ならまずは市場調査だな、と笑って立ち上がる。

「おい、七生。この近くに美味い菓子と珈琲の店はあるか?」

「ええと、一本裏の通りに若者に人気のお店がいくつか。地図を出しましょうか?」

「いや、近くなら歩けばわかるだろ」

 そう言って、返事も待たずに鷹生はリナの手をとってもう店を出ようとする。

「え、鷹生? ちょっと待って、まだ今日の宿題も——」

「合間に休みをとるのが大事なんだろう? 嬢ちゃんの故郷の風習にも興味があるしな」

 そう言ってからりと笑われてしまえば逆らうのは難しい。それに、誰かとお茶の時間フィーカを楽しむのはやっぱり彼女にとっては大切な習慣づいたものだったので。

 こくんと頷いて手を引かれるままにのれんの外に出ると、低く笑いを含んだ声が耳に届いた。


「……市場調査って、結局デートに誘いたかっただけじゃ」


 思わず頬を赤らめてリナが傍らを見上げれば、ニッと口の端を上げ、こともなげに笑う眼差しとぶつかった。リナを見下ろすその瞳はごく楽しげで、けれどほんの少しだけ、ちらりと悪戯っぽい光が浮かぶ。

 ぼっという小さな音と共に微かに焦げ臭い匂いが漂ってきて振り返れば慌てたように前髪を払う七生の姿が見えた。


「うぁちっ⁉︎ ちょっと、火気厳禁‼️」


 叫ぶ七生に対し、くつくつと笑う鷹生にはかけらも悪気はなさそうではあったけれど、こんな悪戯で下宿先を失っては困るから、リナは鷹生にしっかり釘をさしておこうと胸に刻んだのだった。

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