東の果てで、恋を知る #文披31題 (2024)

橘 紀里

一 夕涼み

 この国の夏はじっとりと重い。リナは団扇であおぎながらうんざりと窓の外の空をめつけた。誰もがはしゃぎ踊り回る心地よい故国の夏と比べて、こちらは日が傾いてもいっかな冷める気配がない。


 おまけにちょっと油断すると、部屋の隅にも怪しい影がゆらりと揺れてちらちらとその存在を主張する。見てはいけないとわかってはいても、くすくすくすくすとこれみよがしに小さな子供の笑い声まで聞こえてくれば、視線を向けずにいるのは至難のわざだ。

 胸元で揺れる紫水晶アメシストのネックレスをぎゅっと握りしめると、冷んやりとした硬い感触が心を鎮めてくれるような気がした。初めてこの国を訪れる時に祖母から譲られたそれは、彼女の家に代々伝わるもの。祖母から娘へ、そしてそのまた娘へ。

 けれど、リナの母はそれを受け取らず、旅立ちに際して祖母から孫娘へと渡された。祖母から受け継いだすみれいろのリナの瞳は人でないものを映してしまう。兄たちとは違い、身を守る術を持たない彼女にこそ、これは必要だろうから、と。


「全然いてないっぽいけど」

「そりゃあ、異国の魔除けじゃあなあ。本邦のあやかしはむしろそんなきらきらしいものを見たら寄ってくるんじゃないか」

 からりと明るく笑う声に目を向ければ、もう見慣れた渋紙しぶがみいろの着流しで、無精髭の残る顎を撫でながらこちらを見下ろすたかの姿があった。この夏の暑さをものともせずに、涼しげな顔で彼女を見つめている。

「何でたかがいるのにが出てくるの?」

「そりゃあまあ、同類おなかまだしなあ」

 からからと笑う声は悪気はない。だが、ほんのわずか、その瞳に炎の色が乗る。ちらりと視線を向けられただけで、部屋の隅の影はびくりと震え上がり、そのままかさかさと小さな音を立てて本棚の後ろに消えていった。

「もうちょっと、根本退治とかしないの?」

「なあに小物だ。むしろ部屋が冷えていいだろう」

「放っておいて増えたりしたらイヤじゃない」

「虫じゃあるまいし、そう増えねえと思うがなあ。まあ気になるなら少し夕涼みにでも出るか」


 夕涼み、と繰り返した彼女に鷹生はただ笑って手を差し伸べる。大きな手は温かくて人のそれと変わらない。その手をとって立ち上がり、階段を下りると外は茹だるような暑さだった。

「どこが涼しいの?」

「夕涼みってなあ、涼を探して楽しむもんだ」

 うんざりした声で言ったリナに、鷹生はくつくつと笑いながら古書店街を進んでいく。たどり着いたのはいつかも来たことのある和菓子屋だった。軒先には竹製のベンチが置かれ、チリンチリンと鉄製の風鈴が涼やかな音を響かせている。

「ちょいと待ってな」

 言い置いて鷹生は一人で店に入っていく。リナはベンチに腰掛け、置かれていた金魚柄の団扇でぱたぱたと顔をあおぐ。風の通る日陰は確かに幾分過ごしやすい。なるほどこれが夕涼みか、と納得しかけた時、頭上からいやに間延びした音が響いた。


 チリ——ン


 ゆっくりと、風に揺らされたにしては不自然な長さの、それでも透き通るような風鈴の音。胸元のアメシストが警告するようにざわめいた気がした。


 ヒュウ、と暑気を振り払うような冷ややかな風が吹き抜ける。ぞくり、と背筋が冷えて立ちあがろうとしたがその時にはもう身動きが取れなかった。まだ明るい夕暮れのなかで、目の前にざわりと影が唐突に身をもたげる。リナの胸元にある石に吸い寄せられるように暗く澱んだ二つの穴——目を近づけて、蔓のような影を伸ばしてくる。


 魔除けの品だとは思いもせぬように、するりと伸びた蔓が紫水晶に触れる直前、ぼっと燃え上がった。蔓からそのまま本体の影へと延びた炎は瞬時に火勢を増し、後には何も残さず焼き尽くした。熱波のあと、ふうわりと冷えた風が吹き抜けて、またチリン、と風鈴が何事もなかったかのような静かな音を響かせる。

「……涼みに来たのに」

「涼しくなったろう」

 ぷうと頬をふくらませた彼女の上からからりとした笑い声が降ってくる。ついでにひた、と触れた手があまりにつめたくて、驚いて振り返ると片手に青く透き通る瓶を握った鷹生がにやにやと笑いながら見下ろしていた。

「どうした、化け物にでも会ったような顔をして」

「……鷹生のいじわる」


 炎を宿す瞳も、異形を焼き尽くすその炎も怖くはない。けれど、まるで人ではないような手のつめたさがひどく彼女を脅かしたのは、なぜだったろうか。

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