19  ヴァカンスの予感

 しばらく平和な時間が続いていた。オユンが朝食の準備をしているときのことだ。


金杭アルタンガダスに行ってみるか」

 シャルが切り出した。

「サンジャーが、あの古銭を、ぜひにコレクターに売りつけろと」


 月初めのいちに来ていた行商人、サンジャーから手紙が来ていた。

 手紙は、まず荘園の差配人ゼス・ドゥルゥのところへ届き、それからゼスが城へ届けてくれた。

 余所者よそものは極力、城に近づけないのが魔導士の方針だ。

 城への道は代々の差配人しか知らないという。そんな山道、誰も登りたくないというのが本当のところではないか。

 ゼスのことをノイは〈山羊乳屋やぎにゅうやさん〉と呼んでいた。たしかに山羊乳、その他も届けてくれる。


 それで、オユンは厨房で冷製スゥプを作っていた。

 シャルがオユンの仕立てた青灰色せいはいしょくの厨房着を身に着けて、イモの皮をむいた。次にオユンが、それを適当につぶした。そのまた次に、家令のハッロ・レカェケムがイモを裏ごし塩こしょうで味付けし、濃い冷えた牛乳と混ぜる。冷たさを持続させるのは、シャルのである。

 

 イモの冷製スゥプが仕上がると、家令は硝子ガラスの小ぶりの椀に満たして、食卓についたあるじにワゴンで運んできた。

 オユンも厨房用に仕立てた上着を脱いで、食卓につく。


金杭アルタンガダスの本領の中に、サンジャー商会の本店があるそうだ」

 シャルの話は続いていた。


「わざわざ蒸し暑い低地に出かけるのですか」

 家令は眉間にしわを寄せた。


「おまえは留守を守っていてくれ」

 シャルは、家令のハッロ・レカェケムを連れて行く気はない。城が無魔人になるのは、よろしくない。

「サンジャーからの手紙だ。読むか」

 オユンに、ぽいと書状をよこした。


 オユンは折りたたんだ巻紙の書状を開く。

 サンジャーの文字は、彼の見た目より几帳面だった。


『——例の古銭の話をコレクターにお話ししましたところ、

是非お譲りいただきたいと。

 他にも珍しき貨幣あれば、是非にとお申し出です。

 お越しになれば滞在費もろもろ諸費用、

その方が持つとおっしゃられております。  


 このサンジャーの名を出せば、入国審査も木戸御免フリーパスで御繋ぎいたします。

 ぜひ、この夏は、こちらで御過ごしになりませんか。

 蜜月のシャル・ホルス御夫妻を

金杭アルタンガダス流におもてなしいたします。

 甘く忘れられない夏となることでしょう——』


 あの古銭1枚が、コレクターにとっては、喉から手が出るほど欲しい品ということだ。

 だから両替商にねらわれもした。


 シャル自身は古銭の価値には心動かされる様子がなかった。なのに、『甘く忘れられない夏』という部分に、びんびん反応した。

というものだな。これは」

 そういうものに憧れる感性を持っていたとは知らなかった。


「しかしですね。あなた、金杭アルタンガダスに嫁ぐ銀針ムング・ズー日女ひめの隊を襲っておいて、堂々、金杭アルタンガダス領に行けるもんなのですか」

 オユンは物申した。


「別に。些細ささいなことではないか」

 しゃあしゃあと、シャルはのたまった。


「わたしは死んだことになっているんですけど」

「そうだ。そのつもりで」

「どういう」

「魔物の奥方だ。深く詮索してくる者はいないさ。いざとなれば、けむに巻いて退散できるしな」

 シャルは楽しそうだ。


 結局、押し切られる。

 


 シャルのことはオユンには、まだよくわからなかった。

 夜、ふと目が覚めた時など、シャルはこちらを見ている。彼は魔物なので夜が来るたび、本当は眠る必要はないのだ。おつきあいで寄り添ってくる。

 たまにオユンが軽く、いびきをかいていたと、鼻をつままれて起こされる。


 あれからも、シャルはオユンにあるじの寝室に来ることを要求する。それで、あるじの寝台で寝入ったオユンを起こすのなら、最初から呼ぶなと思う。


 ごく、まれに夜中にオユンが目覚めて、シャルが寝入っているときがある。

 そんなときには、オユンはシャルの寝顔をしばらくみつめる。


 彼は魔物だ。

 根本的にちがう生き物だ。

 自分の範疇はんちゅうにおさまるものではない。

 それを忘れないように。

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