20 旅は唐突に
その日の昼過ぎ、「さて。行くか」、ちょっと散歩に行くような言い方で、シャルはオユンを抱きしめた。
「待っ?」
オユンの言葉もむなしく、虹色の光彩がひらめく。オユンの意識が遠のいた。
——そして、軽い揺れにオユンが、ぼんやりと目を覚ましたとき、見知らぬ少女が真向かいにいた。
さっきまで、城にいたはずだが窓の外の風景が動いている。砂利を車輪が踏みしめる音がする。
右側のぬくもりにオユンが目を向けると、シャルが座っていた。
「君は、すぐに気を失う」
薄笑いしている。
「!」
思わず立とうとして、シャルに腰ごと抑えられた。
「馬車の中だ。落ち着いて」
「えぇぇ⁉」
落ち着けというほうが無理だ。
「
シャルは、オユンの髪にキスを落とした。
「なっ、何の準備もしていないのに」
「かわいい下着は向こうで買えばいい」
「そういう!」
問題じゃないと叫びそうになって、真向いの少女の視線に黙る。古いお城の肖像画から抜け出てきたような美少女だ。誰だろう。
「古銭の入った壺は、ノイが持ってきたヨ」
少女の足元に壺が置いてあった。
「ノイなの⁉」
「だヨ」
乳白の肌、目元、金の巻き毛。ノイの面影がある。
「奥方付きの侍女ってことにしようかナって」
(いやいや。どこから見ても、おひめさまでしょ)
小さな立ち襟が、つつましやかなブラウス。身体のラインに沿った衣装は、腰を細身のベルトで飾っている。上着の袖は肩の部分で少しだけふくらみ、袖丈は実際の手の長さより長く、途中の
「それ、
オユンのほうが侍女っぽい。
(いや。生粋の侍女でした)
「まぁ、女のなりをしたからって、精霊、
ノイは、きゃはっと小首をかしげ笑った。女子になり切っている模様。
いつもの少年の恰好より輪郭がはっきりとしているのは、衣装効果だろうか。
「衣装だけ
オユンは細かいことが気になった。
「みたいだな」シャルが話に加わってきた。「御者は、まったく気がつかなかった。着ているものは精霊側に取り込まれてしまうのだろう。店の棚から、かっぱらいし放題だ」
「え。え? もしかして、今までしてました?」オユンの目が三角になる。それにノイは、「そっかナ」と、無邪気に答えた。
「もう。しないで」オユンはノイの手に両手を重ねた。「う、うんー?」ノイは、いまいち飲み込めないようだ。
「オユン。人の定義に精霊を当てはめるな」シャルはオユンの肩に手をかけ、座席に引き戻した。
ガタンと大きめの石を馬車の車輪が跳ねた。
「さぁ。そろそろ
シャルにうながされて、はめ込み
城壁都市の一端の長い長い城壁が見えてきた。城壁は尖塔と尖塔の間を繋いでいる。城壁は三重構造になっているはずだ。
(内城壁は、しっかりと厚みが取られ見上げるような高さだ。内城壁と外城壁の間には、ゆったりとした幅の通路が設けられている。外壁も、しっかりとした厚みと高さだ。その外側に胸壁、外城壁の外には、
そう事前に、オユンは学んだ。
先程から見えている見事な尖塔は物見塔だ。内壁と外壁に交互に30アルダ(48メートル)ぐらいに配置されているように見えた。
(通常の門は一般用と軍事用の門が各5つで、合計、10の門が——)
数ヵ月前なら。
シャル・ホルスにさらわれるという不測の事態が起きなかったなら、
複雑な胸中で、オユンは城壁と尖塔を眺めた。
「さすが大国だな。入国審査が半端ない」
シャルが窓の外を見て、つぶやいた。
ゆっくりと馬車が速度を落としはじめていた。
城壁都市への入り口に馬車が近づくにつれ馬車の列、徒歩の人の列が並んでいる。異国人の入場が許された門と、かつ馬車が通り抜けられる門はここしかなく、いったん足止めさせているようだ。
「魔法の
シャルはサンジャーの書状を
そして、馬車の右側の扉を半開きにして、列誘導をしている兵士に書状を、ひらひらと振って見せた。
兵士がやってくる。
「
「どれどれ」門番はサンジャーの書状を覗き見た。その手紙の差出人の
「ぞっ、どうぞっ。そのまま、お進みくださいっ」
入国審査の列をオユンたちの乗った馬車は、どんどん追い越した。
「おやおや。効果絶大だ」
シャルは満足げに、騎馬の兵士が馬車を先導するのをたしかめた。
「沿道の民衆に手を振ったほうがいいかな」
「悪ノリ、やめてくださいっ」
やりかねないシャルの右手を、オユンはあわてて両手で抑え込む。
「こんな馬車の中で押し倒してくるとは、情熱的になったな」
「なってない!」
オユンはシャルを睨みあげ
じたばたしているうちに、馬車は大通りとおぼしき道を進んでいるようだ。
そのうち、いっとう大きな館の前に馬車は止まった。サンジャー商会という横文字の看板が掲げられている。
「ようこそ。
馬車の扉が開けられ、聞き覚えのある声に迎えられた。
ノイが真っ先に馬車を降りていった。それは誰も
シャルが先に降りオユンの手を取るために振り向く。オユンは息があがって髪が乱れている。恨めし気に見てくるオユンに、シャルは実に楽しげに目を細めた。
「長旅で疲れたことでしょう」
久しぶりに会うサンジャーは、
「いえ。さほどでも」
オユンも笑顔で答えた。
旅の間、ほとんど気絶していたとは言えない。
「お荷物をおろしましょう」
サンジャーの一言に、わらわらと腕っぷしのよい男たちが集まってきて、馬車の屋根から一抱えほどの木箱を数個、降ろしはじめた。
「荷物はこれだけですか」サンジャーの問いに、シャルが、「あぁ。中身は氷だよ。めずらしくもなかろうが手土産だ」と、事もなげに言う。
「なんと、まぁ」
サンジャーは目を丸くした。夏の季節に低地の都市では、氷は金貨と同等の価値がある。
「お心遣いありがとうございます。それで、
「やるよ。物好きもいたものだ。祖父の代から、ずっと食堂の壺の中に放置していたものだぞ」
「大勢の者にとって無価値なものが、ただひとりに宝であることは、よくあることです」
サンジャーは商人らしく、へりくだり過ぎのお辞儀をした。
〈参考〉
1アルダ=1
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