11  ぶちぎれる奥方

  君の銀の針に糸を通してあげよう

  だから この扉を開けておくれ


  いいえ 

  銀の針には金の糸

  それ以外は通さないの



 家令のハッロ・レカェケムの話で、吟遊詩人ぎんゆうしじんうたっていた歌をオユンは思い出した。子供の頃には意味がわからなかった。今ならわかる。




 その真夜中のこと、奥方の間の応接室側の両開きの扉が、ばたんと開いた。

「どうして、来ない!」

 シャルがリネンのシャツ姿で立っていた。


「……?」

 寝ぼけまなこでオユンは寝台から身を起こした。

 部屋の窓の板戸は締め切られていたが隙間から月の光が差し込んでいて、壁はその光を含んで青白く発光している。


「新婚なんだぞ」

 抑えめの声だが魔導士は、あきらかに怒っているようだ。


「——今、行こうとしていたところです」

 オユンは、出前のような言い方になった。


「そうか」

 くるりと背を向けて、銀の髪の青年は戻っていった。

 扉を開けたまま。


(来いということね)

 オユンは起きた。

 寝台の横にそろえてあったイグサで編まれたスリッパに、オユンは素足をすべり込ませる。 

 結局、魔導士のチュニックをオユンは寝間着にしている。



 奥方の間とあるじの間の真ん中にある応接室を、オユンは抜けて行った。   

 壁に寄せたコンソールテーブルには、橙色だいだいいろの灯の岩塩ランプが置いてあった。

 はるか昔に海がせき止められて、水分が蒸発し塩分は沈殿堆積し、土地の隆起を繰り返した末に山脈の岩塩の層となった。海から遠く離れた、このような地で岩塩が採取される所以ゆえんだ。

 その岩塩の塊をくりぬいた中に、どういった仕組みなのだろう、ぼんやりとランプの中心部は輝いている。置いてある応接の椅子とテーブルを避けられるほどの明るさはある。

 あるじの間の両開きの扉は、通り抜けられるほど開けてあった。

「お邪魔します……」


 ここの石壁も窓の板戸の隙間から差し込む月の光を受けて青白く、常夜灯の役目を果たしていた。

 それで、寝具をかぶって横になっている男の背が見えた。

 オユンの心音が高くなっていく。


 十二日女じゅうにひめのお妃教育の一環で、そもそも自分が教える側だから知識はある。

 ただ実践する場はないし、実践しようとも思っていなかった。

 あまりにも宮廷家庭教師の給料がよくて。

 その採用の際に署名させられた契約書の一文が、『生涯独身』『どこまでも王の子女に仕える』であったのだ。

 あのまま十二日女じゅうにひめとともに金杭アルタンガダスに行っていれば、日女ひめの侍女として忠誠を尽くし、日女ひめに御子が授かれば、その教育にたずさわり、最後は女子修道院という道程が確約されていた。

(たしか、契約に違反した際は違約金とられるって書いてなかったか)


 あれこれ考えていたら、寝台の左側に片膝かたひざをかけたまま静止してしまっていた。

 シャルが眉をひそめて、こっちを見ていた。

「おまえはじらすのがうまい」


 そんなことは学んだ覚えがない。

「……」

 返す言葉が浮かばず、寝台に横になった。

 縁起でもないが棺桶かんおけに横たわる姿勢だ。それ以外の、どんな体勢をとれるというのだ。

 視界には天蓋てんがいの天井があった。それをさえぎったのは魔導士だ。影のようにオユンに覆いかぶさり、彼のくちびるより先に、銀髪がオユンの顔をくすぐった。それから、キスの小雨が降ってきた。

 通り雨か、嵐の前触れか。

 強くなったり、弱くなったり。

 シャルにキスされた部分は冷水を落とされたように一瞬、冷たくなるので、オユンは、ぴくりとしてしまう。

「——もしかして痛い? 加減を練習しているのだが」

 

 と言われて、オユンは自制心を取り戻せた。

 このひとは勤勉なのだろう。

 わたしはってことだ。


 そう思っても身体からだはふるえる。

 息が小刻みになる。苦しいかもしれない。


 シャルのキスが冷たいのは、氷結の魔導士であることと関係しているようだ。

 感情が高ぶると、術が発動してしまうということなんだろうか。

 キスは、だんだんと下へ降りて行った。

 しようとしていることはわかる。

 ぱんっと閃光のような虹色の光彩がはじけた。

 そして、またもオユンは意識を手放してしまったらしい。




 そして、いきなり両肩をつかまれ、ぐらんぐらん揺すぶられて、オユンは目覚めることになった。

「しっかりしろ! オユン! 生きてますかー」


「アルジ。意識ないとしたら揺さぶっちゃダメだ」

 ノイの声だ。

「落ち着いてください。あるじさま」

 この声は、家令か。オユンは、うっすら目を開けた。


 なんだか身体からだが重い。

 目の前に魔導士の顔があった。

「わたしがわかるか」

「シャル……」

 オユンが名前を呼ぶと、抱きしめられた。

「朝、起きたら、おまえ、血だらけで、死んだかと思った」

「え……」


「奥方さまのお身体からだが、お健やかな証拠ですよ、とあるじには説明いたしました」

 家令まで、いるではないか。なんだ。なんだ。オユンは戸惑う。

「月のさわりでございますよ」


(あ。身体からだが重いと思ったら)

 どうやら、オユンはあるじの寝台を盛大に汚したらしい。

「……すいません」


「いえ。申し訳ないのは、こちらのほうです。何のお支度もしておらず。応急処置的に古布を用意いたしましたが」

 腰回りがやけに分厚いと思ったら、オユンは男物の下履きの中に古布を詰めたものを履かされていた。

「えっ? えっ。これ、誰が履かしてくれたんですか。まさか」

 オユンは青ざめて、家令の顔を見た。


あるじがなさいました」

「よかった。いや。あんまりよくない」

 恥ずかしさに、オユンは悶絶した。

「だからっ! 下着がないと困るんだよぉぉぉ」

 涙が出てきた。

 うぅ、と、声も出た。

(もうもうもうもう)


「女、さらうなら月のさわりのときの対策とか、しとけや!」

 ぶちぎれた。

十二日女じゅうにひめに一生、仕える前提で、支度金もらっちゃったのに! 契約不履行で違約金とられちゃったら、どうするの! 宮廷家庭教師の職につけば、一生食いっぱぐれないって、必死で勉強もがんばったのに! わたしの人生設計がっ」


「——と、このように、月のさわりのとき、個体差によっては、その前から女性は精神不安定な症状を示します。その間は夫婦の営みはひかえ、女性には、あたたかな飲み物を処方するなど、身体からだと心が落ち着く環境を作ります」

 家令が講義をはじめた。


「冷やすのなら得意分野なのだが」

 シャルが大真面目に聴講している。


「……わ、たしのぉ、じんせぃ人生

 ひっくひっく、しゃくりあげるオユンの背中をノイがさすってくれた。それを見たシャルもオユンの背中をさすりだす。

「だい、じょうぶかな」

 その仕草が弟のひとりに似ていて、ふいにオユンは田舎の実家のことを思い出した。

 オユンが物心ついたときには両親はいなかった。

 実家と言っているツァガントルー家は、正確には養子先だ。引き取られた子供たちは総勢十数人。数が定まらないのは、出入りが激しかったからだ。

 オユンは自然とお姉さんの立ち位置だった。割と早い時点から、いつも、どのきょうだいかをおんぶしていた気がする。

 十二日女じゅうにひめの輿入れが具体的に決まってから、時間はあったはずだったが実家へは帰る時間は作れなかった。弟や妹たちが、銀針ムング・ズーを発つとき、沿道で手を振って見送ってくれた。

 ほんの数日前のことなのに、ずいぶん昔のことのようだ。


「——症状がっ、ひどいときは、処方された漢方薬を飲んだり、していたので……」

 その薬も馬車に置き去りにした鞄の中だ。オユンは嗚咽おえつをおさえようとする。

「大、丈夫です。横になっ、おけば……」

 そう、言葉では言ってもオユンの胸の奥から、せりあがってくるものがあった。まさに決壊した川のように目からは涙があふれた。

 いく筋も、いく筋も涙は横たわるオユンのほおから首筋を伝った。

 それを見下ろすシャルの顔が、みるみる、しょげていく。彼は、とてもわかりやすい。


「わたしは、わたしの花嫁に、ひどいことをしてしまったんだね」

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