10  乙女の必要経費

 財布がない。


「お財布っ」

 オユンは青くなった。財布は首から下げていたはずだ。


「ここに来たとき、わたしが着ていた服はっ」

 あわててノイにたしかめる。


ほこりをはらって、新しい長櫃ながびつに入れたヨ。シロウト素人が洗濯したら縮みそうだなって。高級衣料品専門の洗たく行商人が村に来たときに出そうかって」

 オユンは部屋の隅に置いてある、新しい長櫃ながびつの中の衣装をたしかめたが、財布はなかった。


 自分の記憶を巻き戻してみる。

 食堂へ行く前に、4日間着通していた服を脱いだ。

 あのとき、首に財布の紐の感触はなかった。

 どこかで落としている。


「そもそも、わたし、この城にどうやって来たの」

 砂漠から、この魔導士の城に至る記憶がない。


「アルジが抱きしめて来た」

ノイの言葉にオユンは苦笑いした。

「……移動は馬車で?」

「アルジは黒雲に乗ってる」


(ファンタジぃ)


 では、その行程で落としたにちがいない。

(あぁ)

 オユンは気が重かった。自分は一文無しだ。ここから解放されたとしても、すぐに路頭に迷う。

 お願いしなくてはならない。魔導士に。


「お金が欲しいんですけど」

(ストレート)

「おこづかいをください」

(パパじゃない)


「買いたいものがあるんです」

「必要なものがあるんです」

「月末までには返しますから、お願いします!」

 だんだんと借金の申し込みになってきた。




「財布を失くしました。もとはと言えば魔導士さまのせいです!」

 夕餉ゆうげの食卓で、オユンは勇気をふりしぼった。

長櫃ながびつにある服は質はよいのですが古い型で、普段着に向きません」

 これも言った。


「——団欒だんらんの時間にする話が、金のことと不平不満か」

 ナプキンで口をふきながら、魔導士は形のよい眉をひそめた。


団欒だんらん。さらってきた女と、DAN、RAN)

 オユンは思わず顔がひきつる。


「意外と文句が多い」

 ふぅ、と、ため息をついて、魔導士は長い食卓の真ん中あたりに視線を落とした。長い食卓の短い辺に、ふたりは向かい合って座っている。


 オユンの胸に、さざ波が立つ。

(失望した? チャンス! この波に乗って、『ごうつく女め! この金貨の袋を持って、とっとと失せろ!』とか、言って。早く!)

「……」

 息を詰めて言葉を待つ。


「——おまえ」

 魔導士の碧眼へきがんがオユンを射た。

(キタ)

「わたしのことはシャルと呼べと言ったはずだ」

 出て行け、じゃなかった。


「そうでした」

「……」

 シャルは黙った。これは待っているゆえの沈黙だ。


「……シャル」

 オユンは小さな声で呼んだ。


 ぱっと、魔導士の顔に、おひさまの輝きが浮かんだ。

 わかりやすかった。魔導士は、シャルという男は、わかりやすかった。

 ものすごく、ご機嫌になった。


(どうしよう。うちで飼ってた犬よりわかりやすい)


「長いこと、この城には女主おんなあるじがいなかった。わたしも何をそろえたらよいかわからなかった。おまえに合うものをそろえるといい。そうだな。この花瓶に入っている小銭は自由に使っていいぞ」

 おもむろに、魔導士の背にした飾り棚の置物のひとつ、フレスコ画を彷彿ほうふつとさせる錫釉陶器すずゆうとうきの壺をシャルは手に取り、食卓にひっくり返した。

 じゃらじゃらと、くすんだ硬貨が出てきて小山となった。


(釣銭を貯めとく派⁉)


 小山から適当な貨幣を1枚、シャルは手に取るとオユンのところへ来た。

「これで好きなものを買うといい」

「……すいません。これ、いつの時代の硬貨ですか」

 オユンは、右の手のひらにのせられた貨幣を見て困惑した。見たことのない貨幣だ。


「あの、あの、わたしが見てもいいですか」

 オユンは席を立つと、長テーブルの上の硬貨の小山へと駆け寄った。そして、腰をすえて硬貨を調べはじめた。

 結果、今の時代で使えるのは一握りしかなかった。

「今度、街の古物商にでも鑑定してもらったらどうでしょうね」


「——それは、わたしと街へ出かけたいと誘っているのか」

「誘ってません」

「——長櫃ながびつにある服にケチをつけて、わたしに新しい服を選んでほしいのか」

「選ばなくていいです」


 この男は妄想でできているのか。




「まぁ、ある意味、魔導とはイマジネーション想像力ですから」

 家令は言った。


 オユンは家令を頼ることにしたのだ。シャルが風呂へ入っている間に、こっそり話しに来た。

 一握りの小銭では、セットになった胸バンドとショーツは買えない。



 家令の私室は、食堂と同じ低層階にあった。

 振り子の柱時計に揺り椅子。時期でない暖炉。チェックの膝掛け。

 おばあちゃんの家を訪れたときのような安堵感あんどかんが、あった。


 家令は揺り椅子に腰かけてチェックの膝掛けをかけて、くつろいでいた。


「改めて自己紹介をいたします。わたくしはハッロ・レカェケム。シャル・ホルスさまのお父上の代から仕えております」

 オユンは、パッチワークのクッションが置いてある濃茶の木の椅子をすすめられた。 


「さて、オユン・ツァガントルー嬢。あなたは今、困惑し憤怒ふんぬ、もしくは絶望の淵にある」

 家令は、ふぅと長めのため息をついた。 

「ですが、魔神の出来心であるとしても、わがあるじ、シャル・ホルスの奥方となったのですから、お話しておきましょう」


 あ。この人、校長先生みたいだ。ふと、オユンはまな時代を思い出した。


「想像する力が大きいほど、魔力が増大するのです。ですから、わがあるじは並ぶもののない魔導士となられました。こじらせまくった純潔が、あの方の魔力の源です。ですが、さすがに一生というのは限界がありました。それで、わがあるじの祖父であった大ヤム・チャール、偉大なる魔導士は、シャル・ホルスさまが、佳き日に佳き伴侶を得られますように根回しされたというわけです」


 大ヤム・チャールという魔人は孫の行く末を心配する、ひとりのじいでもあったのだろうと、オユンは推察した。


「その根回しは見事に空回りいたしました」

 家令の目は近くで見れば見るほど暗い色だった。曇り空のように物憂げだ。


「シャル・ホルスは、あなたの銀の針に金の糸を通した——。宿命の相手ならば、一生を添い遂げられることでしょう」

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