12  青い空の下

 月のさわりが、きつかったのは3日ほどで、オユンは普段の体調に戻った。

(汚したものは誰が始末したんだろ)

 カッと顔が熱くなる。


「シーツや服を台無しにしたな。とっとと出ていけ!」と言われることを想定したが、シャルは何も言わなかった。


 この一週間、オユンは適度に放っておかれた。

 魔導士は必要以上に接触してこなかったのだ。

「アルジはねぇ」

 ノイが教えてくれた。

「人の女の月のさわりなんて知らなかったからねぇ。びびってんのさ」


 オユンが休んでいた枕元の脇机には、薄めの本が数冊、置かれた。

 退屈しないようにとでもか、シャルが置いていった。それも、すぅっと現れ、すぅっと去って行った。


(この本! 魔族の本? 希少なものじゃない?)

 オユンは本を手に取り、ふるえた。


 本自体が希少なものだ。古い時代においては、本は写本でふやすしかすべがなかった。そのための職業人がいたほどだ。次には活版印刷の時代になった。活字を並べた組版による印刷だ。単色刷りのものなら、ちまたにも普及しはじめている。

 

 今、オユンの手にある本。書いてある文字は、ちんぷんかんぷんだった。絵が多めで多色刷りだから、子供用の本だと思う。


(あぁ。知らないことって、たくさんある。これ、読めるようになりたいなぁ)


 それにしても、魔導士シャル・ホルスは何を生業なりわいとしているのだろう。


(魔導士であるだけで生活は成り立つものかしら)


「このあたりの領地を治めている」

 朝のひと時、食堂でシャルはミルクたっぷりめの茶を飲んでいた。

「領主さまだったんですか」

 オユンも、お相伴している。


「祖父が、ふもとの集落にかけあった。集落ごと凍らせてやると言ったら、いろいろ都合してくれるようになった」

「——」(それって、恐喝きょうかつというんじゃ)


「これから、そこへ行く。オユンもついてくるといい」

「わたしも⁉」

「おまえの物をそろえに行くのだ。おまえが行かないでどうする」


 それで、また、シャルの服を借りることになった。

 山道はドレスでは歩きにくいから。オユンの靴も履いていた礼装用の靴、ひとつきりだ。やわな靴底のそれでは、クマに遭遇したら走って逃げることもできないと、シャルは言った。(クマ、いるんかい)

 朝食後、支度したくが出来たら城の中庭に来いということだった。


 オユンは、小さな立ち襟の白いシャツをチュニックのように着て、色褪せた紺色のズボンを履いた。くたくたで、かえって着やすい。ズボンの腰は思い切りベルトでしぼった。ズボンの裾、シャツの袖は折り返す。足元が女物の刺繍をほどこした靴でなかったら、きゃしゃな少年に見えなくもない。それに灰色のフード付きの長衣ちょういだ。

(かなりの不調和感ミスマッチ。異国風?)


 中庭に行くと、シャルはもう待っていた。黒いフード付きの長衣ちょういは、はじめて会ったときにも着ていたものだろう。


「……うむ。よい」

 シャルが、オユンの恰好を評価した。絶対、女の衣服の流行なぞ知っていなさそうだが。


「ぴゅーんと飛んでいくのですか」

 その靴では岩山は歩けまいと言ったのは、シャルだ。

「飛ぶは飛ぶ。しかし、それだけでは味気ないかと思って」

 シャルは、空を見上げて風を読んでいるようだった。

「現実的に高度の高いところをと、おまえは気を失ってしまうだろ」


 オユンは目の前の男を、まじまじと見た。

 日の光にやわらかく包まれている男は、ふつうの男にも見えるが何百歳かの魔導士だ。人とは種が異なる魔物。気を抜くと忘れそうになる。


「村まで、歩けば、どのくらいかかるんですか」

「下りだから、2時間はかからない」

「うっ」

 思わず、ひるんでしまった。田舎育ちのオユンでも、最近は歩いていない距離だ。

 それをシャルに見透かされた。

「奥方は文句たらたらだなぁ。病み上がりだし、今日は特別だ」

 シャルは自分の黒い長衣ローブの中へ、すっぽりとオユンを包むように引き寄せた。

 そして、かるくステップを踏んだ。


 城の中庭から城壁を超えて、100メートルほどは先の大岩の上まで、一気に移動した。

「ひょえ」

 思わず、オユンは声が出てしまった。

「小刻みに飛ぶことにするから。最後の10分は歩いてもらう」

「はっ、はい」

 オユンはシャルの胸にしがみついた。



 その空中飛行は、輪舞曲ロンドを踊っているようだった。


 オユンは18歳のデビュタント舞踏会を思い出した。

 下級貴族の養子では、とうてい出席できない宴だったが、十二日女じゅうにひめの遊び相手の内定者という身分で出席した。

 王宮での行事を理解する必要があったからだ。

 あのときエスコートしてくれたのは、騎士になりたての青年だった。彼は緊張するオユンの手をしっかりとひいて、見事にリードしてくれた。

 きらきらと天井で輝いていた、水晶のシャンデリアのきらめき。


 ——そして、今踊る輪舞曲ロンドは、青空の下だ。 



(魔導士とは、こういう風景を見ているのね)


 高い場所から見る景色は不思議だ。

 森の木々の間を鹿の親子が飛び跳ねていくのが見えた。

 風と同じ速さで移動する。



 最後の10分のために、二人が降りたのは泉の側だった。

 シャルは長衣ローブの内側から、すず製のカップを魔法のように出してきた。いや、魔法だったのか。それで、湧水の表面をそっとすくって、オユンに渡してくれた。

 まろやかで甘さまで舌に感じる水だった。

「おいしい!」

 思わずオユンがつぶやくと、シャルが、そうだろうという顔をした。

「だから、大ヤム・チャールは、ここに住むことにした」

「大ヤム・チャール」

「わたしの祖父だよ」

 

 一息入れて、10分歩くと集落が見えてきた。


 オユンが予想したとおり、山脈に囲まれた谷地に集落があった。

 野生の茂みばかりの木々から、人の手が入った林になり、野道になり、まず、石造りの壁の高い塔が見えてきた。高い塔に家がくっついているような造りだ。

 オユンの育った田舎とはおもむきは異なるが、建物の煙突から煮炊きの煙だろうか、ほんわりと上がっているのを目にすると、胸に、じんと来た。


「いちばん大きな塔があるのが、差配人さはいにんの館だ。まずは挨拶してこよう」


 二人は、集落のいちばん端にある家の前を通過した。

 ばさっと音がして、その方を見たら驚愕きょうがくって顔をした村人が、ジャガイモのカゴを取り落としていた。

「わぁぁ」と叫んで、走って行ってしまった。


「……わたしたちって歓迎されてます?」

「さぁな。いつもはレカェケム家令に頼んでいるからな」



 不安だ。

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