二〇二四年三月二六日午後六時

 ショッピングモール内「あの店」勤務最終日、相棒は浜迫さんだった。ショッピングモール入館証の返還手続きも兼ねていた。勤務前、気になっていたパワーストーンのブレスレットをテナント割引で購入したかったが、あえて何も買わずに更衣室に向かった。焦って購入したところで、満足な買い物には決してならない。ショッピングモールの駒になるだけだ。自分はそれを最も避けたかった。

 テナント割引が利用できなくなることは惜しいが、払えるものがあまるほどあれば気になることではない。そのうち購入するだろうと言い聞かせて買わない方が、もっとも大きな節約となる。駒ではなく人間として消費するための防衛策だ。

 しかし、健吾さんに関しては、私が交際を受け入れるまで待ってくれた真摯さに相応しい言動ができなかった。

「田下っちから聞いたけど、彼氏、政治家なんだって?」

 惚気のろけ話を聞かされてうんざりしていた、とも言ってきた。浜迫さんの言葉が真実であれば、田下さんの笑顔という仮面は真に受けられるものではなかった。陰で浜迫さんとの間でどのような会話に展開したのやら。

「気をつけんばよ。政治家なら新興宗教に入れ、献金しろ」って言ってくるかもしれんけん」

 思い込みも度を越えていると思ったが、自分は否定できなかった。交際日も浅く、互いの仕事を理由に、会う頻度が少なすぎた。

 職業柄珍しいことではないのかもしれないが、健吾さんはあまりにも人当たりが良すぎた。ガイドとしてのリサーチのために車を出し、半日自分の都合に合わせてくれた。次第に彼の魅力が虚像ではないと知るのだが、当時は浜迫さんの戯言を聞き流すことで精一杯だった。

「万が一ダメだったら、下半身を攻撃すればいいので」

 自分にその度胸はなかったが、浜迫さんを表面上安心させる効果はあった。彼女なりの不器用な心配だとしても、告白を受け入れた勇気までも否定されたくなかった。

 また、面識もない健吾さんについて、あれほど妄想が膨らむものだと怒りと悲壮感が治まらなかった。ショッピングモールという、一種の箱の中に納まり、固定の人間としかコミュニケーションを取らないとああなるのか。自他ともに枠からはみ出ることを許さない。

 月初め、残りの有給消化申請をなさいという彼女の指示に従った。ガイド業ゆえに週五日勤務ができないため、また半年程度しか働いていない自分には有給自体がなかった。それを知りながら、彼女の上司にあたるスーパーバイザーが自分をバカと見なす導きをした。

「ねぇ、私恥をかいたんだけど!」

 適当に聞き流しても、彼女の憤慨は治まらなかった。

「大体、毎日勤務していないのに、有給なんてもらえるわけないじゃん。しかも入社して半年しかいないのに、何考えているの。瀬谷さんのこと、絶対にバカな子だと思っているよ、私の上司は」

 自分こそ、憤慨したくなった。バカと見なされる職場で働きたいアホなど、いるはずもない。ただし生活が懸かっていれば、自分一人のために嵐を起こすわけにはいかない。それがショッピングモール内での「正義」だからだ。当時の自分にとっては給料を漏れなく受け取ることが「正義」だった。彼の自尊心を守る力がなくて悔しかった。彼氏ができたという同じ報告でも、バイト先の飲食店では大いに祝ってもらえたというのに。飲食店の給料については福岡営業所が管轄しているので、上司である調理長には権限がない。それでもシフトを可能な限りシフト時間数を増やしてもらい、まかないも男子たちより多く食べさせてもらっていた。その飲食店を含む「あの店」以外の世界を知っているからこそ、腹底からの憤りを抑えられることができなかった。

「給料明細の数字表記がめっちゃ分かりにくいです。この書き方なら、勤務一年目のスタッフは誰だって勘違いしますよ」

 浜迫さんは渋々と会社特有の明細を解説してくれたが、自分の心は晴れなかった。彼氏についても理性を保っている、しっかりと選んだ人だということをさりげなく伝えたが、彼女の心には響かなかった。「政治家」という肩書が良くなかったのだ。そうして、私生活までもショッピングモールで築いた枠に収めようとする。箱や長崎県の外では、多様な生き方が認知されているというのに。

 そんな自分は自分の憤りすら率直に伝えられず、消費者の列を捌くことに専念せざるを得なかった。午後九時の閉店まで、自分の不甲斐なさを呪うしかなかった。

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