二〇二三年七月二〇日

 日本では、血液型信仰の強い人が多い。大衆に言わせると、自分は典型的なO型、つまり大雑把の覇者だ。自分はそのような新興宗教まがいの論理を一切信じていなかった。O型である自分を産んだ母もO型だが、周囲の人たちにA型と思い込まれている。母はそれほど時間や物事に対して几帳面、かつキレイ好きなのだ。その母から自分が生まれたこと自体が一種の謎だと言われる。自分にとっては、血液型という一つの枠組みで人を判別する心理こそが謎だが。

 それでも最近、少しばかり血液型理論を受け入れようかと思い始めていた。「あの店」に一年以上勤めているスタッフは全員A型。かつ全員が細部まで指示をしっかり守り、変えようともしない。また「きっちり」を守るために自らの犠牲を厭わなかった。その精神に理解できていない自分のみがO型。少しは世間の流れに素直に応じる機会ができたというわけだ。

 きっかけはクレジット決済の控えという、小さな紙きれだ。

クレジット決済時、ショッピングモールでは三枚の控えが発行される。購入者用、テンポ控用、そしてクレジット会社控え。最後の一枚はショッピングモールの経理担当者に渡る。それ以降の事務処理に関してはテナント従業員である自分が知る由もない。この三枚目を誤って購入者に手渡してしまったら、サービス地獄の始まりだ。

 売上報告として店舗控えのコピーを提出、経理担当者が一時的に受けつけるも、最終的にはクレジット会社の控えを提出しなければならない。そのためには購入者に返却してもらうために来店もしくは郵送してもらうしかない。またしてもショッピングモールのサービスカウンターにて、顔の見えない相手に謝罪。住所と郵便番号を聞き出し、お詫びの文と返信用封筒、切手を同封。切手代はこちらで立て替え、控えが届いて初めてテナントから経費として処理、切手代が手元に戻ってくる。封筒や便せんに関しては完全に自己負担。自分は幸いどちらも使いかけを消費できたが。自宅からショッピングモールへ赴き、わざわざ制服に着替える労力など、社員もテナント従業員も知ったところではない。ガイドの仕事で活かす情報のリサーチであれば、その瞬間は無給でも後のチップとして還元されるが。時給も一一〇〇円にしては代償が大きかった。

 そうしている間に、自分の身体に変化が起きた。自分は三年ほど定期的に内科クリニックに通っている。上の血圧が一五〇台で維持できていたが「あの店」に入社して以来、体が熱いと感じることが増えた。また血流もつま先から頭に向かって逆流も感じていた。それもそのはず、この月に測定した血圧、上が一八〇、下が一三〇だった。このとき自分は三十五歳の未婚、出産も未経験。高血圧になる理由がないと主治医が嘆いた。

 その後血圧を下げる薬を処方されたが、症状は一向に改善されなかった。むしろ苛立つことも増えた。気が焦ることも「あの店」への出勤のたびに増えていた。また、どれほど体調が優れなかろうと、シフトを代わってくれる人がいない限り休むことなどできない。

 浜迫さんに至っては、自身の公休日を死守する。一日八時間から十時間ほど働いていれば、人間の心理としては当然のことではあるが。そうなれば自分は熱が下がらずとも、勤務中消費者の前で倒れないようめまいと精神的に格闘するのみ。退勤後の記憶はほぼない。無事に帰宅できるも、トイレの洗面台で使用したハンカチを制服のポケットに入れたままということが何度もあった。持ち帰る度に、安物洗剤の洗浄力に感謝した。

 自分の苛立つ要素はそれだけではなかった。

 自分は面接時、あらかじめガイドの仕事を最優先にすると浜迫さんに告げていた。彼女も承知の上で採用したと踏んでいた。しかし夏休みが始まる七月の直前、出勤可能数を増やしてほしいと言われた。この月、三時間コースのガイド案件を四件ほど受けていた。いずれもグルメがテーマということで。

 それなりの情報収集に時間を割かなければならなかった。四季の変化が顕著な国ゆえに。グルメに関しても、四季による違いは例外ではない。そうは言っても、自分は未だに海外へ行ったことがないので、日本との違いを比較しようがない。また、自分もまがいなりにも社会人として、そのような事情が「あの店」にはまったく責任がないことを承知していた。それでも同じアルバイトとして、浜迫さんにはシフト制限に理解してほしかった。その上での採用、自分もシフト内でできる限りのことをしていたのだから。そういう自分も、ガイドの仕事をするまでは日本社会特有の自己犠牲企業愛がそれなりにあった。その精神への適性が薄いがために、会社員を経てガイド職に至ったのだが。自分が市立図書館で借りた資料によると、長崎への外国人訪問者数は、国内全体への訪問者数のわずか二パーセント。在籍ガイドの人数が一桁であっても、希少な仕事の取り合いになる。心底、ガイドの仕事が好きであるならば、他の旅行業者への登録を兼ねる。あるいは繁忙期が重ならない別の仕事を確保しておかなければならない。少なくとも、比較的案件依頼の確率が高い、クルーズ船の寄港日に予定を空けておく必要もある。これらの事情すべてを浜迫さんに話してある。しかしリーダーである以上、すべてのアルバイトスタッフに「あの店」最優先思考を要求していた。一人のスタッフが体調を崩せば、代理での出勤。自分が不調の際は誰もシフトを代わってくれる人がいないという。咳をしようが、熱が三十八度あろうが、購入者に悟られないよう勤務するしかなかった。自分が休めば、閉店までの勤務者である浜迫さん、または田下さんが一人で販売も翌日の仕込みしなければならない。どちらかだけでも負担が大きいので、迷惑をかけていけないことは、十分に理解している。とはいえ、食品を扱うならなおさら、自らを犠牲にしてまでシフトをまっとうする必要があるとは思えなかった。無論、シフトと自分の収入に支障のないよう体調管理は大前提だ。

「 あの店」への入社後、初めての微熱の後、自分は自宅にいる間は極力ベッドに横たわるようにしていた。ノートパソコン、有線イヤホン、テキスト類も枕元に定置。ノートパソコン用充電器を繋ぐ延長コードも購入、睡眠時間の確保と自己投資の両立を図った。

 貴重な休日、昼寝から覚めると、しばらく気だるさが抜けなかった。それでも乳児が弄ぶようにキーボードに指の腹を置くと、余計な思考なしに指が十本とも動いた。おかげで、大学のレポート提出期限を一件たりとも過ぎることがなかった。レポートが片付くほど、自分には新しいことを進める余裕ができた。

 レポート送信後、自分は毎回パソコンの新しいタブを開いた。求人情報を収集するためだ。以前より登録している派遣会社の有期フルタイム求人、アジア各国のレギュラー求人、そして英語圏またはドイツ語圏のアルバイト求人。長崎県外、日本国外の求人は職種問わず、給与額が魅力的だった。十分な転居費用を蓄えてさえいれば、自分は躊躇いもなくエントリーボタンをクリックしていたはずだ。

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