~咄嗟~(『夢時代』より)

天川裕司

~咄嗟~(『夢時代』より)

~咄嗟~

 通り一遍の〝聖母〟の様な醜態をした奥様方に見舞われながら、俺は何処か裏町辺りに行きたいと思い、決め、自分が思う田舎の景色を眺める事が出来る京都の山奥へと向かったようだ。もう、丁度春の息吹が自分が住む町に茜色の雲を呼び起こす位の時期と成り、俺は心中で密かに世間の文壇に対する断筆を決めて後(のち)、薄らと春の靄が掛った河原を望めるバス通りを、リュックサックの様に抱えた旅用の鞄を携えて歩いて居り、途中から、さっきからずっと自分の横をびゅんびゅん音を立ててゆっくり早く走り過ぎて行くバスに乗り込み、その内からさっきまで歩きながら見て居た田舎の野辺の景色を落ち着いて眺め始めて、同じく内に乗って居た自分の周りの人達への視線と、周りの人達から向けられる視線とに注意を払い出した。何時(いつ)も見て居た琥珀色した夢想の醜態は何処まで行っても色落ちないで、君と僕との恋の琥珀をまるで浮き彫りにするものだ、と暫く目を閉じて考え込んでは居たのであるがやがて暗闇の内にぽっと陽光の様な希望が降り立ち、見る見る姿を変えて行く田舎の蛙のグロテスクに目と心を奪われて仕舞ったようで、彼は硝子ケースに映った自分のお手製のお荷物を側(かたわら)へ寄せて後(のち)、ふと京都の片田舎に住むあの女の事を思った。「京都にはあの女、Dが居る」そうして辺りを見廻すと田舎の景色は又見る見る様相を変え出した様子で、ちょこんと座り付けた一人の少女の残像を虫が好い様に俺に見せて来るので彼はついその気に成るように心身の内に張った糸を絆される様にして、又、あのDの事をひたすらに想い始めるように成った。「黄昏清兵衛」という映画に出て来た、真田広之演じる恰も主人公の残像がこの身を捕えようとしながらつい呆(ぼう)っと核心を零した様子で、見る見る黒から白へと移り変わる様に、心の中の闇は真っ白い白日夢の内へと、その内心を浮き彫りにさせて行ったのである。

 そう思うと後(あと)は早かった。何時(いつ)の間にか既にDが私が立って居た場所の直ぐ前に備え付けて在った座席に座って居る。取り留めも無いスピードを以て走って行く山村の景色はまるで俺達のこれ迄の過去を野晒しにして他人の目前へと捨てて行く様(よう)で、高々一枚の写真ですら色香(いろか)を以て奏でられる生命の輝き胡散の様に澄まして居り、自分はこのDを果して愛する事が出来るのか、と少々気を揉みながら又果して、このバスの行き先を知らずに居た。Dとは男の元職場でその男と共に働き詰めに働いて居た同僚であり、歳は男よりも六、七、上であるが、その肌の浅黒さから、もっと年輩の人に見得る事が在る、田舎の小母ちゃんだった。その言葉遣い、口調、言葉選び、動作に至る迄、どの辺りに於いても彼にとっては小母ちゃんを想わせる風貌が在り、その様子はまるで彼の男性に対して矢を浴びせ掛けないものだった。急流下りの様に丸太棒が川上から流れて来ており、その棒の様子に自分の今此処に在る殆ど全ての熱情といったものを預けて、俺は上手く、彼女との現実的な斡旋を図れずに居た。そんな様子を彼女は察知して居なかった様子で、唯、天使の輪の出来た黒光りする黒髪を要所で俺に覗かせ、稲光が宙を漂う〝雷鳴・騎士〟の様な風貌を俺は身に付ける事と成って、春に似合わぬ、事細かく逡巡に刃向う一匹のオルガをその心中で飼う事に成った。Dの黒髪は何時(いつ)見ても痩せた短髪で、四肢が細いのを好い事にふくよかな孤独を保ち、一頻りに、我(われ)の孤高の骸へとその意味を投げ掛けて来て、愛惜しむ間も無く苦し紛れの小言を呟く態(てい)へと我(われ)を貶めて行く。彼女は座り俺は恐らくそのバスの一番後方の座席の後ろに立って居たのか、自分の背後と周囲には一寸した隙間(かんかく)が在り、周囲に居た人達はそれ程自分達に関心が無かった様子で、夫々の時間を相応(それなり)に楽しんで居た様子だった。

 俺はその環境に乗じる形で、先ずDが向こう向いて座って居るその座席の背凭れの上部に自分の右手を触れさせ、それからつつつ、と彼女の牡丹模様の黒い洋服の肩に、まるで違った生き物の様な自分の右手を持って行き触れさせ、彼女の情熱を絆そうとして行くその右手がそのまま黒牡丹の肩にずっと乗った儘でも一向に彼女がその虫を振り落そうとせず、唯じっと、不束な少年の体裁を伴ったまま耐えて居る様だったので俺は勢い良く冒険して、その這い廻ろうとする自分の右手を彼女の肩から胸辺りにまで滑り込ませる様(よう)にして落すと、彼女はやがて自分の左の胸の上まで這って来たその虫の背をそっと優しく服の上から手を添えて押えて、そのままぎゅっと力強く自分の身内に引き摺り込む様に吸い込ませた。暫く、じっと当てて居た。俺の右手はDの左の胸の上で暫くするとむずむずし出して動き始め、彼女の胸という許容範囲ではその身が収まらなく成ったのか、もっと他の彼女の部分を知りたいと躍起に成って、その次は彼女の口、下腹部、両大腿、股間へと、次々に自分の目的地を決め始めて居た。春の息吹が何分(なにぶん)心地良く吹いて来ている筈が、この時の男にはその一部の迸りが理性の涼しさを抑え込み、身を絆すどころか一塊の天使を男に見せ始めた様(よう)で、男は身悶えする程、Dの全てを欲しがり始める様(よう)に成って仕舞った。Dはその男の様子に気付いて居た為か何も言わない儘、唯変らず、ずっとバスが走って行く矢先毎の景色にその目を据えて居り、男に対する関心がまるで一つも無いかの様な、少々の冷遇を想わせる体裁と苦言を生じて居た。無言の彼女から突き出た威圧が彼を真面に男とさせて仕舞った様子であり、男は暫く立たずとも、彼女の身の上に走って行く走馬灯の様な思春の息吹をその胃袋一杯に吸い込んで、一度、自分なりに消化してみたい等と思える様に成った。ずっと隠して居た勃起した一物を徐に彼女が座る座席の柔らかい背凭れの中央部辺りに当てて、ぐいぐい当て擦り、宛がいながら、次の彼女の反応の往来を愉しみにして居る男の熱気は中々冷めぬもので、自分の背中にぐいぐい押し当てられて来る見知らぬ男の一物の温かさに又一瞬毎に理解を崩されて行く様な彼女の脳裏には、男の純情と向こう見ずな欲望とを網羅する強さが取り付けられ、男はひたすら、彼女がその強さで以てその彼女の身を取り巻いて居る全ての常識を振り落す程の女の強さを主題に掲げた儘、その矢先にきっと来る、彼女の発情を待って居る様だった。そうした男の流れを彼女自身も分って居た様で、男の身に纏う景色が自分に波及し始め、自分の女性が見せる景色の移り変わりが未だ見た事が無いものでも別段驚きもせず、唯、男の主張に縋り付く強さのみを持って居る様子に見得た。男には服の上からでもDの乳首が固く発情して居る様子が分り、一つずつ陥落させられて行く彼女の身体に設けられた王国を守る砦の頼り無さが又尚いじらしくも可愛らしく見えて、これまで見知って来た女性達の好い加減な、曖昧な、強さが全て自分の欲望の為に具え付けられて居るものではないのか、と疑う程に、このDでさえも、これ迄のその女性達の甘い性と同様の代物に思え始めて、自然の内で嬉しく成った。そう、彼女が俺を誘って居る様に思え始めたのである。そのDが座って居た座席の背凭れは次第にその物質を隠し始める様にしてこの世から姿を消し始め、俺は彼女の身体へより近付き易くなって行った。自然迄が自分達の味方をしてくれるのか、と半ば躍起に成って嬉しがって居た彼は、彼女の心中へと自身を何とかして滑り込ませる事は出来ないか、サブリミナルの様に、彼女の脳裏に自分の映像を擦り込ませる事は出来ないだろうか、等と算段し始めて居た。非常に自分達にとって、否俺にとって都合が好いものに仕上がった青いシートが張られたその座席が二人のオルガの世界へと導く舞台の様にこの時その男には思え始めて居た。

 鬱蒼と茂る森の中へと二人のバスは紛れ込んで行って、まるで天空から降って湧いた様な露店バス付きの豪邸でも用意されたかの様に二人の目前には樹海の隠れ蓑がその姿を現し、その隠れ蓑は自分の両手を拡げ始めて、やや大きなバンガローを組み立てた。俺の周囲に居る人達は自分達を取り巻く環境が変ってもちっとも驚く様子が無く、多少子供が景色のグロテスクに騒いだが、それもこれも全て俺達二人の為に為してくれて居るかの様で、まるで俺達にこれと言った危害を加えようとする者は居なかった。ずっと、日常の事について談笑したり無い思い出話について深く語り合う振りをして居たり、泣き叫んだり、と、笑い話は束の間の逡巡の内にすっかりその匂いを掻き消す様にして、五線に設けられた聡明なリズムに巨体を合せて居る様だった。

 Dが着て居た黒牡丹の服が陽光が届かなくなった一瞬の快楽に身を委ねた様に此方を振り向き、にまっと大口を開けて笑ったかと思うと、俺の一物を始め遠慮深そうに、そのうち慣れて来たのか興味深そうにして、やがて「これは自分の物よ」と言う様にぺちゃくちゃと音を立てて美味しそうに舐めて呑み込んで行った。Dは此方を向いて矢張り何も言わないがにこにこ、にまにまと薄ら浅黒い色香(いろか)を仄めかせて佇んで居る様だったが次第に俺の腕を掴んで自身を引き寄せ、自分の体(からだ)を隅々まで虫と俺とを這い回らせようと目論み始めたのか、一度尖らせた唇を更に俺へと近付けて、その後は濃厚なキスをした。もう戻れない男女が通る道を矢張り女は中途の覚悟を以て歩く覚悟を決め、男の俺を次第に自分から遠くへ置き遣るかの様に微睡(まどろ)んで、束の間立った発情を一定間隔を以て投げて来た。まるで、地獄の一丁目に差し掛かった頃に彼女が地獄からの使いに見得たのは、男にとって初めての事じゃなく、彼は、それでもこの牡丹燈篭の様な彼女の私服の装いを好み、愛そうとした。愛撫は矢張りその一定間隔を以て水飛沫を上げる様にして彼女と自分との往来を繰り返すが、一向に俺の一物は彼女の内に入った感覚を覚えずに、未(ま)だずっと裸の頼り無さを覚えさせられているかの様だった。「スプラッシュ…」と俺は一言呟いて、一瞬また漫画の中の栄華に縋り付く事で自身の頼り無さを解消しようかと努めて見るが、Dの心身は唯宇宙をゆらゆらと揺れて居るようで、一向に自分の元へは降りて来ず、又振っては湧いて消えるタイム・リミットを持った幸福へと身を落す事に成るのか、と改悛を試み、それ以上、Dの麓へと身を捩る事を男はせずに、俺は真人間と成ったようである。Dと俺は、始めから何も無かったかの様にして体裁を短い距離を以て繕い始め、硝子ケースの内に並んだ小さな巨人達の風貌に夫々の身を絆される様に或る決った模範を見せられ始め、女は化粧をし、男は煙草を吸い始めた。

 暫くするとバスは京都の山奥から街へと下りて来て、束の間従業員達の会釈が交されたが又バスは走り始めた様子で、俺は知らぬ間にそのバスを、遊園地等で良く見る、ゆっくりと走るコースターの内実へと変えていた。邪魔に成らなかった周囲の人達は殆ど下車したのか、その後に残って居たのは又酷く大人しい大人達と、俺には全く興味を示さない理知的な子供達だった。バスの車掌は俺の元職場で共に働いて居た野山という女に変わり、この野山は少し以前に俺と酷い喧嘩をしたが一向にそんな事は気にして居ない、とでも言った様子で俺にその身を寄せて笑って居た。薄笑いである。そう、「喧嘩」と言っても俺がその野山の非常識に採れた愛想の無さに腹を立て、一方的に俺が怒鳴り付けて、その直ぐ後で野山の方から謝り、一応の丸さを治めたという代物であって、もしかしたら唯子供だてらに怒られたかっただけじゃないのか、等と思わされる位の野山の可愛い衝動とも、俺は後から採って、考えて居たのだ。その野山と俺は二人だけで何処かドライブに出掛けて居り、少々全長の長いコースターでもあったから、それに同乗して居た俺達の後方の人達は皆休日に遊びに出て来た乗客の様に成って居り、野山は時々車掌服と帽子を被(かぶ)り、俺はその中堅職員の様にして働く野山の助手を務めるベテラン従業員の様に成って居た。コースターは街から街へ、薄暗いパビリオンの様な外景を主に着ながら走っており、俺と野山は未だピュアを奏でる関係を保ちつつ、それでも何か、恋人関係を呼び起こす前触れの様なオーラを俺は持って居り、野山の方は、その辺りについてどの様に解釈して居たのかは露知らず、唯二人は一見仲良さそうに笑って隣同士で居た。運転はずっと野山がして居り、俺は少々危なかしい頼り無い女の運転だと多少決めつつも下りる事はせず、同乗して居る乗客の命よりも野山と自分との関係の進展の方を大事として居た。俺と野山はこのドライブへ繰り出す前に、何か頼り無い契機を理由にして京都駅の様な巨大で冷風が吹き荒ぶ淋しい建物の麓で待ち合わせをして会っており、このコースターのドライブへ出る前に一寸二人切りで何処かへ出掛けて居た様だった。その記憶も曖昧な儘でこのコースターのドライブへ出て居た為、何故俺達二人がこの儘こうして此処に二人で居るのか、という理由は同様にして曖昧と成っていたのかも知れず、暗闇の内で翻り翻りして綻んで行く二人の喜びが朽ち果てるかも知れない自然の摂理の様な行動について、二人は共に理解して居たのかも知れない。乗客は終ぞ知らず、唯他人の体裁を繕って俺達の近くで佇んで居た様子が在る。そう、野山は俺との行く末について如何思って居たのかは知る節も無かったが、唯、知って居る様で知らない、とする生粋の純情が野山の心中で慌しく居たその光景を俺は何処か目にして居り、山の麓を見た後彼女の麓へ目を遣れば、終ぞ消えない恋人同士が奏でる不定(ふじょう)の成果が取り残された子供の顔で笑って居るのが見える。

 俺と野山はデジャブが奏でる知って居る様で知らない景色の内を走って、D大(京都の片田舎に在るキャンパス)の図書館の中へと辿り着いた。中は電気が消されており、それ迄走り抜けて来たパビリオンの薄暗い心地良さを仄かに生かすものだったが、上部に取り付けられた窓や子供でも届く等身大、否それ以上に大きな窓から差し込んで来る陽光がそのパビリオンで感じた心地良さとは少し違った心地良さを又奏で始めており、俺一人、少々嬉しかったのを憶えて居る。人気(ひとけ)が無く静まり返っており、何時(いつ)も学生や関係者、興味本位に潜り抜ける老若男女を問わない人の群れの情景と光景を抱える、改札口の様な図書館への出入口も、優しく微笑み掛けている。暫くそこで遊園地の催しを観て居る様にして皆で居ると、新館の様に真新しい見慣れない空間の内に疎らに人気(ひとけ)が生れ出して、それ迄一緒に居た他人を遠くに感じた。コースターは気が付くとゆっくりだが未(ま)だ助走しており、図書館の光景が真新しく見慣れない物に見得、本当は居たその人気(ひとけ)に気付かなかったのもこの所為か、と少し反省した俺はきっと、自分が本来なら知って居るD大のキャンパス内の自分が良く見知って居る自分のテリトリーの様な場所へと、その部外者である野山と束の間でも共に居て妙な仲間意識を持って仕舞った乗客とを滑り込ます事が出来た故の飛び切りの嬉しさで有頂天に成って現実を忘れたのではないか、と思うようにして居た。はっきりと一つ一つが確立して在る事を知り、野山は俺に居直って来た。

 ゆっくりと動くコースターが、何処が目的なのか知れない内にその図書館内に停まろうとする間際、野山の方から俺に「じゃあ今度の夏休みの間で何処か一日空けて、大学のレポートの為の取材をしにどっか行きましょうか?」(確かその様に言って居たと記憶する)と誘って来、薄々気付いては居たがそれでも予想外の展開に俺は嬉しかった。その野山からの告白を聞いた時に思い出した事に、確か二人でドライブに出掛ける前に、野山が元職場の誰かに電話をして居り、それを盗聴した俺はその職場に於ける色々なエピソードを垣間見る事が出来て嬉しかった、というものが在り、その盗聴はまるで野山が態と俺に漏らしてくれた優しさが成したものの様に捉えられて、野山は俺が知る筈も無い事を知って居る事実に幾分驚きもせず、今回俺達が会った「理由」もそのエピソードについて花咲かす、という位のものだった。二人だけの秘密を知った俺はその野山から「じゃあ今度の夏休みに…」と切り出してくれた事は俺にとって真新しい奮戦でも始まる様な活気が認められて尚嬉しく、よもや恋の予感をこの二人の頭上に奏でられて真っ白な空虚の連写を闇に放った後に小波(さざ)めく無数の人影でも見たのだろうか、俺はこっそりと、密かに、この時からこの野山を好きに成って居たのである。俺はこの後で何処かで、野山の身体を犯そうと狙って居たのであり、ふらりふらりとふわふわと光って居た曲解の眼(まなこ)で翻っては消える愛への模造が野山の心中へと舞い降りて行って、俺の事を好きに成れ、心身共に俺の物に成れとあの白くて自分よりも若い肌を心中で翻弄して居たのだ。野山がその時の俺を見ながらどの様にして俺の純情を捉えて居たのか、又野山は俺を好いてくれて居そうな雰囲気を何度か漂わせたが遂に真相は分らなかった。

 環境が変り、空は程好く晴れ始めて向こうの空は未だどんよりと立ち込めていたが、少々黄砂の飛ぶ中、俺は誰か男の友人と共に野山と決めて居た「夏休みの課題(一日空けてのレポート取材)」に出向いて居り、出向きながら田圃を挟んだ畦道に差し掛かった頃から俺達は〝どんなレポートに仕上げるか〟、〝そのレポートの為にどんな取材をしなきゃ成らないか〟等相談をし始め、風を程好く吹き降ろして来る山頂に覗く空には五月晴れを想わせる心地良さが在った。白雲が程好くゆったりと虚空に寝そべっていて、鶯が嘘のように、何処かの連家(れんか)の軒先から鳴いて来る様(よう)だった。野山は後(あと)から来る、と言ったような程好く頼り無い余韻を漂わせた儘二人はずっととぼとぼ歩いて行き、半ば俺はあの野山がこの男に摩り替えられたのだ、と少し残念に思う気持ちと、何時(いつ)もの女特有の裏切りが醸し出す如何しようも無い無責任な冷たさにこてんぱんに伸されて居り、仕方無く二人の目的地へと歩を進めて居た様(よう)である。散々相談したが一向に妥協点が折り合わず、結局、二人別々に歩を進め出し、二人夫々に気の済むまで探索しよう、という事に成り、束の間俺は一人に成った爽快さと淋しさとを味わう事に成った。別れてから直ぐに俺は「確かに二人一緒に歩くと、僅かながらでも群れのルールが出来て動きが取り辛くなり、満足の行く取材も出来ないかもな」等と窘める様にして自身に言い聞かせ、仕方無く一人に成ったその環境に置かれた自身を肯定する姿勢を保つ事にした。そう、中身の薄い二人よりも中身が濃いだろうとする一人を採ったのである。その一緒に歩いて居た男とはD大学に在籍する山平という理知的で大人しく、人の話は自分の主張を抑えてでも聴く奴だったように思う。その山平は二人一緒に居ると快い友情の様なものを示すが、友人には成れない厳しさを持って居た。

 二人は別れる前に、「金・銀・銅、どれについてレポートを書く?…取材しようか…?」等と、まるでレポート評価に対する相談、本当に金、銀、銅という化学物質をこの片田舎の土からでも掘り起こしてその材質と由来とを調べる、といったような相談をして居り、俺はそのとき素直に「金がいいなぁ」と割と即座に応えたが、山平は面倒臭く迷いながら「…俺は、銀、…がいいなぁ…」とか途切れ途切れに聞える言葉で話して居た。すっと言えば良いのに、等思わされたが、中々現実とは思い通りに応えないものだ、と又束の間思わされた。しかし「金」という有り触れた様な情報の在り方に少々身を絆されて俺も後(あと)から、「銀」の珍しさと価値とを再確認した上で、「銀の方がいいかな…」等と思い始めて居た。「金」は懐かしさを想わせてくれて居たのだ。その話はそこで終った。

 二人は別れた儘夫々の取材や鑑賞に精を出す様(よう)に歩を進めて、畦道から農村へ、農村から山の麓へ、山の中腹まで登ろうとしたが億劫が祟り又畦道へと引き返して来て、又、元居た場所と同じ様な光景が拡がった、今度は海でも見得そうな景色の内に立って居た。中々話が煮詰まらないで一人で居ても何分(なにぶん)進展しない切なさを感じ始めた夫々は、夫々に、互いが真向に向かって立つ一本道の向うに立って居る相手を見定めて、やがて何も言わない儘で近付き始めた。〝ぴぃーきゅるー〟と頭上か何処かで小鳥の鳴く声がしたが、煙った様な農村が醸す声、頂き迄へは登らせてくれなかった巨大な憤悶を抱えた山の声、所々で静まって矢張り宙返りする人の思考・思想といったものを跳ね返して来る青空の声に負けて仕舞う様(よう)に二人の耳へは入らず、唯俺は堀を流れるみみっちく古風な田舎の悪戯を連想させる水の音よりも、白波を立てて壮大に唸る轟音を突き付けて来る海の音を聴きたかった。二人は別れた契機の辺りの事については何も話さず、放蕩息子が帰って来たのを黙って包容する父親の様な柔らかい笑顔で以て互いを迎え入れて、又同じ畦道を静々と、歩き始めた。

 暫く行くと、明石家さんまの葬式をその道端を貸し切って遣っていた。そこには道端ながらに多くの著名人が夫々の活躍領域毎に集まって居り、一通りの悲しみの線を越えて後(のち)、次の活気を取り戻す迄の過程を踏まえて少々の躍起を以て跳び撥ねて居て、その中でもビートたけしが息巻きながら「あの馬鹿野郎、俺より早く、先に逝きやがって。これじゃあ俺の話し相手居なくなっちゃったじゃねぇか、んとにあんの馬鹿野郎」と豪語して居た(俺は眠る前、今日現実に於いてコンビニへ寄り、年末のテレビ番組一覧を載せた本の表紙に爆笑問題とビートたけしが写った物を見て居た)。萎れる様な花弁(はなびら)を確かめてから俺達は結局満足な取材も出来ない儘で、その一番刺激的だった〝葬式〟の純情に信念が絆されて仕舞って、結局眠る様にして帰宅した。俺は父親ともう一人誰か(確か男)と、束の間の旅行でもしようと誰が言ったのか知らないが切り出し行く事と成って、夜の冷たく懐かしく、淋しい光景と情景が似合いながらもその懐に於いて笑って居る、心触(うらぶ)れた信州の片田舎へ来て居た。しょんぼりと街灯の明かりの内に建っている何処か粗末な旅館に泊まる事に成り、その旅館の前から拡がりやがて街中へと延びて行く通りには一寸お使いにでも出て来たような女と、パジャマ姿で突っ掛けを履いてワンカップ引っ掛けながら微酔(ほろよ)う人々が行き交う様(よう)なそんな光景情景を醸し出し、中々話し掛け辛い面持ちを漂わせて居る。見知らぬ筈の旅館であるのにそこにはアルバイト先の本屋に居た上司の様な奴が居て、到着して間も無い俺達が荷物を置こうとして居る最中(さなか)に、部屋から便所迄の掃除を頼んで居た。俺はその折にも野山とのレポート取材を兼ねたデートを未だ楽しみにして居た様子で、苛つく様(よう)なその上司の言い付けにも颯爽と身を翻し、三人の内で一番率先して仕事に打ち込んで居た様(よう)であった。一生懸命便所の掃除をして居た。そこの便所には何故か本棚が備え付けられて在り、焦げ茶色した古めかしく年季の入ったその本棚には知ってる本や知らない本、又、漫画、童話、といった幼児向けの物まで揃えられていた。俺達は中の本を取り出して棚を、便所用のスポンジや雑巾で拭いて居たが、中々汚れに年季が入っていたのか拭き取れずに居た。その掃除用具の在り処は、父親が俺に面白可笑しく教えてくれたもので、何故か俺だけが率先して掃除するが、後(あと)の二人は「後(あと)でする」とでも言う様に中々仕事に取り掛からないで居た。部屋の直ぐ横に備え付けられたその便所はまるで共同便所の様に沢山の便器が立ち並んでおり、その便所への出入口付近に父親ともう一人の男とが立って懸命に働く俺の姿を見て居て、電気が消えている便所の中から観た二人の姿は、その背後から射した部屋のライトで逆光に成って黒くしか映らずに居た。

 暗いその様な光景・情景の内でも共に肩を寄り添った仲間意識が奏でる様な楽しみが在り、俺は嬉しかったのである。親父はそうしながらも「煙草を買いたい」と言い出し俺ともう一人の顔色を窺って居た様だが、俺は、「て言うか今行って来たらいいやん」と、今自分がして居る便所掃除が長引くものであるのを暗示するかのように親父に告げたが同時に、こんな一生懸命に時間を掛けてする程のものでもないな、他人がこんな俺の懸命を観て陰から笑ってる、と言い聞かせ、楽をしようとする自分の性分と、親父から馬鹿にされる事への危惧から、さっさと終らせようと考えながらにして居り、その辺りから手に入れて居た力が抜け始め、何分(なにぶん)、少々の気楽さが身に染みて分り始めて居たかの様(よう)だった。

 結局、野山との楽しいドライブもレポート取材も父親が煙草を買いに行く事も確認出来ない儘、俺はその辺りで目が覚めた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

~咄嗟~(『夢時代』より) 天川裕司 @tenkawayuji

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ