弐 エリカの棺
真新しい免許証を片手に、エリカは中古車屋の展示スペースを歩いていた。
高校卒業から一年、中々給料のいい仕事に就けて、エリカの羽振りは驚くほど良い。高校三年間で貯めていたバイト代と合わせて一〇〇万くらいなら車に割けると初のマイカーを探しにきたのだ。
「お客様、見つかりましたか?」
担当してくれた店員はスズキという童顔の男性。
「……安いからあれだけど、正直軽は嫌かな」
一〇〇万以下の中古となると、あまり立派な車は狙えない。どれも軽や古い型ばかりで、エリカの購買意欲は刺激されなかった。
はじめてだし妥協してもいいけど、なんて思う。
「でしたらこちらなどいかがでしょうか」
スズキはタブレットをエリカに向けた。
「エンペラーぁ……?」
その車は最近人気の女優がCMに出ている国産のミドルセダンの一つ前の型だった。色は赤色で、グレードも申し分なく装備を積んだ中間グレード。エンペラーという名前も気に入った。
「……って、なんでこんなに安いわけ?」
妥協案を秒で覆して即決しようとしたエリカは、あと一歩でとどまりスズキに尋ねた。支払総額は五四万円とある。
これだけ安く売られているということは、恐らく何らかの事情があるはず。修復歴はないから、それ以外のことで。
スズキはゆっくりと説明していく。
「もとはフルモデルチェンジにあわせて買い替えられた方から売っていただき、一五〇万円ほどで販売していたのですが」
いわく、どうやら買った人から何度も売り戻され、その度に値段を安くして店舗も移動して……を繰り返してきたらしい。
「売り戻しって……なにかあるの?」
「それが、異音がするとか声が聞こえるとか、幽霊関係で」
納得するには充分な理由だった。事故歴はないというが、誰だってそんな車嫌だ。
かといって店側も、祓おうにも不確かなものにお金を割くのは
「買うわ、それ、貰う」
驚くスズキをあしらい、エリカはそのまま契約した。
エリカは幽霊なんてものは気にしない。気にしないと見えない、信じなきゃ近づいてこない、それが怪異だろう。話をきく限り、車そのものや人に害が及ぶことはないように思えたし、なによりここにある車のどれよりも魅力的だった。
受け取りは二日後。別店舗にあったエンペラーセダンはもうエリカの家の近くの店舗に移されるようだ。
その二日間はあっともいえないほど。気付いたらスズキが店で納車祝いのお菓子をくれていた。
「キーを頂戴」
エリカはエンペラーの運転席に座る。
キーやハンドル、シートは本革らしく艶やかで質感高かった。試乗も実物も見ず買ったから、ハンドルやナビ、シートは舐めるように確認する。不備があればこちらで替えればいい。
昨日知ったが、エンペラーは国産車の中でもそれなりにハイクラスな車らしく、新車価格は五〇〇万近かった。
家までは一時間ほどかかったが、なにも問題なかった。幅があるから立派に見えるし、案外運転は楽にできる。
「ただいま〜」
「あらおかえりなさい、車大丈夫?」
「大丈夫よ。それより
エリカが母のツツジに訊くと、ツツジは二階に向かって叫ぶ。大学まで本気で舞台演劇をやっていたこともありその声はボロ家ならどこへでも響く。近頃の遮音性の高い家だとそうもいかないのかなと考えながら、小さい頃に幹太と遊んで壊した壁を見ていた。
「何」
「幹太、あたし車買ったの、みる?」
エリカは弟の幹太にキーを掲げてみせた。
「別にいい」
「え〜うそ〜、Mazkoエンペラーの特別仕様車よ〜?」
幹太は階段を戻り、扉を閉ざした。
「この感じじゃ、もう無理ね」
ツツジが諦めたようにため息をひとつついた。
幹太は別に悪くない。
絶対に。
エリカは二階にあがり、自分の部屋に戻った。
スマホを起動して、さっきの納車式の画像をアプリで加工。盛るというよりは個人情報保護にちかい。わざわざそんなこと、とも思ったが、やっぱり初車、しかもエンペラーなら自慢のためのSNS投稿も
エンペラーのキーは質感高い。本当に車自体も高級だし、事故を誘発するクソ怨霊ではないならお得過ぎる買い物。そういえば教習車もおなじMazko車だったな。
投稿と中古車屋の初期レビューを書き終えたエリカは、化粧を直してキーを手にした。
そのまま向かいの部屋に押し入る。
「たのもーーっ」
「道場破りッ?!?!」
そこは幹太の部屋。
「乗りな!」
エリカはキーを掲げる。
「べつに……いいよ出てけよ」
「でも幹太車は好きじゃない。Mazko車なんて乗る機会ないわよ?母さんは鈴菌だし父さんはスバリストだし」
幹太が揺らぐ。が何度か拒否した手前乗りたいともいいづらい、そんな顔してる。
くっくっくっ、可愛い奴め。
「おかあさーん、幹太がエンペラー乗りたいってー!」
そこで階下に向かって、エリカは叫んだ。ツツジは
「あらそうー、気をつけるのよ―!」
と叫び返す。この二人が四年連続近所迷惑騒音クレーム数ナンバーワンを樹立した世界一不名誉なチーム。
「ほらほら、顔が乗りたいって言ってるわよ」
「……乗るよ」
「ん?」
「……乗せて……ください」
「クルシューナイ」
エリカの満悦が浮かぶ。
エリカはエンペラーの運転席に座る。スタートはプッシュ式で現代的。押すと、滑らかな多気筒エンジンの音がする。
「ベルト締めた?」
「おう」
エリカはミラーを調節してからポジションランプを点灯してアクセルを踏んだ。
車体そのものはそれなりに大きい。が、ピラーが細いためか慣れさえすれば案外運転は気楽。多少車体を揺さぶっても幅が広くて縦に低いから安定した挙動を見せた。
小気味よく、ガソリン車らしい吹け。その音は高く車内に響いていた。ツツジが長年乗っているkeiのターボとも、父のリツタがこないだ買い替えたBRZとも違う。
エリカは減速しようとアクセルを緩める。
が。
エンジンの吹けが戻らない。
アクセルを戻しても、回転数が下がらないのだ。エリカはブレーキを全力で踏んで減速し、ハザードを点けて左に止まろうとした。
少し左前を縁石に擦ったが、なんとか止まることができた。エンジンを切って、足をペダルから離す。
「どうしたの」
「もしかすればトラブルね」
ボンネットを開けたが、シロウトメカニックですらないエリカに何もわからず。車内に戻ると、アクセルの右にあったペットボトルを見つけた。それはアクセルペダルと樹脂パーツの間に挟まり潰れていた。そのせいで、アクセルがオフの位置に戻り切れていない。
それを引っこ抜くと、鈍い音とともにアクセルはあるべきところへ帰る。
ペットボトルが潰れた音は、吹けの良い多気筒エンジンの音でかき消されたんだと納得した。
「姉ちゃん……」
「何よその目!私を蔑視するなんて万死に値s
「そろそろ帰ろ」
「っはぁ〜五時」
思いのほか乗り回してしまっていたようだった。
「おはよー、エリカ車買ったの?」
翌朝、出社したところに出会ったのは同僚のユリだった。
「おはよ、ユリ。そうそう、中古だけど」
「これエンペラーだよね?高級車じゃなかった?」
「まーそーなんだけどさ」
エリカはユリに、この車が抱えている事情を説明した。
ユリは危ないといったが、別に何も気にしていないと言っておいた。
「聞いたわよ、エリカちゃん、mazko車にしたんですって?」
昼休み直前に、エリカのデスクにやってきたのは経理のアユミ。
「そーなんですよう、先輩もmazko車でしたっけ?」
「そうそう、先代のエンペラーから今はスプレマシーに乗り換えたのだけれど」
スプレマシーは同じ会社のミニバンだった。昔隣の人が持っていた。
その日はアユミとレストランで愛車を語った。
「ちょっとアンタ、なにしてんのよ!!」
社員が使える駐車場はビルから少し離れた月極になっている。エリカはそこで、エンペラーのボンネットに乗った怪しすぎる男を見つけた。
エリカの声に反応したことは確かだが、そこから動こうとはしない。
「あたしの車になにして……」
男は驚いたようにしてみせた。
なにこいつ。驚きたいのはこっちだよ。
そうするとすぐに男は消えた。ふっと、その場で。エリカの背筋がひるむ。ただこのときばかりは怖さより怒りが勝った。
エンペラーは無事だ。ボンネット開けても、どこを見てもエリカの知るエンペラーで間違いなかった。
「なあにそれ何してくれてるの全く」
帰宅してツツジに話せば、エリカと同じ反応をされて吹く。やはり母娘である。血は争えない。
「明日会社に連絡して、別のコインパーキングにしてもらえないか話してみるわ。あとドラレコもつけなきゃ。もーいっそカスタムしようかな」
「あら、それならいい車屋知ってるわよ」
翌日。
ツツジに紹介されて来たのは、エリカの家からそれなりに離れた
「あ〜!!エリカちゃんオバチャンのこと覚えててくれたりしないー?」
突如現れたツツジと同い年くらいの女性にエリカはなんの敬意もなくかぶりを振る。
「まあそうよね、だって最後に会ったの小学生の時だものねペチャクチャ」
ツツジの友人らい女性……マコさんは、ひとしきり喋り倒したあとで
「それでそのエンペラー、見せてもらえるかしら」
と眼鏡をかけた。
「マコさんが見はるんですか」
「そうよ?女の車屋なんて嫌?」
「いえそうじゃなくて、てっきりあたし旦那さんでもいるのかと」
「……最近の子にしてはジェンダーバイアスね。だけどあんたも車好きなら軽整備くらいできたほうが得よ」
マコはエリカのエンペラーをそそくさと弄り始めた。
「うん、まだ綺麗だね。ただまぁ」
「なに?」
「いや、エンジンの腰上ってゆーのかな、とくにヘッド周辺、前のオーナーか誰かいじったね。駆動系のセッティングも純正とは違う。とにかく一度素人にバラされてるわ」
マコはmazko車に詳しいようで、ああだこうだ言いながら直せるところを直してくれた。
それから本題のドラレコ設置とステッカー貼り、洗車を終え、新車同然のエンペラーが戻ってきた。
「……わあ、すご」
「マコの腕は確かだもの。わたしも前のカルタスをよく直してもらってたわ」
「ツツジはすぐぶつけるからお陰で板金屋事業までやっちゃったわよ」
「板金まで行くってお母さんやば」
「ちがうわよ、当時はホラ平和公園のあたりで走り屋が流行ったから」
猫ヶ洞池を取り巻く道はたしかに峠っぽくて面白い道だ。それにジャンピング婆婆なんて霊が出るって噂で、夜は地元が寄り付かないから走り屋にはもってこいかもだ。
「そういえば、あのシルエイティってマコさんのですか?」
「ああそうよ、ほら頭文字Dのマコと名前が同じだったから父さんに買ってもらった軽ガン無視で乗り換えたの。よくわかったわね、普通の人ならs13と見分けつかないのに」
頭文字Dはあたしのバイブルなんす、と言いながら、シルエイティの隣にかなり古いアルトが置いてあるのを、エリカは見逃さなかった。
「母さん、父さんのけった借りるよ」
「どこ行くんー?」
「どこにも」
「気をつけやーね」
すると奥の家から少年が飛び出してきて、これまた古い自転車をかっ飛ばしって行った。
「元気ねぇ、カオルくん。エリカとは会ったことないかしら」
「知らない子」
「ん〜、最後に会ったときは胎児だね。一二年差じゃん」
「おお……」
時の流れは残酷である。
マコが直してくれたエンペラーはとても快適だった。足も柔らかくなったのにふわふわしない感じで良き。
少し遠いが、知らぬ間にツツジも通っていたのであそこで車検通してもらおう。
あと整備教えてもらわなくちゃ。
それからエリカは、エンペラーを着実に自分仕様にしていった。まずは補強。バーや締め増しなどで剛性を確保して、ダンパーとタイヤホイールも交換した。
内装も少しずつ派手になっていく。
ツツジはそれを誇りに思う。
エリカは車の安定性や操安性を確保するカスタムをしていた。
不審者も来なくなったし、運転もメキメキ腕を上げていく娘を誇っていた。
「それじゃ、行ってくるわね」
「ええ、気をつけるのよ」
その日、エリカは猫ヶ洞へ出かけた。
茶屋が坂から平和公園の方へ向かう道を走り抜けていくと、東邦高校から長久手の方に抜けることができる。それから高速を軽く流して東山公園裏から帰ってくるのが今日のルート。
エリカはエンジンを掛ける。mazko車は特殊なエンジンを積むのと、旧い車なのでアイドルアップは長い。走行可能を示す青色のランプが点滅するまでアクセルを踏むことはできないから、その間にミラーをいじる。
このバックミラーはやたら左を向く。クセがついているのか。
エリカはDレンジに入れて、アクセルを踏んだ。
赤いテールランプが、もう点いていた。
「もしもし、こちら、エリカさんのお母様の……ツツジさんのお電話で間違いありませんでしょうか」
ツツジの携帯に、もうすぐエリカが帰るであろうときになって、警察から連絡が届いた。
「はい、そうですけど」
「実は、娘さんと思われる方が事故に遭われまして、つきましては身元をご確認いただきたく……」
ツツジは固まった。
「はい」
と返事をするのが精一杯。
心がはっきりしない時に愛車は運転できないから、タクシーを呼んだ。
それは間違いなくエリカだった。
すでに息を引き取っているが、黒く焦げてもなおエリカの端正な顔立ちはそのままだ。
警察の話では、目撃情報から推測するに火災だったとのこと。
「ただ、エリカさんのお車に燃えた形跡は見られませんでした」
「え?」
「正確には、インパネから前席は焦げていますが、発火の原因が解りません。配線もエンジンも極めて正常です。お煙草など吸われませんよね?」
「ええ……それに娘は火が苦手ですから、閉じたライターさえ持てないはず……」
エリカが愛していたエンペラーは、たしかに前列内装だけが饐えたような臭いとともに黒く変わっていた。
葬式を終えて、警察もめっきり動いてくれなくなってから、ツツジはマコの店に向かった。
借りてきたトラックにエンペラーを乗せて、あのときのそのままで、診てもらうのだ。
「ツツジ、お悔やみ。エリカちゃん、ちょっと車、借りるわね」
マコはそうつぶやいて、工場へ車を移動した。
「ん〜……本当にどこにも異変はないよ。前の車検通してから何も変わってない」
「そうなの……」
「そもそもmazko車って火気に強いことで有名なの。エンジンと電気系をカバーで覆うから濡れにくいし、耐久性もあってショートも起こさない」
「ましてやスーパーチャージャー仕様でもないし……」
部屋で話しているとき、ツツジは振り返った。視線を感じたのだ。
窓越しにこちらを見ていたのは、エンペラー。
「うそ……」
そのエンペラーは、そのライトを光らせている……ひとりでにパッシングしている。
「はあ?なんかいじっちゃったかしら」
マコが部屋を出ると、そこに轟音が響いた。
エンペラーが急発進して、マコを轢いた。
突然のことに驚いて腰を抜かしてしまったツツジに、エンペラーのハンドルが向く。
中に人は乗っていない。
なのに、エンジンの音がする。
「どういう……」
ひっそり閑とする田舎の車屋に、戦慄する赤いテールランプ。
その瞬間、エンペラーが燃え上がった。
ゴオッと音を立てながら、火の手は車を包み込む。ツツジの呆然とする顔が赤く照らされ、その影が揺れている。マコもそれを目撃した。足を怪我したことも忘れるくらい、目の前で燃え盛るエンペラーから目が離せなかった。
熱い、熱いと小さな男の子の泣く声がする。
ツツジは過去を回想した。
エリカは小学校の時、火災で親友を亡くしている。あの凄惨な現場を目の当たりにし、死ぬ間際……泣く力も失ったその子を見ている。
だから火が恐くて、さらに赤系統の色さえ苦手だった。
それを、なぜ拒み続けた赤の車にしたのか。
隣の家の、
同じ車だった。
ロングセラー車、mazkoエンペラーの初期モデル。赤色。そして、整備好きだった彼の父親は、よくエンジンを解体していた。その家の焼け跡のガレージからは、エンペラーだけが無傷で見つかったのだ。
エリカのエンペラーは、跡形もなく、鉄くずになってしまった。
エリカの選んだ車は、あの一家の苦しみと未練を背負った車だ。それがどういうわけか他人にわたり、元の持ち主を慕うものを殺した。
深紅の火桶。エリカはその業火を背負って旅立った。
ただ、あの子がその優しさを、いつまでも忘れないでいてくれるように―。
【あとがき】
こんにちは。桜舞春音です。
黒いノートに次ぐ、夏限定企画「涼しい夏」二作目のエリカの棺でした。
呪いを受け継ぎ、新たな犠牲者を生む前に、愛するエンペラーと死にゆくエリカのその勇気……!
ちなみにマコさんは命に別条なしです(^^;)、たとえ呪われていても、愛車を最期まで愛したい気持ちはわかりみが深いです。
この先も、涼しい夏シリーズ更新してまいります✨一話完結の桜舞春音流ホラー、ぜひぜひお立ち寄りくださいまし〜(^^♪
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