~夢~(『夢時代』より)

天川裕司

~夢~(『夢時代』より)

~夢~

昭和○○年九月一日、空は晴れていた。風は横なぐりに吹くが、海は穏やかだった。知らぬ間に彼は海に来ていた。「母」を思い出していたのかも知れない。見渡した遠くの砂浜に黒い人影が見える。炎天の下、陽炎が出始めたのか、男か女か判らぬ程度に佇む群れが、黒々しながらゆっくり出で立ち、俄かに成った人影達は、海から上ってこちらへ出向く。その人影は幼馴染の様で、知人のおじさんの様であり、又おばさんの様であり、将又、美人の様であり、それとも又、自分にとって悪人の様であった。彼は幼馴染のあの娘に会いたいと思った為、その人影はその幼馴染の娘に化わって行った。その人影は自分の人数を増やすことが出来れば、性別を変えることも出来、彼に与える印象さえ変えることが出来た。その人影は近づいて来て、やがてその正体が解る地点まで来ると複数に分かれ始め、人と物とに成り変わり、彼の周りに散在していた。彼はその出来上がった環境内にて、果てしない夢を見始めた。

その人影の「黒」にやがて色が付き出し、彼の好奇心を誘うかのように揺らぎ始めた。彼はその着色に従い衝動(うご)いて行って、男と女と周囲に対する情景を見た。感情を揺さぶられたが、怒りは湧かなかった。

その人影と共にどこか落ち着ける場所へ行こうと歩き出した折、ふと、少々急な下り坂に出くわし、とっとっとっと、と少々疲れる程度にふらふら呆けて、足が前へと走らされる為、彼の心は気忙しさを呑み、躊躇しながら周囲(まわり)を観ていた。複数人となった人影がその時どうだったのかは知らないが、何となく彼に調子を合せてくれていた。環境が揺れない。人影は始め、幼馴染の栄子という娘に化け、彼の前にて現れ消えたり繰り返し、彼の心をじわじわ魅了し大きく成った。そうする最中に二人の間に規定が生れ、海の裂け目と宙(そら)の裂け目が二人の感情(きもち)へ浸透して活き、身体(からだ)を揺さぶる不思議な上気が、他人と環境(まわり)に解け入り出した。しかし当の彼にはそういう事実がぴんと来ぬまま、そのうち失(き)え行く彼女の姿勢(すがた)が暗闇(やみ)を通って自分に落ち着く無性(むせい)の四季さえ現れていた。「そんなこと構わない」と言って彼は、その娘の気を引こうと一心に独歩(ある)いて行った。

知らぬ間に、その娘の実家の様な場所に、彼と複数の人影は居た。娘の家とは三階建てで、一階から三階まで続く段など、集った人煙(けむり)がほそほそ微笑(わら)い、脆(よわ)い気色が走り回った。彼にはその時、その人影の内から複数生れた友の群れなど、何人かいた。彼はその「友人等」とも次第に親しくなりつつ談笑していた。彼は少し、自分が精神を病んでいるのか、と思った。娘はそんな彼を見て、その友人に対して、彼から見える所で彼の噂をした。良いとも悪いとも取れぬ噂であった。しかし彼は何となく、娘に自分のことを言われている為か、嬉しかった。彼には、早くその娘と一緒に成りたい、という想いがあった為、その娘に決定的なことを言って欲しかったのだ。周り空気はドタバタと右往左往している。日常でもよく見られる〝時の経過と共に流れる人の物語〟であった。

「私、こうしようと思うの。彼がそうしろ、っていうようなことを言うから。そんな言葉を発するから…」

と娘は、台詞の最後は周りの人達を和ませようと、少々、人を笑わせるような心算で言った。彼はまだ嬉しくない。気分は進展しないで娘と周囲の人達の前で何かに躊躇している。現実に於いて一度は忘れた筈のその娘をまだ執拗に追っている自分の姿に、彼はその時は何も感じずに居たが、後で悟った様、とても大きな後悔を見た。しかし、暫く娘は彼等と過ごしながらその後もどこかで現われているのだが、彼の前には余り顔を出さなくなった。段々とそう成り始めた様子である。彼は悶々とした心の疼きを抑えながらも娘の声がする方へ身体を向かわせながら、娘の雰囲気を味わった。それしか出来なかった。周囲の友達は皆、無感動、無感情であり、「冷酷だ」と心の隅で思った彼はそれでも彼等と一応の関係を携えたままで、又、ふらふらと前進し始めた。現実に於いてその娘と結ばれる可能性はやはりない様子だが、「ひょい」と娘の方から顔を覗かせて自分に急接近する奇跡を彼は信じていた。

娘と彼はそれからずっと後になっても、態良く周りに振舞っているだけだった。これといった進展がなく、そろそろ彼の好敵手、否、娘の許嫁が現れてもおかしくない様子である。それでも、娘を見ているだけの彼には解らない。娘や〝周り〟は、上手くその辺りの事情を隠しており、彼に「その思い」を諦めさせるのには充分足りる程と成った。彼は娘が欲しいが、娘は彼に応えず。この関係が現実へと繋がり、現実に於いては決定的に「一緒にはなれない」事を実現させた様である。いつから自分と娘の関係が始まったのか彼には解らない。この様な一連は、そうして「彼の為の快方」へと向かった。周りに喋りたいと思う人が居ない為、彼は余り喋らなくなった。時の流れに身を任せる様になった。娘がこの「同じ時」の中でどう過ごしているのかは解らない。しかし、周囲の人達と娘は関係を保っている、のは確かだった。娘は今を自分と同じ様に生きているが、彼はその「生」を無視するかの様に生きねばならなく、余所で自分に近づく余計な虫を躍起になって追い払わなければならなかった。

娘は、どこかで自分の前に現われている様だったが、彼はその娘の姿を結局見ていない。不埒な態度で娘に求愛したくない、という意地は自分にもある、と彼は息巻いて言うしかなかった。そうすると共に、彼は自身を保った。人生の躍動は海を思わせ、波の様に押し寄せてくる人の群れは彼を打ち、その打たれた彼は相応の「形」を自分の精神に宿した様だ。しかし静寂な海は彼を又一定の形に落ち着かせる。「大海原のような人生」を流れてゆく最中に見た夢。一時の内に目まぐるしく思想は動くが、何にも変わらないこの現実に対して落胆を覚えるしかなかった。娘の熱い情熱が何故自分に向かないのか、それが不思議だった。自分は母から承けた気質の影響が強く、父から承けた影響は性格の一片であり、その為に「殻に閉じこもる意地」のようなものが強くなったのかも知れない、と、彼は嘆いていた。最後に「人影」は自分から出した全てを自分の内に引き込み、一瞬で彼のもとから去った。扇風機の風が足元に吹いて少々、涼しさと寂しさを憶えた彼は、それでも静寂の内に孤独を知り、その「孤独」を克服せねば、と改めて思っていた。



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~夢~(『夢時代』より) 天川裕司 @tenkawayuji

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