#41 器の大きさ

 美姫の育休明けの初出勤を、本社勤務の全員が待ってくれていた。異動の日とはずれているので、咲凪はまだ人事にいるし、元彼も来ていない。

 祐宜と一緒に車で出勤すると、まず車通勤のバイヤーと駐車場で一緒になった。事務所に到着すると、あちこちから声が聞こえた。

「えっ、咲凪ちゃん、どうしたん?」

 美姫の顔を見ると、咲凪は泣き出してしまった。

「なんで泣いてんやろう、嬉しいのに」

「部長に嫌なこと言われたりせんかった?」

「なんで俺や? どっちかて言うたら堀辺やろ?」

「え? いや、中野さんがすぐ異動なることは決まってたし、そんなに難しいこと言ってない……よな……?」

 総務部長と祐宜が責任を押し付け合うのは放置して、美姫は咲凪を見ていた。咲凪は泣いているけれど、顔は笑っている。

「ううん、ほんまに、美姫ちゃんが来てくれて嬉しいだけ……でも、部長と堀辺さんのことも、無くはない」

「ほらっ、やっぱり堀辺や。重圧から解放されて嬉しいんやろ? 中野さん、岩瀬さん戻ってきたし、さっそく代わってもらい」

 総務部長が笑いながら言うと、祐宜は苦笑していた。〝咲凪には基本的なことしか教えていない〟と祐宜から聞いていたし、咲凪も〝祐宜は仕事を少なくしてくれている〟と言っていた。美姫はしばらく祐宜の部下として人事に居続けるので多くのことを教えられたけれど、咲凪は美姫が休んでいる間だけの予定だった。

「美姫ちゃん、よくここで耐えてたなぁ?」

「そうやろ? 何かあったらすぐ首突っ込んでくるやろ? 仕事になれへん」

「ぬ……やっぱ俺なんか?」

「他に誰いてるんですか? 山田相談役おったら別やけど」

「ぬぬ……堀辺、家でめちゃくちゃに言われてないか?」

 産休前はここまで強くなかったぞ、と総務部長は祐宜に助けを求めていたけれど、祐宜はパソコンが立ち上がるのを待ちながらただ笑っていた。産休前の美姫は祐宜との関係を隠していた延長で大人しくしていたけれど、本当の美姫は誰にでも言いたいことは言うし、陽葵が生まれてからいくらか強くなった。もちろん祐宜には特にきつく意見することはない。

「まだどっちかというと、俺のほうが上というか、話も聞いてくれてるよな?」

「うん」

「このまま岩瀬さんが川原さんみたいに強くなったら……俺ますますやな」

 総務部長は周りの女性たちを見ながら怯えるように少し身震いした。

「部長──前にも言うたけど──、俺は味方しないですよ」

「どういうことや?」

「まぁ──妻でもありますけど──部下なんでね。こっちの味方します」

 祐宜が前にそう言ったのは、総務部長が美姫に〝彼氏はできたのか〟と聞いたときだった。美姫と祐宜が付き合い始めた最初の月曜日で、どう答えようか美姫が悩んでいたときに祐宜は上司として、人事課長として部長を黙らせた。

「ぬ……。あのときそうか、もう付きうてたんやな」

「そうですよ」

「下手に私が答えたら特徴を言ってまうかもしれんかったし」

 立場が悪くなったと感じたのか、総務部長は逃げるように事務所から出ていった。相変わらずうるさいだろう、と里美と奈津子が笑い、それから家での祐宜とのことをいろいろ聞いてきた。

「堀辺君に前に聞いたけど、あんま教えてくれんかってん」

「別にそんな変わったことは……」

「美姫ちゃん──会社来ても、家帰っても一緒やったら、仕事の話ばっかになれへん?」

「うーん……なるけど……別になぁ?」

 祐宜はできる家事はしてくれるし、美姫が育児でヘトヘトのときは優しくしてくれる。仕事の話をするにしても確認程度のことがほとんどで、それよりも〝総務部長がうるさかったな〟とか〝咲凪と肇の関係〟とか〝他の従業員の噂〟とかが多い。

「あっ、そうや岩瀬さん──岩瀬さんで良い?」

「はい……?」

「堀辺君から聞いてる? 今度の辞令。そこにも貼ってるけど」

 話しかけてきた里美は、意味ありげな顔をしていた。

 美姫は貼り出された紙は見ていないけれど、内容は簡単に祐宜から聞いていた。美姫が人事に戻るので咲凪は店舗に戻り、バイヤーが一人店舗に行く代わりに──。

「あ──はい。……あ──川原さん、ちょっと良いですか?」

「うん? ……なにぃな?」

 不思議そうな顔をする祐宜を置いて、美姫は里美をミーティングルームに呼んだ。里美は〝何だ〟と聞いていたけれど、美姫が店長の話をしようとしていることはもちろん分かっている。

「あれから誰かに言いましたか?」

「ううん。言ってない。堀辺君には言うたん?」

「あの──私が人事に異動したとき、たまたま店長から電話あって、聞いたみたいです」

「店長が堀辺君に言うたん? ほんまにめんどくさい男やな」

 里美の言葉に同意しながらも美姫が笑いだしたので、里美は理由を聞いた。その電話がきっかけで祐宜がプロポーズしてくれたと言うと、それから話題は美姫の結婚式のことになった。

「もうすぐよなぁ。子供も一緒に出るってチラッと聞いたんやけど」

「はい。リングガールしてもらおうと思ったんですけど、ちょっと厳しそうなんで……披露宴かなぁと」

「ふぅん。陽葵ちゃん、まだ会ったことないけど可愛いんやろなぁ。そういえば──中野さんと佐倉君も、まだ付き合ってるんやろ?」

「はい。あの二人も結婚するはずです、あ、言うてもた」

 美姫は慌てて口を押さえたけれど、既に里美に聞かれてしまっていた。

 肇は咲凪に早いうちから〝一緒に暮らせたら良いな〟と言っていたし、プロポーズするつもりだとも祐宜に話したらしい。咲凪にはっきり伝えてはいないけれど、咲凪はずっとその日を待っている。

「佐倉君なぁ……。仕事できるし、まぁまぁ格好良いけど、緊張しいやからなぁ。あんたもそうやったよな」

「うーん……」

「最初の頃、堀辺君とよぉ喋らんかったやろ?」

「あれは、あの人が悪いというか……。敢えてあのキャラを作ってたみたいです」

「敢えて? ……周りが変な人ばっかやから?」

「──まぁ、そういうことです」


 それから十日ほど経ってから咲凪は店舗へ異動していき、美姫はまた祐宜の隣で働くようになった。女性たちは特に何も言ってこないけれど、総務部長は相変わらずうるさい。バイヤーたちは席が離れているのもあって静かにしている──けれど、美姫が仕事に復帰するときの辞令は〝堀辺美姫〟として掲示されたので、一人だけうるさい人がいた──美姫の元彼だ。

「噂で聞いてたけど、堀辺君……岩瀬さんと結婚したってほんまやったんやな」

「そうやな」

「ほんまに良かったん? 前にも電話で言うたけど、文句多いやろ?」

 祐宜と元彼の話を聞きながら、美姫は震えそうになるのを必死で耐えていた。既に過去のことになっているけれど、嫌なことを思い出してしまう。

「いや? そんなことないけど……器の問題ちゃうか?」

「器? 俺のほうが堀辺君より年上やで?」

「そうやけど、そのギャップを受け入れられんかったんやろ? 一回り近く離れてんやから、同じ考えやと思ったらあかんと思いますよ。ましてや男と女やし、違う生き物ですよ」

 祐宜が全力で美姫を守ってくれるのは嬉しかったけれど──。

「ちょいちょい堀辺、ストップ。なに、もしかして岩瀬さん……こいつと付きうてたん?」

 顔を上げた総務部長はまた、いいことを聞いた、と目を輝かせていた。

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