第8章 ビターチョコレート

#40 隠している蜜 ─side 祐宜─

 それから一年ほど経って、俺はまた総務部長に呼び出されていた。既に慣れた状況ではあるが、彼と二人きりというのは全く嬉しくない。普段でも向かい合って座っているのに、これ以上は勘弁してほしい。ちなみに本当の上司の山田相談役は、相変わらずあまり本社には来ない。

「もうすぐ岩瀬さん育休終わるやろ? そのまま人事に戻ってもらうつもりやけど、それでえか?」

「あ──そうですね。九月から」

 一年前の八月末、美姫は無事に女の子を出産した。夏生まれで、俺と美姫が関わりだしたのも夏だったのもあって、陽葵ひまりと名付けた。美姫はしばらく実家に帰っていたが、少し前に新居を決めて三人で引っ越した。美姫の実家に近いのもあって、二人とも仕事のときは陽葵を預かってもらうことになった。

「それから……中野さんも異動やな」

「そうですね。あの子には──」

「今度の新店に行ってもらっても良いかと思うんやけど」

「なるほど──あ──いや、それはやめたほうが」

「なんでや?」

 咲凪が肇と順調に交際していることは美姫と肇から聞いていた。肇は結婚を考えているようで、二十代のうちにプロポーズしたいと照れながら話してくれた。もしも咲凪が新店舗に行く場合はレジチーフとしてなので、各方面に影響が出てしまう。

 帰宅してから美姫に異動の話をすると、やはり〝咲凪を新店に行かせるのはやめてあげて〟と言われた。美姫が出向していた当初、レジチーフには結婚予定があったが、新店舗勤務になったことで遅れて相手と少しもめたらしい。美姫と咲凪はときどき連絡を取っているようで、咲凪は〝最近の肇は様子がおかしい、悪い意味ではなく何となく変、もしかするとプロポーズされるかも〟と期待しているらしい。付き合いだした頃に〝一緒に暮らせたら良いな〟と肇がもらしたらしいことも美姫から聞いている。

「堀辺さん──あの、相談があるんですけど」

 数日後、昼休憩に行こうとすると、肇に呼び止められた。

「どうした?」

「あの──喫茶店、行きませんか?」

 誰かに聞かれたくない話のようで、近所の喫茶店はやめて大夢に連れていった。平日の昼間なので、平太郎の他には近所の主婦が数人いるだけだった。

「堀辺さんは……どこでプロポーズしたんですか?」

「それは……俺の部屋やな。前に住んでたとこ」

「え……岩瀬さん、それで怒らんかったんですか? お洒落なレストランとかじゃなくて」

「あ──怒らんかったな。まぁ……告白したときは店を選んだけど……。あの日、たまたま元彼と話してな」

「え? 岩瀬さんの元彼って」

「──誰とは言わんけど、店の奴」

 当時はまだ俺と美姫の関係は知られていなかったが、元彼から仕事で電話があって〝美姫は実は元カノだ〟と言った。美姫とはあれもこれも合わなくて喧嘩ばかりだった、と文句を言っていたが、それは彼の性格の問題だ。ジェネレーションギャップを受け入れてもらえなかったと美姫は言っていたし、俺とはそんな問題はなかった。プロポーズはもう少し先でも良かったが、早く気持ちを伝えておきたかった。

「美姫に聞いたんやけどな……中野さん、たぶん待ってるわ」

「待ってるって……もしかして咲凪、俺がプロポーズしようとしてるって気付いてるんですか?」

「たぶんな。佐倉の様子がおかしい、って」

 肇は俺から場所のアドバイスをもらいたかったようだが、参考にならなくて申し訳なかった。美姫にはプロポーズも婚約指輪を渡したのも家になってしまったので、せめて結婚式は希望を全て詰め込むことにしている。


 美姫とは一年前に入籍しているが、美姫が妊娠していたのもあって結婚式は遅れてすることになった。式場を決めてからも挙式まで一年以上あったので、準備は余裕をもってすることができた。お互いの祖父母を呼ぶこともあって近くの会場で、チャペルでの挙式と披露宴をすることになっている。

「挨拶は誰にしてもらう?」

「誰やろな……相談役が良いんやろうけど、あんまり状況知らんやろうしな。総務部長か……あと桐野やな」

 結婚式は日曜日に予定しているので、本社のメンバー全員に招待状を出した。どうしても出席できないバイヤーもいたが、ほとんどが出席の返事をくれた。

「あとは陽葵が大泣きせんかったら良いんやけどなぁ」

 詳しいことは決まっていないが、陽葵も一緒に参加することになった。まだ一人では歩けないが、何かにつかまって立つことはできる。

「ところで美姫──九月の異動やけどな」

「うん?」

 総務部長と何度か話し合って、対象者と異動先が決まった。本社を出ていくバイヤーがいるが、俺は続投だ。よっぽどのことがない限り、そのまま部長に上がっていくらしい。

「中野さん、前の店に戻ることになったわ」

「そうなん? まぁ良かったんかな?」

「前はヒラやったけど、チーフでな。あと──例の店長……美姫の、元彼の」

「うん……?」

「本社に来ることになった」

「えええっ?」

 美姫が急に大声を出したので陽葵は驚いて目を大きく開けていた。少し泣きそうな顔をして俺に抱きついた。

「ごめん、ビックリしたなぁ」

 美姫が謝ると、今度は陽葵は美姫を選んだらしい。一緒に過ごす時間が長いので仕方ないが、同じ親として悲しい。

「それで、店長は……何になるん?」

「店に行くバイヤーがおってな。交代」

「ふぅん……」

「結婚したって知ってるはずやし、さすがに何も言ってこんと思うけどな」

 美姫が人事になって一緒に店舗を回ったとき、彼とはものすごく気まずそうにしていた。それ以来、特に用事がないまま、電話で話すこともないまま、美姫は産休に入った。以前、奈津子が〝今はこんなん〟と笑っていたし、仕事も覚えて自信もついていた。この一年で忘れたことがあるかもしれないが、美姫ならきっと乗り越えられるはずだ。

「美姫……仕事……続けて大丈夫か?」

「え? なんで?」

「いや──確かに今は、そんなに俺も給料良くないけど……できたらやけど、もう一人子供ほしい」

 授かりものなので、わがままを言うつもりはない。ただ俺も美姫もまだ頑張れる年齢なので、できれば二人目がほしい。

「そうやなぁ……そろそろなぁ」

 ふと見ると、美姫の腕の中で陽葵は眠ってしまっていた。美姫はそのまま部屋を出て、陽葵を布団に寝かせてから戻ってきた。

 妻の妊娠中に浮気する男がいるらしいが、俺はそんな気は全く起きなかった。美姫のことは守ると付き合うときに約束したし──一度だけ守れなかったが──、今でも全く気持ちは冷めていない。

「わっ?」

 そっと近付いて抱き締めてやると、美姫は驚いていた。驚いていたが、俺を見上げてすぐに笑顔になった。

 笑顔も見たいがそれよりも──。

 美姫への感謝と愛情を伝えずにはいられなかった。

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