#39 甘い関係

「ここをチェックして、最後にここの数字が合ってるか確認して──」

「うん……。ここが、こうで、それから……この数字?」

「そうそう」

 いつも通り仕事をしている祐宜の隣の席には美姫──ではなく咲凪が座っている。美姫は空いている椅子を持ってきて、祐宜と咲凪の間に座って咲凪に仕事を教えている。

 美姫が産休と育休を取っている間、代わりに咲凪が人事に来ることになった。咲凪は事務が苦手なので話を聞いたとき嫌だと言っていたけれど、美姫が休んでいる間だけ、と条件付きで了承してくれた。美姫がいる間は休みを合わせることにしたのと、システムに肇がいることも影響したらしい。

「美姫ちゃんいる間に覚えられるかなぁ」

「大丈夫、私も最初はちんぷんかんぷんやったけど何とかなったし、もしものときは──隣の人が助けてくれるから」

「──俺?」

「咲凪、堀辺さんは仕事できる人やから、心配せんでいいで」

 総務部長のパソコンを見ていた肇が咲凪に声をかけた。少しだけ固くなっていた咲凪の表情が一瞬で柔らかくなった。

「まぁ、いつでも聞いてくれたら良いわ。パートさんもいてるし。総務部長も、うるさいけど悪い人ちゃうから」

「ちょいちょい、俺の印象いきなり悪くせんといてくれる?」

「咲凪ちゃん知ってるよなぁ、部長がうるさいって」

「ちょい、岩瀬さんまで、あ──もう籍入れたんか……まぁややこしいし岩瀬さんでええやろ」

 美姫と祐宜は、四月になってすぐに婚姻届を出した。美姫は既に祐宜の部屋に引っ越しているので、二人とも出勤の日は一緒に通勤している。電車通勤だった祐宜は車通勤にして美姫を助手席に乗せてくれている。ちなみに美姫だけ出勤のときも、祐宜が送り迎えをしてくれている。

 総務部長は自分を守ろうとしているけれど、彼のことは美姫はもちろん肇もいろいろ咲凪に話していたので、既に咲凪も事情を知っていた。よっぽど仕事に影響がない限りはスルーして良い、と祐宜も笑いながら言った。

「この部屋に部長何人かと社長もいてるけど、みんな普通のおっちゃんやから気にせんで良いで」

 笑いながら言いに来たのは奈津子だ。

「岩瀬さんも最初そんなんやったけど、今こんなんやから」

「えっ、こんなん、ってどういうことですか?」

 美姫が奈津子のほうを向いて聞くと、祐宜はパソコンの画面を見たまま吹き出していた。それを見て総務部長も笑い、美姫は顔を歪めながら奈津子の言葉を待った。

「だってなぁ、ここに来たときは思いっきり緊張してたし、堀辺君と話すときもガチガチやったのに」

「それは──」

「今は慣れて、部長にも好きなこと言うてるし」

「ははっ、ほんまやな。確かに強くなったわ」

「そりゃ……」

 笑う祐宜に美姫は頬を膨らませる。

 異動した途端に告白されて、一週間後にプロポーズされて、同僚や会社に思っていることが同じで会う度にそんな話をしていたからそれが仕事中にも出て、原因を作ったのはあなたです、と美姫は黙って祐宜を見つめた。

「堀辺君もやで。だいぶ丸くなったやん」

「中野さん、岩瀬さん何か言うてた? 堀辺のこと。佐倉でもええわ」

「美姫ちゃん……付き合う前かなぁ、堀辺さんとは〝ないと思う〟ってずっと言ってたよなぁ?」

「あ、それ、僕も聞いた」

「堀辺、何があったんや?」

 総務部長が聞くと、近くにいた全員が祐宜に注目した。事情を知っている美姫も、頬を膨らませたまま祐宜のほうを見た。

「まず──友達の家でたまたま会ったのは、事実ですからね? それまでは、何もなかったですよ」

 当時、彼氏がいなかった美姫は、七夕の短冊に〝彼氏ができますように〟と願いを書かされた。内容を指定してきた里美は、美姫の元彼事情も、祐宜とは距離があることも知っていた。

「じゃあ、歓迎会のあとでラーメン食べに行ったのは?」

「それは、嘘です」

 答えたのは美姫だ。

「でも、二軒目に誘われたのは事実で──お腹空いてたし」

「お洒落なバーに連れてってもらった、って」

 咲凪も仕事の手を止めて隣で笑っていた。あの日の祐宜とのことを咲凪には簡単に話してあった。

「詳しいことは言わないですけど──どうしても話しとかなあかんことあったんでね」

「なに、いきなり告白したん?」

「違いますよ、その……バーベキューのときの話をね」

 美姫からメンバー全員へのLINEに既読すらつけなかった理由を祐宜は話してくれた。それから少し話したあと、祐宜は美姫への気持ちを素直に打ち明けた。

「岩瀬さん、異動前に堀辺君に内示で呼び出されたとき、途中から何か知らんけど反抗してたもんなぁ?」

「あ──はい。その話をしました。あのときは、ちょっとだけ──イラついてたから」

 そのことは祐宜も分かっていたようで、ちゃんと謝ってくれた。祐宜は本当は優しい人だったと知って、今まで冷たくされていたのがどうでも良くなった。

「岩瀬さんが堀辺にイラつくて……堀辺、何かしたんか?」

「いや、何もしてないです」

「ほんまか? 岩瀬さん?」

 美姫が頷くのが信じられない、という顔を総務部長はしていたけれど、祐宜は本当に美姫とはほとんど関わってこなかった。それが今では家に帰ると──、とまた美姫が黙って見つめていると、祐宜は気まずくなったのか席を立ってどこかへ行ってしまった。

「思ってたのと全然違う……」

 出ていく祐宜を見送ってから咲凪が呟いた。

「そうやろ? だから何も心配いらんから」

「まさか美姫ちゃんがそんなこと言うようになるとはなぁ」

 咲凪が笑うと、総務部長や女性たち全員も一斉に笑いだした。

「でも岩瀬さんが堀辺君を気にしてたのは見たらわかったけど、堀辺君のことは何もわからんかったから……悪いのは堀辺君やな」

「岩瀬さん、ほんまに堀辺で良いんか?」

「会社では、あんなんですけど……、友達には信頼されてるし、ただの良い人ですよ」

「あっ、帰ってきた堀辺」

 祐宜が事務所に戻ってきたのが見えたようで、総務部長は祐宜が席に着くのを待った。

「何ですか?」

「いま、岩瀬さんが堀辺のことを褒めちぎってたけど」

「まぁ……そうでしょうね」

 祐宜が美姫に嫌な思いをさせたことは何度かあったけれど、入籍を決めてからはそれはなくなった。美姫は祐宜に隠し事をしなくなったし、祐宜も美姫を大切にしてくれた。美姫が無意識に祐宜を見つめていると、『私も若かったら狙ったのにな』という女性たちの笑い声が聞こえた。

「二人になったら堀辺がどう変わるんか知らんけど、佐倉も見習いや。中野さんが誰かバイヤーに狙われてるかもしれんし」

 今のところ、咲凪に手を出そうとしているバイヤーの気配はないけれど。

 総務部長の言葉に咲凪は苦笑し、肇は少しだけ赤くなっていた。

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