#30 引きこもり
会社からも、祐宜や咲凪からも、何回も連絡がきていることはもちろん知っていた。無断欠勤しているのは本当に申し訳なく思っていたし、祐宜や他の同僚たちにも迷惑をかけているとじゅうぶん分かっていた。それでも美姫は会社に戻って──○△社の営業マンと仕事をする気にはなれなかった。顔を見たくなかったし、思い出したくもなかった。
訪問できないから、と外で会うことになった日、何かがおかしい気がしていた。仕事の話をするはずなのに妙に馴れ馴れしくて、話すときの距離も妙に近かった。駅で待ち合わせたので、どこかの喫茶店に入って話すのだろう、と思っていたけれど──、彼は近くの喫茶店をいくつも通りすぎ、やがてホテル街に向かっていると気づいて美姫は逃げ出した。けれど彼のほうが足は早くて、すぐに捕まってしまった。
「ええー、なんで逃げんの?」
「やっ、やめて、離してください!」
「なんで? ちょっとくらい遊ぼうよ。楽しいことしようよ」
「嫌ーっ!」
美姫は必死に抵抗して、大声で叫んだ。人が少ない場所でダメかもしれないと思ったけれど、通りかかった親切な人が彼を引き剥がしてくれた。彼はそのまま逃げ去って、助けてくれた人が大通りまで着いてきてくれた。
「ここで大丈夫? 警察呼ぶ?」
「いえ……ありがとうございます」
「気をつけてな?」
周りに人がたくさんいたのでとりあえず安心はしたけれど、美姫はしばらくそこから動けなかった。
ようやく動けるようになってから、小さなカフェに入って温かいものを飲んだ。少しは落ち着いたけれど震えはなかなか止まらず、会社の近くの公園で休んでいた。近所の人がのんびり散歩しているのを見ていると震えは治まった。
祐宜から電話があったのは、ちょうどその頃だった。けれど何があったのか言う気にはなれず、会社には戻ったけれど仕事をする気にもなれず、すぐに帰宅した。
一晩眠るとだいぶ落ち着いたので、翌日はいつも通りに出勤できた。少し早めに家を出て、溜まっていた仕事を片付けた。昨日の話をする気にはなれなかったけれど、祐宜は何も聞かないでくれたし、奈津子もランチに誘ってくれた。祐宜に呼び出されてキスをされても、嫌な気は全くしなかった。慰めてくれているような気さえして、むしろ嬉しかった。
それでもやはり、○△社との仕事は美姫にはできなかった。うっかり彼に教えてしまった個人の電話番号とLINEは、何回も彼からの連絡を受信した。電話は出なければ問題なかったけれど、LINEはどうしようもなかった。ブロックに設定する気力は全く起こらなかった。祐宜からの連絡にも出る気は起こらなかったけれど、連絡が来ていることを確かめたくて電源は切らなかった。彼が送ってくれているLINEが心配してくれる内容なのは通知の時に分かったけれど、○△社の営業からのLINEは仕事のことにはほとんど触れていなかった……。
一週間ほど経って、ようやく奈津子に話す気になれた。LINEは聞いていなかったので電話をして、けれどなかなか言葉にはならなかった。美姫が話し終わるまで、奈津子は辛抱強く待ってくれた。
『よく話してくれたな。辛かったやろ……。それ、堀辺君には言った?』
「いえ……何も、話してないです。今やっと、朝倉さんに電話して……」
『わかった、私から言っとくわ。岩瀬さんは、ゆっくり休み。仕事来るのは落ち着いてからで良いからね』
「ありがとうございます……。あ、あと、堀辺さんに……謝っといてもらえますか……連絡する気に、なれなくて……」
『うん、言っとく。何も気にせんで良いから』
「はい……ありがとうございます……」
本当は祐宜とも話したかったけれど、なぜか連絡する気にはなれなかった。一番頼りたい存在なのに、伝えるのが怖かった。ただ、同じく何度も連絡をくれていた咲凪には、〝心配かけてごめんね〟とだけ連絡しておいた。
仕事は嫌いではないので会社には行きたかったし、何より早く祐宜に会いたかった。せっかく隣の席になって部下として頼ってもらえていたのに、こんなことになってしまってものすごく申し訳なかった。けれど外に出ると○△社の営業に会う気がして、自分の部屋から出られなくなってしまった。部屋に鍵をかけていれば、誰も入ってこないので安心だった。
週末はいつも祐宜のところに泊まりに行っていたけれど、もちろん足は向かなかった。祐宜からは『来てくれるよな?』というLINEが入っていたけれど、美姫は既読すらつけなかった。それでも本当は、彼に会いたかった。彼に触れて、抱きしめてもらいたかった。けれどそれ以上に、外に出るのがものすごく怖かった。
奈津子に連絡して少し経ってから、会社から封書が届いた。無断欠勤についての処分が書かれているのだろうか──、と不安になったけれど、それは事情により不問とされることになったらしい。
会社から従業員宛の手紙は美姫も何度か作ったことがあって、パソコンで作成・印刷される簡単なものだ。けれど美姫に届いたものはそれとは違い、奈津子からの手書きメッセージだった。
美姫が奈津子に話したことはすぐに祐宜にも伝えられ、彼は上司として、人事課長として部下を助ける行動を起こしてくれたらしい。
「祐宜……ありがとう……」
思わず涙が沸いてきて、手紙を濡らしてしまった。
○△社との商談の続きを二度は祐宜がしたけれど、三度目が行われることはなかった。祐宜と総務部長で○△社に出向き、美姫がされたことを話して商談は中止し、会社としても二度と取引しないことに決めたらしい。
【あの営業もクビになったらしいけど、どこにいるか分かれへんから外に出るときは気をつけてね。堀辺君も、部長らも、誰も怒ってないから、元気になったら会社においで】
「良かった……」
美姫はようやく安心した──けれど。
元気に仕事に行く気にはなれず、部屋で一人で過ごす日が続いていた。そんなうちに十二月の中旬になって、祐宜と約束したクリスマスデートの日が近づいてきていた。祐宜には会いたいけれど、外に出る勇気がなかった。どうしても避けられない用事があったので厳重に警戒して一度だけ外出したけれど、それ以外はずっと部屋で過ごした。
外出はしたけれど──、もしも祐宜と会ったときのためのプレゼントを買う余裕はなかった。体調も良くなかったので寝て過ごすことも増え、そんなうちに約束の日を迎えてしまった。
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