第6章 勝手な都合

#28 無断欠勤 ─side 祐宜─

「堀辺さん……今日、岩瀬さんは?」

「今日は――ずっと本社ですけど」

「○△社の方、来られてますけど……岩瀬さん席外してます?」

 俺は事務所を見渡して美姫を探した。始業時間は過ぎているが美姫の姿はなく、出勤した形跡もなかった。パソコンは昨日の帰りに電源を落としたままで、今日する予定だったらしいことを付箋でモニターに貼り付けていた。ふとスマホを見たが、何の連絡も入っていなかった。

「……会社に連絡来てないですか?」

「来てないです。とりあえず、商談室でお待ちいただいときましょうか」

「あ、はい、お願いします」

 商談に来たのは、美姫に託した仕事の取引先の、俺と同年齢くらいの青年だった。挨拶に行った時は美姫も笑顔で話をしていたし、俺も特に何も思わなかった。美姫が彼に惹かれる可能性をまったく考えなかったし、心のどこかで誰にも負けない自信があった。

 けれど美姫は、彼と二人きりで会ってから様子がおかしくなった。疑いたくはないが、何かあったのではないかと悪く考えてしまう。

 来社させておいてそのまま返すのも悪いので、美姫の代わりに俺が商談に出た。フォローするとは言ってあるし、彼もわかってくれるはずだ。

「すみません、今日は、岩瀬が休んでまして……」

「え? 風邪か何かですか?」

「いや……まだ連絡来てないんでわからないんですが――こないだ岩瀬と何か決められましたか?」

「はい、あの、私の都合で外だったので、詳しくは話せてないんですが、前任の者と堀辺さんが話されてたことで一旦は進めるんですが――」

 ○△社との商談は何事もなく進み、事務所に戻った時に時計の針は十二時ちょうどを指していた。けれど隣の席には相変わらず人が来た気配もなく、パソコンの電源もついていなかった。何度か美姫に電話連絡をして、LINEもした。けれど、美姫から連絡が来ることは一度もなかった。

 美姫はあれからいつも通りに会社に来ていたし、週末にもうちに泊まりに来てくれた。ただ、体調はあまり良くないようで抱くことは許してもらえなかったが──、それでもじゅうぶん幸せだったし、おかしなことは無かった。週明けにもいつも通り出勤して、いつも通り総務部長にいろいろ疑われた。

 けれど美姫は二回目の○△社との商談の日から、しばらく会社を無断欠勤した。週末になっても、泊まりに来なかった。電話をかけてもまったく出ないし、LINEを送っても既読すらつかない。おかげで俺の仕事は倍増し、○△社との仕事もほとんど俺が一人で片付けた。やっと同じ部署になって一緒に働けると思ったのに、それは三カ月ほどしか続かなかった。三カ月と言えば、別れ話が出やすくなる時期ではあるが――まさか美姫もそうなのか? 俺のことを嫌いになったのか? 結婚式の準備も進めているのに、今更か?

「今日も寒いなぁ。ずっとパソコン触ってたら、指冷たくなるやろ?」

 話しかけてきたのは奈津子だった。いつものように突然現れ、美姫の席に座っていた。昼休みに入った頃に、奈津子はいつもやって来た。他愛もないことを一人で喋り、言うだけ言うと満足したのかすぐにいなくなる。今日もきっとそうだろう。

「ああ寒い。椅子も冷たいし」

「……じゃ、立ったらどうですか」

「うーん……なぁ堀辺君、外行けへん?」

「外? 余計寒いですよ。今日は温かいものを――」

「岩瀬さんのことなんやけど」

 奈津子の言葉はいつも聞き流していたが、今の言葉は無視できなかった。

「岩瀬さんから、連絡あったんですか?」

「うん。昨日の夜な……人事課長の耳に入れておきたいから」

 俺は奈津子と会社を出て、近所の喫茶店に行った。何度も来ているし嫌いではないが、特に美味しいと思うものはない。珈琲は自家焙煎と謳ってはいるが味にはそれほど魅力がないし、普通にスティックシュガーが出てくるのも寂しい。

 美姫は昨日の夜、奈津子に電話したらしい。

「声がな、なんかもう、ものすごい辛そうやってん。泣きながらやったし、なかなか言い出されへんみたいやったから、落ち着くまで待って……」

 奈津子は真剣な顔をして俺を見ていた。会社に来ないということは、社内で何かあったのだろうか。前の上司の奈津子──美姫と同じ女性には話せたのだろうか。それとも最初に商談に出かけて帰りが遅かった日に、何かあったのだろうか。

「いまうちに来てる○△社の営業……堀辺君くらいよな?」

「はい。ちょっと下やと思いますけど」

「あの人に――なぁ、なんで岩瀬さんを一人にしたん? なんで一人に任せたん?」

 奈津子の声は震えていた。俺を睨んでいるようにも見えた。

「なんでって、それは」

「ごめん、堀辺君は悪くないわ……。あの子しっかりしてきたし、頼りにしてたんよな」

「はい……。もしかして、あの男が、何かしたんですか……?」

 奈津子はじっと俺を見て、悲しそうな顔をしていた。

「岩瀬さん、なかなか帰らんかった日……あの人と外で会ってたんやろ?」

「はい、そう聞いてます」

 そして奈津子が話したことは、俺の心の繊細な部分を深くえぐり取った。心に大きな穴を開けて、嫌な風が吹き抜けた。まさか美姫が、大事な部下が、大切な彼女が──。どうして一人にしたのかと強く自分を責めた。出来ることなら時間を戻して、二人で行くべきだった。

 午後から○△社との三度目の商談があり、彼はやってきた。奈津子に聞いたことには触れないように、けれどその時には話すつもりだった。今回の仕事はもう少しで終わるが、会社として取引は今後も長く続くことになっていた。

「あの、女性の方――岩瀬さんでしたっけ、まだ調子良くないですか」

「……はい、そうですね。まだ出て来れないみたいで。あ、すみません、今回の仕事は岩瀬に任せてたんですが、こういうことになってしまって」

「いえ、とんでもないです。でも心配ですね、何かの病気、ですか?」

「はっきりとは言えないですけど……良くならないみたいで……」

「そうですか……僕も何回か連絡してるんですけど、全く出ないんで」

「連絡? 電話ですか?」

「はい、電話と、LINEと。それじゃ、もし戻ったらよろしくお伝えください」

 なにが『よろしくお伝えください』だ。美姫を散々苦しめた本人が、俺の前でよく言うよ。

 ○△社の営業はとりあえず帰らせて、俺はすぐに相談役と総務部長を呼んだ。美姫が無断欠勤している話から始め──、途中から奈津子にも入ってもらった。彼氏としてはもちろん上司としても、会社としても看過できる問題ではなかった。

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