#27 我慢の限界 ─side 祐宜─

「堀辺君、岩瀬さんは?」

 仕事に戻ってしばらくしてから、奈津子に声をかけられた。取引先から美姫宛に電話がかかってきたらしい。

「――まだ戻ってないですか?」

 休憩中に美姫の話をして頭の中が美姫でいっぱいになっていたが、隣の席に彼女の姿はない。戻ってきている形跡もなく、予定も〝外出〟になったままだった。

 美姫はいったい何に時間をかけているのだろうか。トラブルが起きたのだろうか。

 いろんなことが頭をよぎるが事実は分からず、スマホにも連絡は入っていなかった。いい加減に心配になって、こっちから電話をかけた。呼び出し音が鳴って、美姫はすぐに出た。

『……はい』

「岩瀬さん? 今、どこにいますか?」

 会社の電話でかけているので、言葉は選んだ。

『今……かい……っ……こう……』

「え? ……なに?」

 美姫からの返答はしばらく無く、代わりに鼻をすする音が聞こえた。

『もう嫌……ぅっ……嫌や……この仕事、嫌……』

「えっ? なんで、ちょっと、岩――」

 何があったのか聞く前に、美姫に電話を切られてしまった。美姫は本当に辛そうな言い方をしていた。

 もしかすると美姫は今日は戻らないかもしれないと思ったが、夕方四時頃にようやく戻ってきた。そして同僚たちからの質問には一切答えようとせず、黙ってパソコンの電源を入れた。

「岩瀬さん、ちょっと」

 美姫は嫌そうな顔をしたが、すぐに立ち上がって着いて来てくれた。ミーティングルームに入ってからよく見ると、美姫の目は真っ赤になっていた。どれだけ泣いたのだろうか、かなり痛そうだった。ちょうど手を洗った直後で冷えていたので、美姫の目に当てた。

「何かあったんか?」

 美姫は何も答えてくれなかった。

「俺にも言いたくないんか? 上司としてじゃなくて」

「……言いたくない」

「そうか……。嫌なことが――あったか、なかったか、それもか?」

 美姫は黙ってうつむいたまま、何も答えなかった。

「さっき、電話で『この仕事が嫌』って言ったよな。何かあったんやろ?」

「……あったけど、言いたくない……。遅くなったのは、ごめんなさい」

「それはもう良いから。戻ってきてくれて良かった。俺も、もっと早く連絡したら良かったな」

 普段は会社では滅多にしないが、気づけば美姫を抱きしめていた。嫌がられはしなかったが、抱きしめ返してはくれなかった。離れてから美姫を見ると、また涙を流していた。

「前に、私が失敗したらフォローはしてくれる、って言ってたの……覚えてますか?」

「もちろん。どうした、二人やのに敬語なんか……」

「じゃあ──フォローしてください……今日は、すみません、帰ります」

「えっ、ちょっと、美──岩瀬さん?」

 困惑する俺を残して、美姫はミーティングルームを飛び出していってしまった。慌てて後を追ったが、美姫には追い付けなかった。荷物を持ってジャケットを引っかけ、走って通路の奥へ消えてしまった。


 ため息をつきながら事務所に戻ると、美姫のパソコンはついたままだった。戻ってくるとは思えなかったので、とりあえず電源を落とした。

「堀辺、岩瀬さんに何した? 泣きながら走ってったぞ」

「――何があったか聞いただけです。何も、答えてくれなかったですけど」

「大丈夫なんか? 上司がしっかり助けてやれよ」

「はい……。あとでもう一回、電話してみます……」

 美姫が出てくれる可能性は低かったが、俺は帰宅してから美姫に電話した。やはり何回かけても結果は同じで、美姫は電話に出てくれなかった。仕方がないのでLINEをしたが、それも既読にはならなかった。

 次の日、俺はいつもより早く出勤した――そして驚いた。美姫のほうが先に来ていて、すでにパソコンを立ち上げて仕事に取り掛かっていた。

「おはよう――美姫」

「あ……おはよう……昨日はごめんなさい」

「いや、もういいよ。それより、体調は良いんか?」

「今日は、うん、大丈夫」

「そうか。良かった」

 美姫はすっかりもとの調子に戻っていて、周りに誰もいなかったので優しく声をかけた。体調は昨日の泣いた目もあるが、忘年会の日に辛そうだったのも心配していた。昨日のことはやはり言いたくなさそうにしていたが、それ以外のことは普通に話してくれた。付き合っていることを肇に教えたと言うと驚いていたが、それなら咲凪にも話すべきかとしばらく考えていた。

「おはようございまーす、あれ、どうしたん、二人揃って早くない?」

 三番目に到着したのは奈津子だった。

「あっ、さては……今度こそ浮気?」

「ち、違いますよ!」

 美姫は慌てて否定して、俺は隣で苦笑していた。本当に美姫とは何の連絡も取っていなかったし、第一、美姫は正真正銘、俺の婚約者だ。

 昨日できなかった仕事を片づける、と美姫は言っていたが、それはなかなか出来ていなかった。奈津子に捕まって、例の男性と汐里の関係を詳しく聞かれていた。俺も少し気になったが、聞き耳を立てるより、本人もしくは美姫にいつでも聞ける。

 昨日の涙は嘘だったかのように、美姫は一日中元気に仕事をしていた。昼休みは残念ながら奈津子に先に捕まってしまって、一緒には食べられなかった。帰ってきてから奈津子は『美姫は食べすぎてお腹が苦しいらしい』と笑いながら同僚に話していた。満腹になったのが原因なのか、昨夜眠れなかったのかはわからないが、午後の仕事をしながら美姫は眠そうにしていた。

「岩瀬さん、ちょっといいですか」

「……は、はい」

 美姫を呼び出して向かった先は、いつものミーティングルームだ。俺が書類を持って来たので美姫も慌ててノートを掴んでいたが、仕事の話をするつもりはほとんどなかった。

「眠いんか?」

「うん……食べすぎたかも」

「眠気覚ましてやろか?」

「え? ――!」

 話をしながらドアに鍵をかけていたのは、美姫にキスをしたかったからだ。たった数日なのにもう何ヶ月も触れていない気がして、我慢できなかった。昨日ここで抱きしめてはいるが、美姫の反応は良くはなかった。

「もう、誰か来たらどうすんの」

「どうしようか?」

 美姫は言葉では怒っているが、俺と同じ気持ちだったらしい。部屋の奥に移動して、柔らかい唇の感触を求めあっていた。俺は美姫の首筋にキスマークをつけようとして──美姫に止められた。

「待って祐宜、さすがにそれは、まずい」

「ごめん……。とりあえず、何か打ち合わせしとこか」

 美姫の化粧が崩れていないのを確認してから、ミーティングルームの鍵を開けた。持ってきた書類を広げ、それについてしばらく話し合った。

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