#25 珈琲と角砂糖
なんとなく気まずい雰囲気になったけれど、美姫は祐宜の後を追って事務所から出た。社内にいる間はとりあえず距離を取って歩き、外に出てから少しずつ近づいた。もちろん、外で誰かに会う可能性もゼロではないので手を繋ぐことはない。
どこまで行くのだろう、と祐宜のあとを着いていくと、住宅街の細い路地に入った。
「わぁ、こんなとこに」
昔ながらのレトロな喫茶店、というのは美姫もよく行く会社の近くの店と似ているけれど、雰囲気は全然違っていた。控えめに『
ドアを入って正面にカウンター席があり、奥に四人掛けのテーブルが三つ並んでいた。マスターに勧められ、真ん中のテーブル席に向かい合って座った。
「祐宜、いろんな店知ってるなぁ」
「そりゃな。外回りとか休憩で、この辺の店はだいたい行ったな。ここは何食べても美味い」
注文した料理が運ばれてきて、美姫は思わず目を輝かせた。決して豪華なものではないけれど、大きなエビフライとクリームコロッケのランチプレートは店で一番の人気メニューらしい。
「美味しっ、熱っ」
「はは、ゆっくり食べろよ」
平日なので客はほとんどおらず、カウンターに高齢の客が二人いるだけだった。マスターの幼馴染みのようで、楽しそうに昔話をしていた。
「さっきは焦ったな」
「うん。あ、祐宜、よく私のこと〝ちょっと年下〟て言えたなぁ」
「ちょっとやろ? ギリギリ一桁やし。あんまり気にしてないし」
「確かに……ギャップはないかも」
「最初はさすがに戸惑ったけどな。入社何年も経ってる俺が新入社員なんかに、って……。でも、思いきって良かったわ」
食後の珈琲を飲みながら祐宜は笑った。彼はブラックで飲んでいるけれど、美姫は砂糖もミルクも入れた。大夢では砂糖は各テーブルに角砂糖を小瓶で置いていて、それが可愛くてつい、いつもより多めに入れてしまった。
祐宜の情報によると、大夢には常連客の男子大学生がいる。彼はマスターの知り合いで、いつも奥の席で勉強している。夕方になると手伝いに来る女子高校生はマスターの孫で、大学生のことが気になっている。二人はお似合いに見えるけれど、二人が付き合うことに大学生には迷いがあり、マスターは目くじらを立てているようで──。
カランコロン……
「いらっしゃい」
ドアについた鐘が鳴ってマスターが迎え、一人の青年が勉強道具を持ってやって来た。彼が例の大学生なのだろうか。高校生はまだ学校だろうか、店内にはいない。彼は奥の席に着いて、マスターがコーヒーを運んだ。
「私もここ通おうかなぁ……珈琲美味しい」
美姫の声はマスターに届いたようで、カウンターの奥から嬉しそうな顔を覗かせていた。
「ところで美姫、今度、一人で仕事してみるか?」
「……え?」
美姫は商談を上手くこなすようになり、取引先からも評判は良かった。美姫が成長していく姿が祐宜には上司としても嬉しかったらしい。
「年内に片付けたいのが一個あってな。そんなに大きい仕事ちゃうから、美姫一人でも大丈夫やろ。早かったらクリスマスまでに片付くと思うぞ」
「うーん……祐宜は? 別の仕事?」
「ああ……来年、店が増えるやろ? その準備に取り掛かるわ。まぁ、本格的には年明けやけどな」
仕事の話をしながら会社に戻り、ミーティングルームで詳しい話を聞いた。取引は主に本社で進められるけれど、美姫に引き継がれるのと取引先の担当も変わっていたのとで、忘年会の前に二人で挨拶に行った。取引先の担当は、祐宜より少し年下くらいの青年だった。
「私、一人で大丈夫かなぁ……」
「ははは、大丈夫。俺が保証する」
「……もし失敗したら?」
「失敗すんのか? もしものときは、フォローはするから」
二人で一緒に忘年会に向かったので、先に到着していた人たちから事情を聞かれた。その中には肇もいて悔しそうな顔をしていたけれど──二人は本当に、取引先から戻ってきただけだ。
美姫は相変わらず男性陣から人気があって、何人かは美姫に恋人がいることを残念そうにしていた。奈津子は昼間とは違い、〝二人はお似合いなのに残念〟という意見に変わっていた。祐宜は、美姫が本社に来るより前から好きな人がいる、と強調し、美姫も祐宜の話は敢えて聞こえないふりをしていた。
「佐倉君、咲凪ちゃんとはうまくいってるん?」
「まぁな。休みバラバラやからあんまり会えてないけど」
「そうよなぁ。咲凪ちゃんは土日も仕事やもんなぁ。……クリスマスは? どっかで会えるん?」
「当日は無理やけど、ちょっと前に会う予定」
「へぇ。良いなぁ。どこ行くか決めてるん?」
美姫が聞くと肇は、近くのテーマパークに遊びに行って大きなクリスマスツリーを見る予定だ、と照れながら教えてくれた。翌日は咲凪が仕事なので長居はできないけれど、その分、肇は家まで車で送るつもりらしい。
「岩瀬さんは? 彼氏……いてるんやろ?」
「うん、いてるけど……どうなんやろなぁ。当日に会える予定やけど、何も聞いてないわ」
今年のクリスマスはちょうど週末で、美姫も一旦は家に帰ってお洒落をしてから外で待ち合わせることは決まっていた。けれどそこからどこに行って何をするのかは、ほとんど聞いていない。
「もしかして、うまくいってない?」
「え? あ──ううん、仕事のこと考えてた。今度、一人で商談することになったんやけど……不安しかなくて」
「一人で? 堀辺さんは?」
「他の仕事やって。助けてくれるとは言ってたけど……」
取引先の担当は話しやすそうな青年だったけれど、一人で、と言われると不安が大きくなってしまった。本当は最初から助けてもらいたいけれど、祐宜の手を煩わせたくもない。
祐宜にとって美姫は、本当に可愛くて、仕事の出来る優秀な部下で、自慢の彼女らしい。だから忘年会の帰り道も、たまたま同じ方向に帰るのは二人だったので、安全な駅まで祐宜が美姫を送る――、と見せかけて途中でタクシーに乗り、二人で祐宜の部屋に帰った。
「美姫、どうかしたんか? 顔色悪いぞ」
部屋に入って気が抜けたのか、美姫はペタンと座り込んだ。
「うん……なんか、気持ち悪い」
「飲み過ぎか? ちゃうよな、そんなに飲んでなかったよな」
「うん……ごめん、今日は……したくない」
「――いいよ。ゆっくり休んだら良い。おいで」
祐宜は正面から抱きしめてくれて、キスもいつもよりとても優しかった。美姫も少しくらい返したかったけれど、思うように体は動かなかった。疲れているのか体調が悪いのか分からなかったけれど、すぐに寝ることにした。
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