#24 署名と判
「ありがとうございました!」
午前中に来客があって、美姫は祐宜と一緒に商談に入っていた。学生の頃は人と話すのは苦手だったけれどレジの仕事を始めてから接客が好きになって、商談をし始めた頃は緊張したものの近頃は祐宜に褒められるようになった。いま送り出した取引先の営業マンとは祐宜一人では上手く行っていなかったのが、美姫が一緒になってからスムーズに進み、ようやく終わりが見えてきたらしい。
「ほんまに助かったわ、美姫のおかげやな。美姫がおらんかったら、来年まで持ち越したかもな」
「へへへ。どういたしまして」
「それじゃ今日は――美味いもん食べに行くか。奢ってやるわ」
「やったぁ! あ、でも、夜は飲み会あるから……」
「控えめにせな、悪い意味で太るぞ」
「もう――!」
年末になると忙しくなるので、本社ではいつも一ヶ月早く忘年会が開かれていた。美姫と祐宜も予定がないので参加することになって、解散後はもちろん、美姫は祐宜の部屋に帰る予定にしている。
二人でいったん事務所に戻り、書類を置いてパソコンを見た。すでに休憩時間になっているので、周りの人たちは外に出たり休憩室へ行ったりしている。美姫は社内掲示板に流れてきている情報をチェックして、取引先からのメールにも軽く目を通して、隣で同じようなことをしている祐宜の様子を伺っていた。
「岩瀬さん、友達……写真の子と付き合ってくれてんやってなぁ?」
突然現れたのは、奈津子だ。いつも突然やってきて、いつの間にかいなくなっている。
「あ──はい。趣味も合うみたいで」
汐里から、写真の彼と会ってみたい、と連絡があってから美姫は奈津子に彼の連絡先を教えてもらった。それから直接、二人で連絡を取り始めたらしい。
「良かったわぁ。上手いこといったら良いんやけどなぁ。……ところで岩瀬さんは、彼氏できたん?」
奈津子は立ち上がって総務部長の姿がないのを確認してから聞いた。
「はい……ちょっと前に」
実際は、祐宜は彼氏というよりは婚約者に変わっていた。お互いの両親にも既に挨拶に行った。美姫の両親はやはり祐宜の外見に見惚れていて、祐宜の両親は美姫に何度も〝こんな年上で良いのか〟と確認していた。年齢が離れていることは珍しくはないし、美姫は年上の包容力にいつも憧れていた。どちらの両親も反対はせず、自分達のタイミングで結婚すれば良い、と言ってもらえた。
「そんなら別にあれやな、岩瀬さんにも誰か紹介せなあかんなぁと思ったけど、いらんな?」
「はい……」
「彼氏いくつなん?」
「……確か、十歳くらい上です」
「あれま、そんならあれやなぁ、堀辺君と同じくらいやな?」
「──そう、ですね。何歳か知らないですけど」
もちろん、それは嘘だ。祐宜は美姫より九歳上だと、ちゃんと知っている。
美姫は言いながら顔だけ横を向けて祐宜を見た。あくまで年齢を想像している風に、決して見つめてはいけない。
「堀辺君、いくつ?」
「え? ……三十五ですけど」
「あ──じゃあ、一緒なんや……」
「それやったら、変な感覚になれへん?」
「うーん……たまになりますけど……でも、全然違うから」
仕事中とプライベートでは、本当に祐宜は別人のようになる。美姫にいろいろ教えてくれることが多いけれど、子供のように甘えてくることもある。
「どっちが格好良いん? あ、当然、彼氏やな?」
「まぁ……はい……」
これも〝上司を悪く言ってはいけない〟感じで、苦笑しながら答えた。祐宜もどう反応するか迷っているようで、視線はパソコンに向けたままだ。そろそろ美姫は逃げたかったけれど奈津子は話を止めそうにないし、祐宜も座ったまなので余計に辛かった。
「堀辺君は?」
「はい? 何ですか?」
奈津子は今度は、祐宜に質問することにしたらしい。
「いつ結婚するん?」
「──来年には、と思ってますけど……」
「彼女いくつなん? 大学の知り合いって言ってたから……同い年?」
「いや……ちょっと下ですね」
「ふぅん。確か──三年くらい付き合ってるて言うてたな?」
「はい」
「私、大学は行ってないから分からんのやけど、違う学年の人とってサークルとかで知り合うん?」
「そうですね。サークルやったら他の大学の人もいるし、授業も全学年合同とかありますよ」
「へぇ……。まぁ、幸せなのは良いことやわ」
奈津子は質問するのをやめたようで、席に戻って仕事を続けていた。今は美姫のあとに販促に来た人が休憩しているので、奈津子はまだ動けないらしい。
美姫が書類を片付けてパソコンもスリープにしていると、祐宜が座ったまま椅子を美姫のほうに回転させた。彼は既に出かける準備は出来ているらしい。
「ん? 堀辺、なに岩瀬さんジーッと見てんや?」
話しかけてきたのは、休憩から戻ってきた総務部長だ。彼は片手に栄養ドリンクの瓶と、もう片方の手にはバナナを持っていた。山田相談役ほどではないけれど、彼も常に食べている印象がある。
「まさか口説こうとしてんちゃうやろな?」
「違いますよ。いつまで言うんですか」
「部長、さっき話してたんやけど、二人とも付き
奈津子が自分の席から助けてくれたけれど──、関係を隠している美姫と祐宜は言葉に詰まってしまった。けれどそれは総務部長の発言に呆れたように見えたようで、特に続きは聞かれずに済んだ。
「岩瀬さん、お昼まだやろ? 私あと三十分くらい待たなあかんのやけど、一緒にどう?」
「あ──すみません、今日は……仕事が一個片付きそうなんで、堀辺さんが美味しいもの奢ってくれるって」
「えー、いいなぁ。それで夜は飲み会やろ? 美味しいもんばっかり食べてたら太るで。じゃ、私はあとで隣の喫茶店でも行くかなぁ……あ、そうや、二人に言っとこうと思ってたんやけど」
美姫は荷物を持って立ち上がりながら奈津子のほうを見た。祐宜も少し遅れて立ち上がった。
「仲良いのは良いけど、浮気厳禁やで」
「だから、それはないです……」
「ほら堀辺、気になってるの俺だけとちゃうやろ、朝倉さんも言うてるやんか」
「ほんまに絶対ないですって。なんやったら、浮気しません、て署名と判しますよ」
「──言い切ったら今度は、岩瀬さんが可愛くない、みたいに聞こえるけどな」
「あ──いや──、ごめん……」
祐宜が強く言ったので、ようやく部長も大人しくしてくれた。そこまで言うなら信じるしかないと、美姫の彼氏を店舗従業員から探し始めてしまった。奈津子は何も言わなかったので、美姫の彼氏の年齢は秘密にしておいてくれるつもりらしい。美姫と祐宜は絶対に、浮気にはならない。
「そういや岩瀬さん、堀辺の彼女と会ったん?」
「──はい。……綺麗な人でした」
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