第5章 噂と真実

#22 噂になった二人

「堀辺君、こないだ頼んでた資料、作ってくれた?」

 山田相談役が立ち上がり、チョコレートバーの袋を開けてかじりつきながら祐宜に話しかけた。パリパリと音を立てて食べるのは、悪いとは言わないけれど少々迷惑だ。

「あ──それ……岩瀬さん、できてる?」

「ええと……これですか?」

 美姫がパソコンを操作すると、祐宜が隣から覗き込んできた。

 異動から一ヶ月ほど経って仕事にも慣れた頃、祐宜に書類作成を頼まれた。妙に難しい言葉が並んでいるのは、もともと相談役からの依頼だったからだ。

「岩瀬さんが作ってくれたん?」

「もらった時点で余裕あったし、岩瀬さんにも、勉強になると思って」

 話しながら祐宜はファイルをチェックし、問題はなかったようなので美姫はそれを印刷した。出てきたものを相談役に渡すと、彼は『ありがとうありがとう』と言って自分の席へ戻っていった。その間に祐宜は、黙って席を離れてしまった。

「山田部長の書類まで手伝うって……、岩瀬さん、嫌なもんは嫌って言いや」

「え? ああ……はは」

 通りかかった里美が笑いながら美姫に言った。相談役は嫌われているわけではないけれど鬱陶しがられることは多いので、何かを頼まれてもほとんどの人が一旦は断るらしい。今回も相談役が祐宜に依頼しに来て、一応は上司なので彼は引き受けていたけれど、嫌な顔をしているのを美姫は見逃さなかった。そして相談役が去ったあと、祐宜はそれを美姫の仕事にした。

「堀辺君からやったら断りにくいやろけどなぁ。はは。今日、二人で店まわるんやろ? 〝何か〟あったらすぐ電話しぃや」

「あ──ははは! はい」

「結婚するて言うてたし、ないとは思うけど……最近の堀辺君あやしいで」

 美姫はこの日から、祐宜と二人で店舗を回ることになっていた。車で移動するので簡単には外に出られず、もしも何か起こっても美姫に逃げ場はない。もちろん、彼との関係は良好なので、何かあっても美姫が逃げる必要はないのだけれど。一日で全店舗を回るのは無理なので、終わるのは十月末の予定だ。

「あ、そうやそうや、これETCカード。渡しといて」

 美姫がETCカードを受け取って少ししてから祐宜が戻ってきた。彼が席に着くのを見ながら美姫がETCカードを渡していると、前の席の総務部長が顔を上げた。

「堀辺、岩瀬さんが〝なんで私が山田部長の仕事せなあかんのや〟て怒ってたで」

「えっ、言ってないですよ。嘘ですよ」

「……どっちがほんまなん?」

「部長が嘘ついてます」

 祐宜は部長と美姫を交互に見た。どちらを信じるか悩んだ末に、やはり美姫を信じることに決めたらしい。

「岩瀬さんはそんなこと言わないですよ」

「む……。やっぱ堀辺、丸くなったよな」

「そうですか?」

「なったよな、岩瀬さん?」

「──はい」

 美姫が言うと祐宜は少し不機嫌そうな顔をして、それから『そろそろ出れるか』と美姫に聞いてパソコンの電源を切った。美姫が慌てて準備をするのを見ながら、祐宜は先に出ていってしまった。

「岩瀬さん、堀辺にこき使われてないか?」

「いえ、それは特に……」

「変な目で見られてないか?」

「──堀辺さんて、結婚するって言ってませんでしたっけ?」

「ああ、そうやな……。言ってたな。……部下やったら詳しいこと聞いてない?」

「聞いてないです。そんな話したことないし……」

 本当は、祐宜とは結婚してからの話をときどきしている。どこに住むのかとか、美姫は仕事を続けるのかとか、披露宴はするのかとか。

「そういえば、友達の旦那の友達やとか言うてたな。そっちから何か聞いてないん?」

「……逆に、聞かれました。たぶん、誰にも詳しいこと言ってないと思います」

 初めて祐宜の部屋に泊まった翌朝、和真から電話があって祐宜が事実を話していたけれど、あれから和真からは何の連絡もない。

「あっ、電話──堀……、すみません、もう行きます。あ──今日は直帰します」

 部長たちが何か言うのを適当に聞きながら美姫は電話に出た。祐宜から『早く来い』と言われたので、美姫は走って駐車場へ向かった。祐宜は普段は電車通勤しているけれど、外出の予定があるときは車で出勤していた。美姫は見慣れた車を探し、運転席に彼がいるのを見つけてから助手席に乗った。


 咲凪から連絡があったのは、それから数日後の夜だった。仕事から帰って家で寛いでいたところへ電話がかかってきた。

 彼女が働いている店舗にも祐宜と行ったけれど、その日は咲凪は休日だったようで会えなかった。美姫が店舗に訪ねていくことは伝えていたけれど、シフトの変更はできなかったらしい。

『何の話したん? 店長と喋っただけ?』

「うん。私は挨拶したくらいかなぁ。堀辺さんは従業員のトラブル聞いたり、残業を減らせとか言ってたけど……」

 勤務は基本的に一日八時間で拘束時間は休憩を含めて九時間と決められているけれど、休憩のタイムカードを通さなかったり休憩時間を削っておきながら〝きちんと休憩しました〟と嘘の申告をしたり、きっちり残業を申告した結果、大幅にオーバーして労基に注意されることがある。美姫はそれほど残業したことはないけれど、一月ひとつきで何十時間も残業する人が何人かいる。

『ところで美姫ちゃん……、堀辺さんとデキてる、って噂があるんやけど』

「ええっ? 誰が言ってんの?」

『美姫ちゃんが来た日、仲良さそうに車に乗るの見た人がおってん』

「ええ……。それ多分、店長と本社の人の話して笑ったあとやから、続きで笑ってたんちゃうかな」

 美姫は本当に、山田相談役や総務部長の話を店長と祐宜の三人でしていた。笑いながら店長と別れ、そのまま車に乗った。

『そうよなぁ。美姫ちゃん彼氏できたって言ってたし、堀辺さんも結婚するんやろ?』

「そう言ってるけど……。あ、咲凪ちゃんも佐倉君と付き合ってんやろ? 佐倉君、どう?」

 美姫が聞くと、咲凪は照れながら嬉しそうに教えてくれた。咲凪は実家暮らしで家族に心配はかけられないし、休日もなかなか合わないけれど、せめて週に一度は仕事帰りに会うことにしたらしい。

『美姫ちゃんは? 彼氏と会えてるん?』

「うん。今は日曜は休みやから、日曜が多いかな」

 咲凪からの質問はなるべく嘘をつかないようにかわして、世間話をしてから電話を切った。

 電話中に祐宜からもかかってきていたようで、LINEにも連絡が入っていた。特に用事はないけれど、時間があれば話したいらしい。

 時間は遅くなってしまっていたけれど、美姫は祐宜に電話した。そして、咲凪がいる店舗で噂になっているらしい、と話した。

「本社の人の話をしてた、ってごまかしたけど……実際そうやったよなぁ?」

『そのはずやで。店から離れるまでは美姫も仕事モードやったやろ?』

「うん。一応は〝違う〟って信じてくれたみたいやけど……本社でも総務部長もあんまり言わんようになったし、いけるよなぁ?」

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