#17 遅刻した理由

 その日の昼休憩は、美姫は一人で過ごすことにした。午後から相談役との引き継ぎが入っている祐宜が先に休憩に出て、美姫も一緒に話を聞く予定なので、まだ席にいた総務部長に疑われないようにしばらく経ってから席を立った。

 休憩室に行くと異動の話を振られるとわかっていたので、本社を出て近くの喫茶店へ行った。入口付近にはバイヤーが数名いたけれど、一人になりたかったので店の奥へ進んだ。

「あっ、佐倉君? と──」

 奥の四人掛けのテーブルに肇と祐宜が向かい合って座っていた。一人別の席に着くのも不自然なので、美姫は散々迷った末に肇の隣に座った。

「いま、岩瀬さんの話してたとこ」

「私の話?」

 肇が話し始めると従業員が注文を聞きに来たので、美姫は日替りランチを注文した。肇と祐宜も同じものを食べている途中だ。

「岩瀬さん、本社に来たとき──俺との関わり方で悩んでたらしいな?」

「え……佐倉君、言ったん?」

「ごめん……。でも、今は違うんやろ? 悩んでるようには見えへんし」

「まぁ、うん」

 ここで肇と会うことも、もちろん祐宜と会うことも想定していなかった。何を話して良いのか分からないし、祐宜がどういうつもりかも分からない。それでもせめて彼の隣に座るよりは、肇と並ぶほうが誰かに見られたとしても弁明しやすいと思った。

「佐倉──実はな」

 何を言い出すつもりかと美姫は祐宜を見たけれど、付き合っていることをバラすつもりではないらしい。祐宜は美姫に分かるように合図をしてから話を続けた。

「俺、夏に友達の家にバーベキュー呼ばれて行ったんやけど、そいつの嫁さんが──岩瀬さんの友達やってな」

「えっ、そうなんですか?」

「全然知らんかったんやけどな。その頃からの気がするわ、俺と岩瀬さん話すようになったの」

「そう、ですね……私もびっくりした。あ、そうそう……」

 美姫はスマホを取って一枚の写真を出した。バーベキューの日に孝彦が写真を撮ってくれるというのでスマホを預けると、メインで映る美姫たち女三人とは離れて楽しんでいる祐宜の姿も捉えられていた。

「ほんまや……それは、びっくりしますね」

「その日、実は──彼女も連れていく予定やったんやけどな」

「えっ、そうやったんですか?」

 驚いたのは美姫だ。

「俺、遅れて行ったやろ? 急に用事できたっていうから、駅まで送って行ってな……」

「それって、堀辺さん、前に噂になってた……結婚するっていう」

「──そうやな」

 噂は七夕の頃からあったし、美姫も本当にいま聞いた設定なので、バーベキューの話を知っている里美にも説明できそうだ。

「ところで佐倉は──、彼女できたんか?」

 肇に聞く祐宜の顔は、気のせいか勝ち誇っているように見えた。さっきは総務部長に怒っていたのに同じ質問だ、と笑いそうになったけれど、同性だから許されるのかもしれないし、さっきは祐宜が自分の身を守ろうとしたことももちろん分かっている。

「それ、岩瀬さんの前で……。まぁ、良いか……味方してもらおかな……」

「なに? どうしたん? ……あっ、咲凪ちゃん? 付き合ってるん?」

「いや、まだ……」

 肇は美姫にフラれてから咲凪と連絡を取っているようで、咲凪も時間ができればすぐに返事を送ってくれているらしい。

「今度デート誘おうかと思ってんやけど、中野さんて何が好きなん?」

「そうやなぁ……私もしばらく会ってないけど……」

 詳しくはLINEで連絡することにして、休憩時間が終わるので三人で喫茶店を出た。会社に戻ってすぐに肇はシステムの部屋に入っていき、それから事務所までの間に祐宜は『さっきの設定でよろしく』と小さな声で言った。

 二人同時に席に戻ったので、やはり総務部長が何か言いたそうに顔を上げていた。とりあえず美姫も祐宜も気づかないふりをしていたけれど、総務部長は喋りたかったらしい。

「岩瀬さん──堀辺とメシ行ってたん?」

「はい」

 美姫があっさり認めたのは想定外だったらしい。

「一人になりたかったんですけど……喫茶店行ったら、佐倉君と堀辺さんがいて」

「──あっ、佐倉、ちょっと来い」

 事務所に肇が入ってきたらしい。総務部長は背筋を伸ばして片手を上げ、バイヤーと話そうとしている肇の足を止めた。そして不思議そうな顔をしながら近づいてくる彼に、喫茶店で何の話をしたのか、と聞いた。

「話? ……ああ──言って良いんですか?」

「……別に隠してないからな」

「堀辺さんが友達の家で、岩瀬さんに会ったっていう話です」

「なんやそれ?」

 美姫も既に里美には話していたので、桐野家での出来事を正直に話した。祐宜との関係を疑われだしたので彼は遅れた嘘の理由を話し、途中で現れた里美が〝前に美姫から聞いた〟と応戦してくれた。写真には和真も写っていたので、里美には〝この人が例の〟と説明しておいた。

「それなら納得やわ。岩瀬さん今度、機会あったら堀辺の彼女がどんな子か見といて」

「──見てどうするんですか?」

「いや、どんな子か気になるだけ」

 総務部長は笑いながら仕事に戻り、祐宜は盛大にため息をついた。祐宜の彼女──と言われても美姫のことなので、どういう設定にするかは二人で話さないといけない。美姫は部長と祐宜を交互に見てから席を立った。

 事務所の隅でボールペンの替芯を探していると、里美がやってきた。至近距離で小さな声で話しかけてきたので、祐宜の話らしい。

「さっきの話、ほんまなん? 堀辺君の彼女も来る予定やったって」

「──らしいです。私もさっき初めて聞いて」

「ふぅん……。そしたらあれやなぁ、また、ふりだしに戻ったな」

 里美は美姫の肩をポンと叩いてから席に戻っていった。彼女がどこまで信じているのかは分からないけれど、少なくとも目の前で仲良く話すのはやめた方がいい。

 山田相談役からの引き継ぎが始まるまで、美姫は給与データと睨めっこをしていた。既に祐宜と二人でチェックして修正箇所を連絡しているので、美姫が勉強のために開いているだけだ。

「ごめんごめん遅なって、お二人さんちょっと、こっちへ来てくれる?」

 相談役が大股で歩きながら美姫と祐宜を呼びに来たので、美姫は慌ててデータを閉じて──閉じようとして何度も〝保存しますか?〟と聞かれたのでまた焦り──ノートを持って立った。祐宜は既に行ってしまったようで事務所に姿はない。

「岩瀬さん、ついていかれへんかったら堀辺に言いや。あいつ仕事早いから、黙ってたらどっさり渡されるで」

「はい……」

 珍しく総務部長が心配してくれるので、美姫は無人の祐宜の机を見ていた。今は書類が山積みになっているけれど、帰るときにはいつ見ても綺麗に片付いている。しばらくは隣で教えてくれると思うけれど、美姫が仕事を覚えたあとは──、任せて外出してしまうかもしれない。

「岩瀬さん」

「はっ、はいっ、行きます」

 呼びに来た祐宜の声で、美姫は慌てて事務所を出た。相談役からの引き継ぎは美姫には難しかったけれど、なんとか頑張って資料を目で追った。

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