第4章 本当の姿

#16 上司として

 月曜日、異動の日の朝。

 販促の美姫の後任が休みだったのもあって、席を移動するのは午後に予定していた。だから美姫は一旦、今まで通りの席に着いて、書類やパソコンのファイルを整理していた。

「おはよう」

「あっ、朝倉さん、おはようございます。こないだの、写真の人ですけど……まだ彼女募集してますか?」

「うん、たぶん。どうしたん、立候補するん?」

「いえ、友達に紹介しようかと思ったんですけど、大丈夫ですか?」

 汐里が元彼との縒りは戻らなさそうなので、奈津子の知人を紹介しようと思った。実際のところは会ってみないと分からないけれど、奈津子には良い子に見えているらしい。

「とりあえず顔だけやけど……聞いてみてくれる?」

「はい。……顔は良いですね……」

 もちろん美姫には祐宜という彼氏ができたので、写真の彼に惹かれるわけにはいかないし、ストライクゾーンから外れているけれど。

「おはようございます」

 その声に美姫は反応してしまい、危うく写真を落としそうになった。なんとか平静を装ったけれど、心臓の鼓動が早くなるのはどうしても止められない。

 出勤してきた祐宜は美姫には見向きもせず、ただ全員向けに挨拶をして自分の席に着いた。彼が席に着くや否やのあたりで山田部長が喋り出すのは、いつものことだ。

「堀辺君、今日、僕の仕事を引き継ごうと思ってるんやけど、いつ都合が良い?」

「いつでも良いですけど」

「ふーん……じゃ、席替えして、午後二時くらいで良い? あ、そうや岩瀬さんにも聞いといてもらおうか」

「──へ?」

 素っ頓狂な声を出してしまったのは美姫だ。驚いて部長のほうを見ると、祐宜と目が合ってしまった。けれど彼はニコリともせず、ただ誰かの言葉を待っていた。

「私……何するんですか……?」

「ただ聞いてくれてたら良いよ。後のことは堀辺君が教えてくれると思うから」

 この週末で慣れたと思っていたけれど、祐宜の名前を聞くだけでドキドキしてしまう。彼の視線が冷たいから、寂しくなってしまう。

「そう、ですね──じゃ、岩瀬さん、こないだの続きは部長の話が終わってからで良いですか。データも来るやろうし」

「はい……。あ、山田部長、こないだお寿司ごちそうさまでした」

「あっ、そうや、部長、ありがとうございました」

「いやいや、ごめんやで、僕が言うといて先に帰って。岩瀬さん、帰り怖くなかった? あの辺、変な店が多いから」

「はい。駅までは、堀辺さん一緒やったんで……あっ、堀辺さんがラーメン奢ってくれたんやった」

 もちろん、それは咄嗟についた嘘だ。祐宜とは何の相談もしていなかったけれど、彼も美姫に話を合わせてくれた。

「部長ひとりタクシー呼んでずるいな、て言いながら食べてましたよ」

「そうか、やっぱり五貫じゃ足らんかったよな。回転寿司の二皿やし……僕も帰ってご飯食べたわ」

「山田部長、もしかして部下二人をあんなとこ残して先に帰ったん?」

 話を聞いていて首を突っ込んできたのは総務部長だ。

「嫁さんが怖ぁてなぁ……。まだ早い時間やったし」

「それでも若い女性をあんなとこに……。堀辺、何もしてないやろな?」

「え? 何をするんですか」

「いや……何もなかったら良いんやけど」

 総務部長はそこで話を終わらせたので、美姫も奈津子との話に戻った。祐宜とどこのラーメン屋に行ったのかと聞かれたので、駅前の人気店の名前を出しておいた。以前に行ったことがあったので、そのときの感想を彼にも聞こえるように話した。

 人事と総務は同じ島になっていて、空いた机があったので山田部長は朝からそこへ引っ越し作業をしていた。部長──役定になって相談役──が使っていたところは美姫の席になり、彼の引っ越しと掃除が終わってから美姫は移動した。午後の予定にしていたけれど、朝の早いうちに終わってしまった。

 最初から完璧にこなすのはもちろん無理だったけれど、祐宜は仕事を丁寧に教えてくれた。既に聞いていたところは復習を兼ねて、新たな知識になるものは言葉の意味も含めて説明してくれた。いつの間にか彼は追加資料を作ってくれていて──量はとても多かったけれど──それが美姫には非常にありがたかった。

 美姫は祐宜の説明を聞きながらパソコンの画面と手元の資料しか見ていなかったけれど、近くの席の人たちは祐宜の表情の変化に驚いていたらしい。

「堀辺君、変わったよなぁ? 前はそんな優しくなかったやん?」

 美姫が席で一息ついていると奈津子が話しかけてきた。祐宜は仕事のことを呟きながらパソコンを操作していた。

「──そうですか? そりゃ、まぁ……引き継がなあかんし、強く言いすぎたら負担になるやろうし」

「それもあるけど、表情がな、優しいねん」

 奈津子が笑いながら言うので、美姫も思わず祐宜を見てしまった。

「……そう言われれば確かに」

「ははは、朝倉さん、それはあれやわ、今まで僕が隣やったけど、若い子が来たから」

 山田相談役は自分の席で菓子パンを食べていた。出勤前に朝ごはんは食べると聞いたことがあるので、よっぽどお腹が空いているらしい。

「またパン食べて、あ、飲み物は一応、黒烏龍なんやな」

「うん……血糖値下げい、て嫁さんにも医者にも怒られんねん」

「そんならパン食べのやめなあかんわ。──堀辺君て……前に結婚するって言うてたよな?」

「ああ……まぁ、はい」

「そんなら岩瀬さんは関係ないよな。彼女とどれくらい付き合ってるん?」

 奈津子からの質問に祐宜は面食らい、美姫も彼が何と答えるのか不安しかなかった。

「──三年くらいですね」

 その数字が出てきたのは、二人がお互い気になりだしたのが同時期だったからだろう。

「そんなら違うんか、こっちから見てて仲良さそうやから二人付き合ってんかと思ったけど」

 祐宜の向かいの席に座る総務部長は、祐宜と美姫を観察していたらしい。部長の勘は正しいけれど、認めるわけにはいかない。

「堀辺、彼女とどこで知り合ったん?」

「どこでって……大学の……」

「じゃあ、やっぱり違うな……。岩瀬さんの彼氏て、佐倉か?」

「え? ……違います……そんな話、部長にしましたっけ?」

「いや……うーん……佐倉と一緒におるの何回も見たんやけどな。彼氏は──できたんか? 七夕に書いてたやろ?」

 美姫がどう答えようか迷っていると──。

「部長、さすがにそれはダメですよ、俺が怒るわ。部下やし、訴えるて言うたら味方しますよ」

 祐宜が強く言ったので、美姫も頷きながら部長のほうを見た。部長は何か言いたそうにしていたけれど、黙って仕事を続けていた。

「ありがとうございます……」

 美姫は少し祐宜を見てから、奈津子のほうを向いた。奈津子も美姫の彼氏の有無を聞きたそうにしていたけれど、総務部長のいないところで聞く、と笑いながら席に戻っていった。

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