#18 二人の関係

「僕から堀辺君への引き継ぎはこんなもんですね。あとはお二人にお任せして。以上!」

 相談役からの引き継ぎは一時間ほどで終わった。細かいことは後でパソコンを見ながら確認する、と祐宜が言うと相談役は席を立ち、いそいそとミーティングルームを出ていった。話の内容をきちんと吸収できないまま美姫も立ち上がり、相談役に続いた。

「岩瀬さん、ちょっと良いですか」

 部屋を出ようとしたところで、祐宜に呼び止められた。彼は美姫に中に戻るように言い、席に着くのを見てからドアを閉めた。そして表情を優しく変えてから美姫を見つめ、声のトーンを落として言った。

「大丈夫か? 焦って一気に覚えようとせんで良いからな?」

 張り詰めていた気持ちが急に緩んで、美姫は泣きそうになってしまった。

「頑張るのは良いけど、無理はするなよ。わからんとこは、いつでも──休みの日でも教えてやるから」

「うん……大丈夫……」

 ──ではなかった。堪えていた涙が急に溢れだして、手元の書類を濡らしてしまった。祐宜とは以前より会社で話すようになったけれど、それでも週末に知ってしまった彼の本当の姿とは違いすぎて悲しかった。気づかないふりをしていただけでこんなにも彼のことが好きだったのかと、すぐ近くにいるのに触れられないのがとても辛かった。

「ほら……鼻水つけんなよ」

「──ありがとう」

 貸してもらったハンカチで涙をぬぐっていると、祐宜は優しく抱きしめてくれた。そんなことをされると余計に涙が出てしまう。

「泣くのは今日だけやぞ」

「うん……」

 やがて祐宜は美姫を離し、ポケットから何かの鍵を取り出した。

「これ、預ける」

「なに……?」

「うちの合鍵。次の土曜日、午前中に仕事入ってな……あ、美姫は休みで良いで。早めに戻るから、待ってて。荷物もあるやろうし。夜は泊まるから時間は心配ないよな」

「そんな、勝手に入るの……」

「気にすんな。見られて困る物なんか無いし。美姫には隠し事するつもりもないしな」


 美姫が難しい顔をしながら事務所に戻ったので、総務部長たちは二人で仕事の話をしていたと思ってくれたらしい。仕事の話も少しはしたけれど──、それ以外の時間は今後の接し方について話していた。会社では関係がバレないように今まで通り過ごし、友人たちには本当のことを話していくらしい。彼氏が出来たら教えることを約束している咲凪には、祐宜だとは伏せて教えることにした。ちなみに〝祐宜の彼女の設定〟は、美姫が勝手に作って良いらしい。もちろん、まだ会っていないことになっているので、言うのはまだ先だ。

「はぁ……」

「ん? 岩瀬さんがため息ついてる……堀辺、無理難題を言ったんちゃうやろな?」

「えっ、そんなこと言ってませんよ。相談役からの話を、岩瀬さんに関わるとこだけ説明して……、いっぱいいっぱいなってるな」

 祐宜は美姫のほうを見て、はは、と笑った。

「──はい。ちょっと、整理してるんで、黙っといてください」

 思っていたことを正直に言ってしまってから祐宜に向けて言ったように聞こえると気づいたけれど、もう遅かった。驚いた顔で美姫を見ているのは、祐宜も総務部長も同じだった。

「あ──今のは、堀辺さんじゃなくて、部長に言いました」

「ぬ? 堀辺、岩瀬さんどうしたん? 急に強くなってないか?」

「さぁ……。必死なんですよ、たぶん」

 美姫は頭を押さえながら先ほどの引き継ぎで貰った資料を眺めていた。仕事のことを考えている、と見せかけて──もちろん考えてはいるけれど──、無意識に自分のキャラクターを変えてしまったことについて悩んでいた。祐宜が〝会社に期待していない〟と言っていたのは美姫も同じで、周りが年上だらけなのもあって控えめな態度を取ってきていた。けれどいろんなことが同時に起こって、頭がパンクしそうになって思わず素の自分を出してしまった。販促のときにバイヤーたちと気楽に話していたように、これからは総務部長にも──畑が変わって壊れた設定にしようかと考えていた。

「岩瀬さん、またメールで修正後のデータ来てるから確認して」

「はい」

 祐宜に言われ、メールを確認すると委託先から給与データの修正版が届いていた。確認して、と祐宜は言っていたけれど、画面を開いて一緒に見てくれている。

 修正箇所はそれほど多くはなかったのですぐに確認が終わった──と思ったけれど、祐宜が確認を終えるほうがもっと早かったらしい。もう修正は無しで良いようなので委託先にデータ確定の連絡をして、美姫は再び大きなため息をついた。

「疲れたやろ?」

「はい……」

「一ヶ月の仕事でこれが一番大変やと思うわ。ボーナスのときもあるけど、それはまだ楽やから」

「はい……。いま──急ぎの仕事はないですよね?」

「うん……ない、な。勉強しとくか?」

「はい」

 そして美姫は机の隅に避けていた資料──相談役からの引き継ぎではなく祐宜がくれたものを見て、パソコンでデータを開きながら復習していた。祐宜は言葉の意味までは書いてくれていなかったので、それはインターネットで検索してちゃんと調べた。

「堀辺ぇちゃん、これまた頼むわ」

 祐宜が仲の良い人たちから〝べーちゃん〟と呼ばれているのは、本社に来たとき数名のバイヤーが呼んでいるのを何度か聞いて知った。彼らは祐宜が新人だった頃に同期たちにそう呼ばれているのを聞いて真似をしたらしい。

「なに? ……有給? まだ先よな?」

「うん、病院行かなあかんねん。公休でいけんこともないけど〝有給も消化せぇ〟て、どっかの人事課長に怒られるからな」

「別に怒れへんけど、従業員の権利やからな。……岩瀬さんにやってもらおか」

 隣で話を聞きながらそんな気はしていた。バイヤーが有給の申請を出したのを美姫が画面に登録するらしい。ちなみにそれは各個人が専用端末で登録できるらしいけれど、人事まで依頼しにくる人がまだまだ多数派だ。

「べーちゃんもやっと部下できたんやな。岩瀬さん、こいつだいぶ年上やし、前におるのもけったい奇妙・おかしいな人やし、気ぃつけや。圧に物言わせたあかんで」

「ちょいちょい、けったいとは何や?」

 総務部長とバイヤーが笑いながら言い争っているのを見ていると、祐宜がバイヤーの有給登録の仕方を教えてくれた。意外と簡単で、すぐに終わってしまった。

「ついでに教えとくわ、有給の取得日数と残日数はここに」

 登録とは違う画面に各種休暇の取得日数が載っていて、年度が変わって有給が追加されたときに確認が必要になるらしい。

「岩瀬さん、何かあったら部長やろうと訴えて良いからな」

「はい……。有給登録しときました。あと残りが三十六です」

「もうできたん? ありがとう。……べーちゃんと岩瀬さんて、そんな仲良かったか? もしかして付き合ってる?」

「やっぱそう思うよな。でも違うらしいわ、残念ながら」

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