#14 人間らしい人
金曜日の夜は、山田部長が回らない寿司屋を予約してくれていた。
美姫は何度か祐宜から仕事の話を聞いているけれど、それでも関係は以前とあまり変わっていない。仕事の話を終えると彼は、美姫とは話そうとしない。だからなんとなく初めは気まずかったけれど、部長が話を振ってくれるし、祐宜も普通に話してくれていた。お酒が入ったからなのかいつもの仮面は崩れていたし、おかげで美姫も彼に話しかけやすかった。
「いつもありがとうございます。今日は、どういった?」
おまかせの五貫を三人分握り終えてから、大将が部長に話し掛けてきた。五貫の前にはお通しと、天ぷら盛合せが届けられている。
「今日はねぇ、この子がうちの部署に異動してきたんで歓迎会と思ってね。〝回ってない寿司屋に連れていけ〟て言うから」
「えっ、そこまで言ってないですよ。部長が予約してくれるって、自分で言うてましたよね?」
美姫は前半は部長に反論して、後半は祐宜に同意を求めた。
「うん。確かに。部長、奢ってくれる、って言ってたわ」
「言うたけどなぁ、そんな持っとらんで?」
「いや、俺、部長の給料知ってるけど、すごいですよ」
従業員の給与振込はグループの別会社に委託しているけれど、その前に数字を確認するのは人事の仕事だ。支給日が近づくと残業が増えるとは既に聞いている。
「次の月曜あたり、データ届くんちゃうかな」
「早速しんどい作業やな。堀辺君、ちゃんと教えたってや」
「はい」
休み明けから、と聞いて美姫がゾッとしたあと、『嫁さんが……』と部長がそわそわしだしたので三人で店を出た。挨拶もそこそこに部長はひとり、タクシーを捕まえて帰っていってしまった。
「さすがにまだ食べ足らんやろ?」
部長が乗ったタクシーを目で追っていると、隣で祐宜はため息をついていた。
「そうですね……」
お金の心配はしなくて良いと部長は言ってくれたけれど、本当に高級な店だったので多くは注文できなかった。一貫もそれほど大きくはなかったので、このままでは夜中にお腹が空きそうだ。
「二軒目行こか。奢るから。話したいこともあるし」
場所は少しだけ駅に近づいて、祐宜が連れていってくれたのはお洒落なダイニングバーだった。カウンターがメインの小さめの店ではあるけれど、店主は用がない限りは話しかけてこないし近くにも来ない。会社の近くにあるけれど見つけにくい場所なので、祐宜は何度か来ているけれど同僚に会ったことはないらしい。
「話の前に、謝らなあかんよな」
「え? 何をですか?」
「バーベキューの日のLINE──ごめんな、返事してなくて」
「あ──いえ……」
あまりに素直に謝られ、美姫はきょとんとしてしまった。いつかは問い詰めようと思っていたことだ。
「俺のこと〝冷たい〟と思ってたやろ?」
「……はい」
「だから急に明るく送っても変やと思ってな……。あれは会社に期待してなくて仕事に専念した結果のキャラやから。それで嫌な思いさしてたかもしれんな。ごめんな」
「いえ、もう……良いです」
「今更やけど、俺を──上司として見てもらえるか?」
「はい。堀辺さんのことはずっと、仕事できる人、って信じてました」
「……なんで? 俺、あんまり岩瀬さんと関わってないやろ?」
祐宜は不思議そうに美姫を見ていた。
「そうですけど、挨拶はしてくれてましたよね。だからです。挨拶してくれない人は、仕事できても信頼できないです」
いつからか美姫はそう思うようになった。店舗で働いているとき仕事ができる先輩がいたけれど、挨拶をしてくれなかったので頼りたくなかったし、パートたちにも嫌われていた。祐宜は謎が多かったけれど、挨拶をしてくれるので信頼はしていた。
「私、変なこと言ってますか?」
「いや……。確かにそうやな」
「ところで、話って何ですか?」
「ああ……。俺ってどう思われてるん? いま答え聞いたかもしれんけど」
初めて会った入社式の日は、まず格好良いなと思った。けれど同時に、表情は死んでいるようにも見えた。本社で働きだしてからは冷たい人だと思うようになったけれど、本当は違う気もしていた。好きになってしまってからは、彼が視界に入る度に目の保養にしていた──とは、さすがに言えない。
「みんな、褒めてますよ。悪く言ってるのは聞いたことないです」
祐宜は少し嬉しそうに笑った。冷たいとは言われているけれど、嫌いだとは誰も言っていない。
「そうか……。でも、頼りない上司かもしれんで」
「それはない、と思いますよ。たぶん、ですけど」
いま美姫の隣にいる祐宜は、美姫が知っている彼ではなかった。とても人間らしい人で、初めからこの状態で出会っていたかった。それならもしかすると、バレンタインに本命を渡せたかもしれない。
「なに? どうしたん?」
いつの間にか美姫は、祐宜を見つめてしまっていた。慌てて視線を逸らした。
「あの、良いんですか? 私なんかと一緒にいて……彼女に怒られないですか?」
「ははっ、彼女なんか、もう何年も前からいてないけど」
「えっ?」
美姫は耳を疑って、思わず祐宜を見た。彼は楽しそうに笑いながら、店主を呼んで二人分のドリンクをおかわりしていた。
「──結婚するって、嘘ですか?」
「いや? いつかはするやろうし、俺の願望。願望というか、妄想やな」
──なんだろう、この気持ち。この人。
祐宜が美姫と話さないのは興味がないからだと思っていた。友人たちの知らない間に婚約して、だからバーベキューも参加を渋ったのだと思っていた。けれど彼が言った言葉は全てを否定して、美姫の頭は混乱していた。
「岩瀬さんが人事に来るって知ったとき、嬉しかった」
ドクン、と美姫の心臓が激しく跳ねた。
「ずっと、気になってたから」
本当に心臓が飛び出しそうだった。体中でドキドキして、手にも力が入らなくなった。
「……いつから、ですか?」
「研修のとき。単純に外見からやけど……本社に来てから、良い子やなと思って……佐倉と仲良いの見たらモヤッとしてた。俺が佐倉とよく話すのは知ってるよな?」
「はい」
「あいつから──告白したけど返事ない、って相談されてな」
「え……」
「でも聞いてたら、バレンタイン……佐倉にはほんまの義理やったんやろ? 俺のほうが可能性あるんかなって思った」
確かに美姫はバレンタインのとき、祐宜には本命と思われても良いとは思っていた。けれど会話は増えなかったし、結婚するらしいと聞いて諦めようとしていた。
「堀辺さんのも、義理でしたよ」
「知ってる。本命くれても良かったのに」
美姫はもう随分前から喉がカラカラになっていたけれど、グラスを持つ手はなぜか重力には逆らえなかった。祐宜も同じなのだろうか、何度もグラスを掴もうとしては、持ち上げられずに離していた。
「俺と──、付き合ってもらえませんか」
桐野家の庭に咲いていた向日葵が、青い空に綺麗に映えていた。そんなことを思い出して、自分たちに重ねてみた。
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