#13 初めての笑顔
「岩瀬さん、ちょっとちょっと」
普段と何も変わらない事務所の一角に腰をおろして荷物を置き、パソコンの電源を入れていると奈津子が出勤してきた。それから挨拶もそこそこに美姫に見せたのは一枚の写真だ。
「……これ、誰ですか?」
写っているのは若い男性だった。
「知り合いの男の子なんやけど、……興味ない? 彼女募集中なんやって」
年齢は美姫よりも少し上らしい。
「なになに朝倉さん? ……岩瀬さんに彼氏?」
既に出勤していて事務所にいた里美が写真を覗きに来た。そして笑いながら声のトーンを落として奈津子に言った。
「格好良い子やけど……岩瀬さんのタイプはもっと年上ですよ」
「えっ、そうなん? ……堀辺君?」
「いや、それは」
「最近の元彼二人が、八歳上と十歳上なんですよ。だから、──良いんちゃうかなぁーと思ったけど、バレンタインあかんかったみたい。はは! いろいろ噂もあるし」
それだけ言うと里美はまた笑いながら離れていった。
「私は良いと思うけどなぁ、岩瀬さんと、彼」
里美が話しているときに出勤してきたレジトレーナーは、パソコンの電源を入れながら美姫のほうを見ていた。敢えて『彼』とぼかしたのは、その本人も出勤していたからだ。
「あ、前のは、ごめんな? あんまり詳しくは知らんけど、店で一緒やった人からは評判良いで。そろそろ彼氏ほしいやろ?」
「ほしいけど……」
美姫は祐宜が好きではあるけれど、彼の気持ちは全くわからない。ホワイトデーは嬉しかったけれど結婚すると言っているし、一方で桐野夫妻の情報では彼女はいないらしい。何が本当なのかわからなくて、美姫も一歩を踏み出せずにいた。
月曜日は人事のミーティングがあるようで、美姫も参加するようにと山田部長に呼ばれた。作業中の仕事は保存しておいて、部長と祐宜が出ていって少ししてから美姫も慌てて出た。ミーティングルームを使うようで既に二人は向かい合って座っていて、中に入ってドアを閉めると部長に、祐宜の隣に座るように言われた。
「ごめんね岩瀬さん、急に呼び出して」
「いえ……」
「これ今日の資料なんやけど、わからんやろうから適当に聞いといて」
「はい……」
部長から資料を受け取ってざっと目を通したけれど、美姫にはわからない言葉が並んでいた。部長と祐宜が話す内容はなんとなく分かったけれど、完璧に理解するのは難しかった。
本当に自分に人事の仕事が務まるのかと、不安になってしまう。資料の漢字から言葉の意味を考えてみたけれど、難しいので途中で諦めてしまう。
「岩瀬さん、こないだの就業規則……読んだ?」
「途中まで読みました」
「あれもなかなか厄介な言葉で書いてるから、わからんやろ? 僕も覚えるの苦労したわ」
全従業員向けに書かれているので難しい単語はないけれど、普段使わない言葉がたまにあるのでなかなか理解できない文章もあった。文章を一単語ずつに区切って、時間をかけて読んだ。有給休暇や特別手当の項目はせめて、異動するまでに理解しておきたい。
「ところで──岩瀬さんの歓迎会をしようと思うんやけど、週末は二人とも空いてる? まぁ、言うても三人やから寂しいかもしれんけど。パートさんは来れんのやて」
「今週ですか?」
「うん。無理やったら次でもええけど」
祐宜は手帳を捲って予定を確認していた。本社は店舗と違って日曜は基本的に休みになるけれど、土曜はそうではないし、日曜に出勤している人もいる。日曜に休む人が多いのは、取引先が休みになるからだ。ちなみに世間の連休は小売業には無縁なので、休みになるから納期が変更に、と言われるとほとんど全員が相手にイラついている。
「堀辺君、どう?」
「大丈夫ですね。金曜でも土曜でも」
「岩瀬さんは?」
「私も、どっちでもいけます」
美姫は学生の頃は手帳は必須だったけれど、就職してからプライベートの予定が減ったので使わなくなった。販促でも特に必要としなかったけれど、異動して外出が増えるのなら持ったほうが良いのかもしれない。
「じゃあ、金曜にしとこか。どこが良い? 何食べたい? 僕が奢るから」
「ほんまですか? 岩瀬さん、部長はだいぶ持ってるから、好きなもん言うとき。高いのとか」
祐宜が仕事以外で美姫に笑顔で話し掛けたのは、これが最初だったかもしれない。
「ええ……何やろ……」
「そんな持っとらんわ」
「高いのって……お寿司……うなぎ……」
「あ、そしたら、僕がたまに行く良い寿司屋が近くにあるんやけど、そこを予約しとこか。回ってないとこ。あ、ただ僕あれやわ、嫁さんに〝血糖値が〟て怒られるから、あんまり長いことおれんけど」
メンバーはともかく、回っていない寿司屋に行けることになって、美姫はものすごく顔が緩んでいたらしい。ミーティングを終えて席に戻るとレジトレーナーは出掛けてしまっていたけれど、奈津子が不思議そうな顔をしていた。
「何か良いことあったん?」
「山田部長が──回ってない寿司屋に連れていってくれるみたいで」
「良いなぁ! 私も行きたい。山田部長いっぱいコレ持ってますもんね」
奈津子は部長のほうを見ながら、親指と人差し指で輪を作っていた。
「何を言うてんや、雀の涙やわ。あんまり長いことおったら、また嫁さんに怒られる……」
そう言いながらも山田部長は既にお腹が空いてきたようで、机からバナナを出して食べていた。
「山田部長、また食べてんの? 私、奥さんに電話しますよ? 番号知ってるし、何かあったら言って、って言われてるから」
「あっ、やめてっ、お願い」
里美が受話器を上げながら言うので部長は焦り、残りのバナナは慌てて口に詰め込んだ。入りきらなかったようでリスのように頬を膨らませ、しばらく口を押さえてモグモグさせていた。
「七夕に短冊に書いてたやん。血糖値上がりますよ」
「ごめんごめん」
「まぁ私は別に、自分のことちゃうから良いんですけどね」
「いやいや、言うて。すぐ食べてまうから」
「いちいち机の中チェックせなあかんやん」
里美は持っていた書類を総務部長に渡したあと、山田部長の後ろを通ってひとこと言いながら今度は美姫のほうへやってきた。奈津子は電話中なので周りの会話は聞いていないらしい。
「あんたも頑張りや。チャンスはまだあるで」
「え?」
「ちょっと川原さん、そんなニヤニヤして岩瀬さんに何言うたんや?」
里美を見ていたのは総務部長だ。
「あれですよ、岩瀬さん人事になったら上司が二人とも男やから、気ぃつけや、て言ったんですよ。特に山田部長はすぐ仕事の邪魔しにくるから」
「ええ? 僕そんな邪魔しとらんやろ?」
「してますよ。そのお菓子食べるときのボリボリいう音! あと匂い!」
「ちょっと堀辺、いま隣に座ってるけど、山田部長を助けてあげて」
総務部長は祐宜に話を振ったけれど。
「──無理ですね。川原さんの言う通りですよ」
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