#12 彼との関係

「岩瀬さん、ちょっと良いですか」

「……はい?」

 九月に入り、いつも通り仕事をしていると、後ろから祐宜に声をかけられた。普段は挨拶しかしていないので戸惑ってしまったし、呼び出された理由もわからない。彼に続いて事務所から出ようとすると近くの席の里美がニヤリとしていたけれど、そういう話ではないのは確実だ。

 相変わらず美姫は祐宜と挨拶以外の会話はないし、最近はそれも適当になってきている気がしていた。和真といるのを駅で目撃されてから、祐宜の態度は以前より冷たくなったと女性たちが話していた。彼のことを嫌いになったわけではないけれど、ミーティングルームで二人きりになって向かい合って座らされるのは、嬉しいけれど非常に居心地が悪い。

「急なんですが、岩瀬さん、異動です」

「……えっ? どこにですか」

「──人事です」

 その祐宜の言葉を聞いた時、美姫は初めて彼を見つめた。そして、開いた口がふさがらなかった。

「じ、人事って、部長と堀辺さんで回ってるんじゃないんですか?」

「もうすぐ、部長が役定役職定年なんですよ」

 部長の後を祐宜が課長として継いで、美姫は祐宜の部下になるらしい。美姫はまだ販促の仕事に就いて一年しか経っていないけれど、上層部の人たちが〝美姫以外に人事を任せられる社員がいない〟と判断したらしい。ちなみに美姫が販促を出たあとには、美姫の次の年に入社した社員に来てもらう予定だと祐宜は続けた。

「内示なんで、まだ黙っといてくださいね」

「はい……」

「詳しい仕事内容とかはまた後日教えますので、それまで今の仕事をしといてください。──それで」

 祐宜は一旦、言葉を切った。最後の一言は、普段の彼とは少し口調が違っていた。

「あのー……遠田とはどういう関係?」

「え?」

「こないだ一緒にいたけど」

 祐宜は少し怖い顔をしていた。異動の話をしているときは普段通りだったけれど、腕を組んで一瞬にして眉間にしわを寄せてしまった。

「別に、偶然会って、ちょっと話してただけです」

「ふーん……俺が不精って?」

「……知ってるじゃないですか。堀辺さんは不精で謎、って話をしてたんです」

 つい勢いで言ってしまった。相手はこれから上司となる人だ。

「──すみません」

 祐宜は少し沈黙し、短いため息をついた。

「どっちかというと直接話したい方なんで。……だから店回りとか、外出も多いですよ」

「……私もですか?」

「もちろんです。最初は俺も一緒に行くけど」

 祐宜はいつの間にかいつもの表情に戻り──気のせいか優しく見えた。こういう顔をするのなら、婚約者の一人や二人──二人はまずいけれど──いてもおかしくない。

「そういえば堀辺さん、結婚するんですよね」

「それ誰に──? 遠田?」

「こないだ聞きました。……あと、七夕の短冊と」

 そんな噂は聞いたことがないし、孝彦も彩未も〝祐宜は彼女がいないはずだ〟と言っていたけれど。七夕の短冊に彼は幸せな家庭を築きたいと書いてあったし、和真にもそんな話をしたらしい。

「……いつなんですか? 入籍は」

「遠田と付き合うんか?」

「か、関係ないじゃないですか」

「関係なくない。上司として部下のことは知っとかなあかんやろ。遠田は一応、親友やしな。入籍は──年明けの予定」

 その晩、美姫は祐宜の夢を見た。部下として、上司の結婚式に招待されていた。花嫁はとても美しい人で、まるで映画の中のヒロインだった。


 それから数日経った金曜日の朝、社内掲示板に辞令が貼りだされた。二十人ほどの中に埋もれて、美姫の人事行きもちゃんと存在した。少し上の段には、祐宜の課長昇格も掲載されていた。

 昼休みの休憩室は異動の話で持ちきりだった。もちろん、美姫のことだけが話題になっているのではないけれど。

「こないだのはそういう話やったんやな」

 里美が笑いながら隣に座りに来た。

「良かったやん」

「良くないです……なんか、怖くて」

「怖い? そういえばあの日、何か言い返してたよな?」

「……実は、友達の旦那さんの友達やったんです」

 黙っているつもりだったけれど、バーベキューで祐宜と一緒になったことを里美に打ち明けた。そのあと彼の態度が冷たくなったのはおそらく、美姫が和真と一緒にいたからだ。和真は良い人ではあるけれど女癖が悪いので、被害者が出ないように、と友人たちは警戒しているらしい。

「付き合うんかって聞かれたから、関係ないやんって」

「ははっ、気にしてくれてたんちゃうん?」

「どうやろ……ダメとは言ってなかったし……」

 異動の内示があってから、異動と祐宜の結婚のことを和真に報告した。もちろん、和真は美姫を彼女にしたがっていたけれど、美姫はそれを受け入れてはいない。

 祐宜とはまったく接点がなかったけれど、挨拶だけはきちんとしてくれた。仕事はできるほうだと思うし、たまに美姫が話し掛けても笑顔で聞いてくれた。バーベキューの日も楽しそうに会話していたし、ホワイトデーもきちんと返してくれた。何人かが言う通り、人としては悪くないのかもしれない──。

 祐宜のいくつもの表情を見ているうちに、美姫は彼のことをもっと好きになってしまっていた。もうすぐ結婚して手の届かない人になるとわかっていても、想いを止めることはできなかった。

「思いきって告白してみたら?」

 その里美の言葉に美姫は思わずむせた。彼の結婚のことは噂にはなっているけれど、信じている人は少数派だ。

「無理ですよ。結婚するって噂あるし」

 和真の話をしているときは、ほとんど勢い任せだった。あれから何度も社内ですれ違っているけれど、彼の態度は以前と変わらない。

 午後になって、美姫は少し人事の仕事を教えてもらうことになった。祐宜に呼ばれて席を離れるとき、奈津子までニヤリと笑っていたけれど──、美姫は『ないです』と呟きながら首を横に振った。

 祐宜は仕事になると穏やかだ、とは思っていたけれど、本当に〝和真とのことを聞いてきたとき〟とは別人のようだった。

「大丈夫? いろんなこと教えたけど」

「んー……無理……」

 ただし、仕事内容は美姫には難しい。

「無理、って」

 ははは、と祐宜は笑った。

「堀辺君、そんな急にいっぱい教えても無理やわ。分かりやすく言ったらんと」

 仕事でパソコンを使うことに変わりはないけれど、出てくる単語が難しすぎてチンプンカンプンだった。苦手意識しかなかった分野すぎて、頭がついていかなかった。

「──そしたらとりあえず、これ読んどいて」

 祐宜に渡されたのは就業規則だった。

「店の人からも聞かれること時々あるから。あとは──これ。仕事内容とか流れを簡単にまとめてます」

 祐宜は美姫の異動が決まってから、その資料を作ってくれていたらしい。

 美姫はいったん自分の席に戻り、販促の仕事は置いておいて人事の資料を見た。見たけれど──そもそも単語が難しいので理解は進まなかった。

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