#06 バレンタイン
年が明けて、しばらく経った頃。
美姫と奈津子はなぜか里美に呼び出された。会議室やミーティングルームは使われていたので、印刷室に入ることになった。ということは、仕事関係の話ではないらしい。
「私とパートさんらで話したんやけど、今年からバレンタインは個別に渡すことに変更で良いかなぁ?」
「バレンタイン? ……渡すんですか?」
「あ、岩瀬さん本社来て初めてやったな。今までは何種類かお菓子を買って混ぜてラッピングし直して配ってたんやけど、その時間があんまりないねん」
「うん、私は良いで。てことは……男の人って何人おったかな?」
「はは、三十弱くらいかなぁ? まぁ、全員は大変やろうから、
「えっ……」
里美は笑いながら美姫をペチンと叩いた。
話はそれで終了したので奈津子は事務所に戻ったけれど、美姫は里美に引っ張られて足を止められた。
「あれから彼氏おれへんのやろ?」
「はい……でも、ここにも本命は」
「知ってるで、堀辺君のこと気になってんちゃうん?」
「──いや、でも、あの人とは話すことないし」
「だから渡してきっかけ作ったら良いねん。冷たそうに見えるけど、義理堅い人やで。ホワイトデー絶対くれるから、楽しみにしてバレンタイン頑張り。まぁ……佐倉君が良いなら話は別やけどな」
言葉に詰まる美姫を置いて、里美は笑いながら事務所に戻っていった。
里美の言う通り、美姫は本社に来てからずっと祐宜のことが気になっていた。部署が違うのでまず仕事の話はないし、女性たちが雑談を始めて彼の話をしていても口出ししてこない。出退勤時の挨拶は必ずしてくれるけれど、まれに用事ができて話しかけると対応はしてくれるけれど、それ以外の接点はない。それでも本社の中では唯一の恋愛対象として見られる男性だったので、視界に入るとつい追ってしまっていた。
美姫が遅れて事務所に戻ると、女性たちはバレンタインの相談をしていた。バイヤーたちは会議中で、他の男性陣も出掛けているらしい。
「みんな普通で良いよなぁ。あ、でも甘いの苦手な人もおったな……山田部長は激甘のやつが良いんかな。ははは!」
「岩瀬さん、佐倉君て甘いのどうなん?」
「どうやろう……聞いたことないけど、好き嫌いは特にないみたいです」
「それなら大丈夫やな。問題は、堀辺君よなぁ」
「……何かあるんですか?」
「いまだに好みがわからんねん」
里美はニヤリと笑いながら美姫を見ていた。
机の引き出しに飴やお菓子を入れている人は多いけれど、山田部長に至ってはバナナやパンが出てきたこともあるけれど、祐宜が机から何かを出して食べているのを目撃した人はいない。
「難しいですね……」
「そやねん。毎年悩むねん。どうせやったら喜んでもらえるほうが良いからなぁ。一応イケメンの部類には入ってるし」
女性たちはほとんどが既婚ではあるけれど、バレンタインには関係ないらしい。
「まぁ、岩瀬さんも頑張って悩み。お返しはちゃんとくれるから」
「しかもセンス良いしな」
「彼女に選んでもらってたりして?」
「えっ、堀辺君て彼女いてるん?」
「どうやろう、知らん。はは!」
美姫は彼が気にはなっているけれど、好きという感情は今のところない。裕福な家庭で育って高学歴、という噂はあるけれど、それは特に惹かれるものではない。そもそも雑談をしないので、何を考えているのかも全くわからない。
それでもバレンタインにどうするべきか悩んでいるうちに、彼のことが頭から離れなくなってしまった。そして観察しているうちに、好きになってしまった。
「岩瀬さん、バレンタイン誰に渡すか決めた?」
聞いてきたのは奈津子だけれど、他の女性たちも近くにいる。
「はい。一応、当日出勤の人だけ用意します」
「あ、そうや、休みの人が多いんやな」
仕事の都合で休みに設定しているバイヤーが多かったので、出勤予定の男性は十人ほどだった。
「何にするん?」
「それはまだ決めてないです……見に行ってから考えます」
女性たちは仕事をしながら、男性陣がいなくなったタイミングでいつもバレンタインの相談をしていた。それを参考にして美姫も散々悩んでからようやく人数分のチョコレートを用意し、人によって渡すものが違うので覚えているうちに付箋でメモをつけた。祐宜に選んだものは彼のイメージ通りで──きっと、彼の好みにも合っているはずだ。
それから一ヶ月後──。
いつものように仕事をしていると、女性たちの声が聞こえた。何の話をしているのだろう、と思っていると、どうやら誰かにお菓子をもらって喜んでいるらしい。
「岩瀬さん、どうぞ」
「はい? あ──ありがとうございます」
美姫は声の主に驚き、持っていた物を素直に受け取った。今日がホワイトデーだと、すっかり忘れていた。お返しを持ってきてくれた祐宜は、用が済むとすぐにどこかへ出掛けてしまった。
女性たちは仕事をしながら食べていたけれど。
「岩瀬さん、食べへんの?」
「……帰ってからのお楽しみに置いときます」
「ふぅん。クランチやで。ミルクチョコの。あ、ごめん、楽しみ減ってもぉたな?」
美姫が彼に惹かれていることは女性たち全員が既に知っていた。もちろん──彼のプライベートはいまだに何も情報がないし、美姫も彼の前で自分のことを話したことはない。
帰宅して夕食後、美姫は祐宜に貰ったクランチを食べようとして、あれ?、と呟いた。ミルクチョコだと聞いていたけれど、ベリー味との詰め合わせになっていた。
さらに驚いたのは、手書きのメッセージが添えられていたことだ。
「ひぇっ?」
美姫が祐宜に渡したものが好み通りで嬉しかったようで、美姫にも他の女性たちとは違うものを用意したらしい。そのことは、秘密にしておいてほしいようで──。
「どうしたん、昨日は嬉しそうやったのに元気ないやん」
翌日、いつも通りに祐宜は挨拶はしてくれたけれど、それ以外に会話がないのもいつも通りだった。そして何かが起こる気配もないまま、祐宜は直帰の予定で出掛けていってしまった。
「昨日、帰ってから食べたんやろ?」
「食べたけど……」
「ああ……いつも通りの感じやったな。しゃーない、頑張るしかないわ」
里美は単に〝ホワイトデーにくれたけど義理だったらしい〟と落ち込んでいると思ったようなので、美姫はそのまま何も言わずにいた。本当は〝本命をくれたように思ったけれど気のせいだったらしい〟と教えるつもりはない。
「ちなみに何あげたん?」
「それは、言えないですけど……たまたま何が好きか話してるの聞いて、それ渡したんですけど……ダメでした」
仕事帰りに寄ったデパートのバレンタイン催事場で、彼の好みに合うものを探した。他のものと比べると高くはついたけれど、それでも祐宜が喜ぶなら安いと思った。
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