第2話 夜を越えて

 世田谷区の閑静な住宅街、その中でも一際大きな一軒家が筒井瞳つついひとみの実家である。その瞳の実家に、小さな訪問者が二人訪れていた。

ピロロン・ピロロン・ピロロン・・・・・

小さな訪問者は、インターホンを押して応答を待っている。暫くすると、女性の声で応答があった。

『はぁ〜い。あれ、・・・・・どちら様ですか?』

内部のモニターには、誰も写っていない。女性は、当惑した感じで再度声をかけた。

『・・・・・どちら様ですか?』

二人の小さな訪問者は、飛び跳ねながら応答する。

『おばぁ〜ちゃ〜ん。開けてよぉ〜・・・・・・。』

余りにも小さくて可愛い訪問者に、門の開錠と共に中から女性が飛び出して来た。

彼女は、大園玲子おおぞのれいこ。今年六十八歳になった、二人の小さな訪問者の祖母である。

『あれあれ、今日は七夕様だってのに如何したんだい?』

腰を痛めているのか、少し前屈みになりながら二人を招き入れた。すると男の子が、妹の手を引きながら応える。

『今日はお父さんも遅いから、学校終わったらそのままお婆ちゃんの家に行きなさいって言われた。お婆ちゃんには言ってあるからって。』

それを聞いて少し困惑したが、玲子は二人の孫に最高の笑顔を向けて話す。

『そうかいそうかい、じゃぁ中で冷蔵庫を開けてごらん。二人が、大好きな物があると思うよ。』

二人の孫は、瞳をキラキラ輝かせながら冷蔵庫へと走って行った。その無邪気な後ろ姿を見ながら、玲子は溜め息を吐きながら呟いた。

『ふぅ〜、あのは何考えてるんだか。うちに預けるのはいいけど、連絡ぐらいしといてもらわないと。買い物にでも行っていたら、二人とも家に入れないっていうのに。』

そして、二人の孫を追って室内に戻った。室内に戻ると、二人の孫がケーキを見ながら玲子が来るのを待っている。

『おばぁ〜ちゃん、これって食べてもいいの?』

玲子はケーキを食べる以外にどうするのかとも思ったが、純粋な孫に少し意地悪な返しをした。

『見てるだけで、我慢出来るのかい?』

二人の可愛い孫は、ニコニコしながら首を横に振った。

『よぉ〜し。じゃぁ、お婆ちゃんが紅茶を淹れるから手伝ってくれる人?』

玲子がそう言うと、二人の孫は元気よく手を上げて返事をした。

『はぁ〜い!』

二人の孫、・・・・もちろん娘である筒井瞳の子供である。兄の優樹ゆうきは、十歳で小学五年生。妹のあおいは、七歳の小学二年生である。瞳は葵が幼稚園に通い出した頃から、実家に子供を預ける事が多くなっていた。結構な頻度預けに来ているのだが、玲子は余りの孫の可愛さに何も言わないでいた。

ただ最近は夕方に迎えに来るも事なく、週末そのまま預かる事が多くなっていたので気にはなっていた。特に今日の様な、七夕のイベント事の日まで預けるとなると。玲子は、夫婦仲も含めて心配していたのだった。三人でケーキを食べていた時に、玲子のスマホが震えている事に優樹が気付いた。

『おばぁ〜ちゃん、電話みたいだよ。』

そう言うと優樹は、小走りでスマホを取って玲子に持って来てくれた。

『あぁ〜有難うね。』

玲子は、優樹にお礼を言いながら頭を撫でた。

そして、眉間に皺を寄せて電話に出る。

『もしもし、アンタどういういうつもりだい?』

兄妹仲良くケーキを食べている二人から、ゆっくり離れながら玲子は話した。電話の相手は、当然娘の瞳である。

『ごめんごめん。最近パパの様子が変だからさ、ちょっといろんな所に話を聞いてもらったりしてるの。だから、今週もお願いね。』

少し驚いて、玲子は二人の孫に聞こえない様に聞いた。

『パパの様子がって、靖久さんの様子が可笑しいって何の事だい?まるで、不倫でもしているかの様な口振りじゃないか?アンタね、滅多な事言うもんじゃないよ!』

玲子がそう言うと、瞳は堰を切ったように話し出した。

『いや、・・・・私には判るんだよね。この数ヶ月、あの人金曜日には必ず遅くなるんだよ。土日はゴルフだ何んだと、得意先や仕事関係の付き合いがあるのは間違いないんだけどさ。金曜日の夜だけは、仕事も何も関係ないみたいだしね。ゴールデンウィーク明けから、あの人毎週金曜日は絶対に遅くなってるの。一度何気なく聞いてみたんだけどさ、あの人嘘吐いたんだよね。今までこんな事で、何かを誤魔化す為に嘘を吐く人じゃなかったんだもん。そうなると、・・・・・女でしょ!』

玲子は小刻みに震えながら、二人の孫の方を見て電話を切った。

 それから数時間が経った十九時半過ぎ、瞳は靖久にラインを送った。

「七夕の今日も、遅くまでお仕事御苦労様です。バァバが、二泊三日のディズニーリゾート・ホテルの宿泊券をプレゼントしてくれました。本当は、家族四人でって事だったんだけど・・・・・。パパは忙しいみたいなので、バァバと四人で来ちゃいました。ごめんね!日曜日の、十八時位には帰りますのでよろしくお願いします。それから、余り根を詰めないようにね。瞳。」

送信してから十分程経ち、返信が返ってきた。瞳は靖久からの返信を確認して、少し宙空を見つめて我に返った。そしてゆっくりと横断歩道を渡り、雨の降る恵比寿の街に消えて行った。一人っきりで・・・・・




 それではここで、時間と場所を湯河原温泉に戻す事にする。飛鳥と靖久を乗せたタクシーが、旅館に着く頃には二十三時前になっていた。チェックインを済ませて部屋へ案内される間も、飛鳥は靖久の手を離さなかった。そして、部屋に入ると直ぐにお互いを求め合った。飛鳥は靖久を、そして靖久は飛鳥を。自分以上の存在に感じて通じ合い、そして絡み合った。

その感覚は全てを超越し、精神を高揚させた。二人は、貪る様に何度も何度も愛し合った。それはまるで心の真ん中に、ポッカリと空いていた大きな穴を埋めるが如く。深く、そして激しく愛し合った。靖久は白く柔らかい飛鳥の中で、ゆっくりと締め付けられる快感を。そして飛鳥は、力強く野太い靖久の優しさに満ちた男らしさに身を震わせた。二人を遮るものは、もう何もなかった。世間体や常識も、理性や倫理さえも二人を止める事は出来なかった。普段性欲に支配される事のない二人が、ただひたすらにお互いを欲した。それは二人の指先から、体内に至るまで痺れるほどに。そしていつしか、二人は気付かぬまま眠りに就ていた。

 翌朝心地良い疲れに包まれた二人が、眼覚めたのは八時を過ぎた頃だった。

少し照れながらも、飛鳥は靖久と一線を超えた事が嬉しくって堪らなかった。とてつもなく甘えたかったし、そして甘えられたかった。

客室に露天風呂が付いているので、飛鳥ははしゃいで靖久を誘った。

『ヤス君、お風呂入ろっ。』

『あ〜いっ。』

朝日を浴びながらの入浴は、身も心もリラックスできる。靖久は、ウトウトしながらも昨夜の飛鳥の姿を思い出していた。傘をさしている自分の腕に、抱きつきながら肩を震わせていた飛鳥を。自分に出逢う前からいろんな事に傷つきながらも、それを悟らせまいと気丈に振る舞ってきたであろう飛鳥が愛しくて堪らなかった。靖久は湯船の中で飛鳥を抱き寄せ、頭を撫でながら言った。

『もっと良い子良い子して欲しかったら、もう一泊してもいいぞぉ〜 。』

飛鳥は、靖久に飛びつく様に抱きついて言った。

『うん、うんうん。もう一泊する。ずっとヤス君といたぁ〜い。』

飛鳥は自分でも信じられないくらい、幼稚な返事をして恥ずかしくなった。最近子供っぽい自分を抑えられなくなっているからか、照れ隠しなのか口元までお湯に浸かっている。そんな飛鳥を、靖久は強く抱きしめながら言った。

『じゃぁ、お客様。もう一泊御宿泊でよろしいですね。』

飛鳥は、返事の代わりにキスで応えた。靖久は愛しい飛鳥の過去の傷も孤独も、飛鳥の全てを抱きしめてあげたかった。優しく・・・・そして激しく、二人は交わり合った。心も体も交わり、特別な快感に浸った 。




 瞳は、靖久が優しい人だったので結婚した。所謂いわゆる九州男児という感じが全くない靖久は、おっとりとした話し方で東京生まれの瞳には新鮮に感じられたのである。一人っ子だった瞳は、幼稚舎から短大までの私立の女子校に通った。その為、世間知らずというか我儘わがままというか・・・・・。まぁ、一人娘にありがちな我儘なお嬢さんといった感じの性格だ。三歳年上の靖久とは、渋谷の街で出会い付き合いだした。まともに働いていなかった靖久を、父親が自分の会社に就職させた。そして鹿児島出身だった父・大園久光おおぞのひさみつは、同じ九州出身の靖久の事がお気に入りになる。ゴルフや家族の行事にも連れ出すようになり、周りも実の息子さんの様だと話すくらいだった。

そして、結婚し二人の子供を授かる。靖久も会社でそつなく働き、優しい性格もあって何の不自由もない結婚生活だった。ただ瞳は父・久光とは折り合いが悪く、孫が生まれて喜んでいる父とも口を利かないほどであった。靖久と違っていかにも九州男児といった感じの久光が、瞳は子供の頃から大嫌いだった。高校時代、友達と一緒にバイトしたいと言えば却下され、ボーイフレンドが出来そうになれば付き合いを潰された。兎にも角にも、思春期にやりたい事を全て否定され続けたのである。

三年前に父親が亡くなった時も、淡々と涙を流さず葬儀を行った。そんな瞳に会社の社員達は頼もしさを感じ、嘘か誠か靖久に代わって社長になってくれないかという声があがったらしい。まあ、靖久の社員うけが悪かっただけなのかもしれないが。

 そんな箱入り娘の瞳だが、靖久が初めての男性だった訳ではない。実は瞳は高校から短大時代、渋谷や恵比寿界隈ではちょっとは知れた顔であった。夜な夜な家を抜け出しては、夜の街で遊んでいたらしい。家や学校では見る事のなかった顔が、本当の瞳の顔なのかもしれない。

実家と離れてマンション暮らしをする瞳達は、特別大きな喧嘩をする事なく結婚生活を送ってきた。靖久は家事や育児に協力的で、食事後の食器洗いは今でもやってくれている。子供が小さい時にはお風呂におむつ交換、夜泣きのあやしにお昼の散歩まで全面的に協力してくれた。下の子が小学生になると、短大時代の友達と旅行に行く事も快諾してくれた。そんな事もあって、隣近所のママさん達が羨むくらい理解をしてくれている。

 優しさ・・・・。靖久の優しさ。瞳が靖久に望んでいるのは、底知れない優しさなのである。瞳は結婚してからの十五年間、靖久の優しさを独占してきた。今まで、その事に疑問を持った事など一度もなかった。しかし今、靖久は自分以外の女に優しさを授けている。瞳の、・・・・・女の感がそう語っていた。

『私の物に手〜出してるバカ女って、・・・・・どんな奴よっ。』

瞳は、ホテルのバスタブから出ながら呟いた。

『絶対に許さない! 』

バスローブに身を包み、瞳は炭酸水を一口飲んでスマホを手に取った。

『もしもし、私・・・・・・。ちょっとアンタに、頼みたい事があるんだけどさ。実はね、ここ最近・・・・・・。』

五分程電話をして、瞳は大きく溜め息を吐きながらベットに腰掛けた。

『ふぅ〜・・・・・、兎に角どんな女か調べないと。』

瞳は、嫉妬を業火の如く燃えあがらせながら眠りに就いた。




 飛鳥と靖久は、湯河原で有名な行列が出来るラーメン屋に並んでいた。日本全国美味い店には、行列が出来ているんで分かりやすいものである。

『何か、こうして並んでいるだけでも楽しいね。』

満面の笑みでそう言う飛鳥を、靖久はうっとりとしながら見ていた。

傍から見たら、痘痕あばたえくぼと言われるであろうが。

そんな事も気にならないほど、靖久は飛鳥に夢中になっていた。昼食にラーメンを食べた後、ダラダラと宿に戻ってお湯に浸かった。その後もゴロゴロ・イチャイチャしながら過ごし、暫く経つと夕食に舌鼓を打ちまたお湯に浸かる。そんな、普段では考えられない夢の様な一日を過ごした。飛鳥が夜空を眺めながらまたお湯に浸かっていると、靖久が後ろからそっと寄ってきて飛鳥を驚かせた。明日は東京に戻らなければならない現実を、振り払うかの様に飛鳥ははしゃいだ。

 そして日曜日、二人は朝起きると最後のお湯に浸かりチェックアウトをした。万葉公園など散策し、昼食を摂って東京行きの電車に乗る。飛鳥は、ふと思い出した様に靖久に聞いた。

『今更だけど、二泊もして大丈夫 ? 』

『大丈夫、大丈夫。家族総出で、ディズニーリゾートに二泊三日で行ってるから大丈夫だよ。ほらっ。』

そう言って靖久は、瞳からのラインを飛鳥に見せた。

『本当だ ・・・・。』

飛鳥は恋人繋ぎをしたままで、顔だけそっぽ向いた。飛鳥はこの後一人の部屋に帰るのだが、靖久は家族の元に帰るのである。そのすぐそこにある現実を、飛鳥は受け入れたくないのだ。この二日間二人は、過去の事も何もかも包み隠さずに話し分かり合った。だが、いざ靖久が家に帰ると思うと胸が苦しくなってきたのである。この二日間で、二人は心身共に特別な関係になれた。そんな自分の元から離れ、心通わぬ家族の元に帰るのが苦しくって堪らないのである。勿論靖久が帰りたくて帰えるのではないのを解ってはいても、別々の帰路につかなければならない事実。

一人の部屋に帰らなければならない飛鳥にとっては、まさに息が出来なくなる程苦しいのだ。飛鳥は、振り返って靖久の眼をじっと見つめた。そして、無理をして微笑むのだった。

 一方で靖久は、飛鳥が笑顔の裏で苦しんでいるのを感じとっていた。その原因は自分が妻子持ちで、其所に帰らなければならないからだという事も。そして靖久も飛鳥を一人にする事に対して、後ろめたさと寂しさを感じずにはいられなかった。飛鳥と居ない時間、経験した事のない虚しさが襲う事も解っている。飛鳥を抱きしめたいし抱きしめられたいと、思えば思う程飛鳥と離れる事は苦しみ以外の何ものでもない。どの様な状況であろうが、家族がいる以上自分だけがズルくて卑怯だという事は解っている。

何故なぜなのか、何処どこか心通わぬ家族。都合のいい話だとは解っている。

だがしかし、止めようのない衝動。もう、戻りたくないと。

 思春期の頃の様に心踊らせていても、飛鳥と靖久は浮かれている訳ではない。心は踊っていても二人の立場は、世間的には不倫である事に変わりはないのだから。解ってはいるのだ、解っては。解ってはいても、止められないのである。飛鳥と靖久は、痛いほど感じていた。

もう、週に一度の逢瀬では満たされない事を・・・・。

もう、離れられなくなってしまった事を・・・・。




 十丸じゅうまる建材株式会社専務の加藤誠一かとうせいいちは、先代の右腕として会社の繁栄に貢献してきた男である。先代・大園久光の意志を継ぎ、若くて頼りない二代目社長の靖久を支え続けてきた。そんな加藤は、最近の靖久に頼もしさと決断力を感じ取っていた。

『社長。資材搬入コストの件で、・・・・ 』

靖久に話しかける加藤を何気なく見ていた課長の陣内敬じんないたかしは、隣の席の同僚に呟く様に聞いた。

『あれ ? 専務って、・・・二代目のこと社長って呼んでたっけ ? 』

『んっ?そう言えば、・・・そうっすねぇ〜。』

社長就任前から靖久を知っている陣内達の世代は、靖久が社長に就任した後も社長と呼ばず小馬鹿にした様に二代目と呼んでいた。というのも、専務の加藤が二代目と呼ぶのを真似して揶揄からかっていたのである。

『何か最近、顔付きが変わった気がすんなぁ。』

『えっ、課長何か言いました ? 』

『んっいや、何でもない。』

『データ、バックアップしといてな。』

『あっ、はい。』

顔付きの変わった靖久を見ながら、陣内は仕事に戻った。




 飛鳥は、仕事の出来る女だ。ドラマや映画に出てくる様なキャリアウーマンっといった感じだ。部下の女子社員達は皆飛鳥に憧れる。仕事も容姿も、綺麗でおしゃれ。それでいて上司にも意見が言え、いざという時には部下を守る。完璧でカッコイイ憧れの上司。それが、橋本飛鳥という女だ。そんな飛鳥を見て、皆には仕事以外興味がないのかと思われていた。だが最近の飛鳥を見て、部下の女子社員達は男ができたんだろうねと噂をしていた。と言うのも女子社員曰く、女が見ていても抱きしめたくなる様な切ない顔をするらしい。

『ねぇ見て。また主任が、切ない顔して溜め息吐いてる。』

『あっ、本当だ。』

『あの主任に溜め息吐かせんだもん、相当のイケメンだよ。』

それでも、仕事には何一つ妥協しない。

そこがまた、女子社員達のハートを鷲掴みにする。

『もし、・・・もしも主任を泣かせる様な男だったら許さないよねっ。』

『うん! 絶対に許さない! 』

女子社員達の変わった感情が、飛鳥のチームに更なる団結を生む。飛鳥の溜め息は、意外な効果を生みながらチームの業績を上げていく。




 出逢いから七ヶ月が経った十二月。二人の情熱は冷める事なく、いや激しさを増して燃え上がっていた。飛鳥はいつでも靖久が立ち寄れる様、「長崎倶楽部」の近くにマンションを借りた。靖久は毎日、そう毎日。

どんなに仕事で遅くなろうが、カフェオレを一杯飲むだけだろうが毎日飛鳥の部屋に寄って帰宅した。土曜も日曜も祝日も、靖久はありとあらゆるスケジュールを駆使して飛鳥との時間を作った。

『ねぇ、毎日来てくれて嬉しいんだけど。・・・・・大丈夫なの ? 』

『大丈夫、大丈夫。本当に、仕事やゴルフの予定入れてんだもん ! 』

『本当に大丈夫かなぁ?』

『おかげでさぁ、会社での評判鰻上りよ。社長が覚醒したってさっ。』

『それは良い事だけどさぁ、なんか不安だなぁって思って。だって、三ヶ月も休日なしなんだよ?』

『飛鳥ちゃん。大丈夫だって。飯食おうで!』

『ん〜、奥さんそんなに鈍感かなぁ〜?』

靖久との時間が増えるにつれ、不安になる時間も増えていった。




 年の瀬も迫った月曜日の午前中、飛鳥は新しいプロジェクトの事で悩んでいた。人材育成も兼ねて若い人にやらせてあげたいのだが、プロジェクト統括者に記入された森高本部長の名前が気になり判断を迷っていた。というのもこの森高という男、切れ者で有名ではあるが評判が悪い。自己顕示欲の強いエリートという、飛鳥が一番嫌いなタイプの男なのだ。まだ飛鳥が入社したての頃、森高は冷酷な完璧主義者として本部長の椅子を競っていた。結果森高本部長が誕生するのだが、ドス黒い噂しか聞こえてこない男だった。飛鳥は数年前に仕事にかこつけ口説かれた事を思い出し、キーボードのエンターキーを強く叩いた。

カンッ・・・・・

『主任、どうかしたんですか ? 』

自他共に認めるの相沢が、驚きながら問いかけた。飛鳥はゆっくり視線を上げると、微笑みながら相沢に言った。

『今度のプロジェクト、恵美ちゃん達で進めてみて。』

森高の存在が気になりはしたが、飛鳥は部下達に託す事にした。

『頑張って。何かあったら直ぐにサポートするから。』

『はい、やったぁ〜。』

相沢達の喜ぶ顔を見ながら、飛鳥は冷めかけのカフェオレを一口飲んだ。




 昼時の社長室で、靖久は専務の加藤と昼食を摂っていた。

『社長 。最近、接待ゴルフから食事会までやっていただいて有り難う御座います。体は大丈夫ですか ? お疲れでしょう ? 』 

加藤は、靖久と昼食のざる蕎麦を啜りながら聞いた。靖久が社長に就任して以来、週に一度はミーティングと称して一緒に昼食を摂る事にしている。決まって蕎麦屋の出前なのだが、これが結構いけるのだ。

『大丈夫ですよ加藤さん。なんか最近、身体軽くって。今まで加藤さんにやっていただいてたんで、加藤さんの負担を軽くしないと。』

『いやぁ〜 有難いねぇ〜 。六十にもなると、足腰がねぇ。それに、社長の評判もいいですよ。薩丸さつまる運輸の会長も、もっと早く二代目とラウンドしたかったって言ってましたよ。まいっちゃうよなぁ。』

『そうなんですか ? 』

靖久は、少しニヤけながら返事をした。

『でも社長。ここ二・三ヶ月、瞳ちゃん達はほっぽらかしてるいんじゃないんですか ? そっちの方は、大丈夫 ? 』

『いやぁ〜 瞳達は、義母おかあさん巻き込んで遊びに行ってる様ですよ。』

『あらら、そりゃ奥さん(大園玲子)も大変だ。』

和やかな昼食を摂りながら、靖久は午後のスケジュールを確認した。その時、社長室のドアがノックされた。

コンコンコンコン・・・・

『どうぞ。』

『御食事中すみません。』

顔を覗かせたのは、課長の陣内だった。

『専務、食事が終わってから少しよろしいですか ? 』

『いいよ。十分もしないで行くから、ちょっと待っててね。』

陣内が会釈をしてドアを閉めると、加藤は閉まったドアを見ながら少し首をかしげて靖久に聞いた。

『社長と陣内君とは、どっちが入社早かったんでしたかね ? 』

『えっ?自分の方が、・・・六年くらい早く入社してる筈ですよ。』

靖久は、キョトンとした顔をして応えた。

『そうでしたっけね。付き合いはあるんですか ? 』

『いやぁ、実は若い頃から仕事の事以外あまり話した事もないんですよ。下の名前も知らないし。嫌われてんじゃないかなぁ。俺・・・・ 』

『そうなんですか。瞳ちゃんとも ? 』

『ええ。義父ちちの葬儀の時も、挨拶以外話してるの見ていない気がしますよ。』

靖久は加藤の意外な質問に、そんな事考えた事なかったと思いながら応えた。

『そうかそうか、歳が近いので呑み仲間なのかと思っていましたよ。』

加藤は、微笑みながら立ち上がった。

『あっ、やっときますんでいいですよ。陣内君待ってるし。』

靖久は、蕎麦桶を指差して加藤に微笑んだ。

『おっと、じゃすみません。お言葉に甘えます。』

加藤は、会釈をして退室した。靖久はスマホを取り、

『ヤベェ〜 昼休み終わっちゃうや。寂しがり屋の飛鳥ちゃんへ、えいっ!』

「今日、十九時には終われるよ!飛鳥ちゃんも早く来んだよ。長崎倶楽部で呑んでるね!」

最近新しいプロジェクトが立ち上がり、何かと忙しそうな飛鳥にラインを送った。

『んっと、午後は組合の会合か・・・・』

『うっし、行くかっ ! 』

靖久は蕎麦桶を片すのも忘れて、仕事モードにギアを入れた。




 実家に立ち寄った瞳は、流石の我儘っぷりで玲子に昼食を作らせていた。

『お母さんサラダもぉ。』

『アンタね、少しは手伝いなさい!』

『いいじゃん、帰って来た時くらい。』

全く動こうとしない瞳に、玲子は溜め息を吐きながら言った。

『はぁ〜こんな平日の昼間に帰って来ても、何にも買ってないわよ。お母さん一人暮らしなんだから。』

『 ・・・・。』

返事もしない瞳に、玲子は畳みかける。

『大体どうなってるの?靖久さんは元気なの?お父さんの三回忌以来会ってないわよ。いっつもあの子達預けて、アンタ何しに、何処行ってんの?それに、いつだか言ってた靖久さんの女がどうだって話は? 』

『あの子達は、バァバ大好きだって言ってたよ。 あの人の事は聞かないで。』

面倒臭そうに瞳が応えると、玲子は諦めた様に言った。

『本当にこの子は、昔っから自分勝手なんだから。あの子達がかわいそう。』

瞳の顔を横目で伺いながら、玲子の話しは止まらない。

『この間、加藤さんから連絡あってね。靖久さん休みの日もゴルフとか食事会だとか、加藤さんがやってた面倒臭い付き合いを引き継いだんだって ? 』

『 ・・・・。』

『加藤さん喜んでいたわよ。やっと社長らしくなってきたって。』

『 ・・・・。』

『アンタ聞いてるの?』

『聞いてる!』

サラダを食べながら、瞳が返事をした。

『お母さん、今週も子供達連れて来るからよろしくね。』

玲子は、瞳を睨みながら言った。

『本当にこの子は、・・・親の顔が見てみたいわ。』

玲子は加藤からの電話で、瞳に聞きたかった事がまだまだあった。だがテレビを見ながらサラダをつまむ姿を見て、大きな溜め息を吐いて諦めた。

『ふぅ〜・・・・・お昼食べたら帰りなさいよ。子供達が帰って来るでしょ!』

『・・・・。』

『週末あの子達が来るなら、お母さんも買い物行かなくちゃだし。』

返事をしない瞳に呆れながら、玲子もサラダを装った。

『あの子達私が育てたいわ。まぁ、殆ど私が育ててる様なもんだけど。今度は、絶対に失敗しないから。』

玲子は瞳を見ながら、また大きな溜め息を吐いた。




 陣内は、缶コーヒーを飲みながら窓の外に目を向けた。曇天の空を見つめ、加藤を待った。

『悪い、待たせたね陣内君。』

加藤は、陣内に左手を上げて声をかけた。軽く会釈をして陣内が話し出す。

『専務、少し前の話なんですが・・・ゴルフやらないかって言っていただいてたじゃないですか?詳しい話を伺ってよろしいですか?』

加藤が一瞬間を置き、思い出した様に応えた。

『ああ、あの件は大丈夫になったんだ。社長にやっていただいてるから大丈夫。そうだったか、悪いね。』

『 えっ?』

『年齢的に辛くなってきたから、後釜を探していたんだよ。色々な、付き合いがあるしね。ん〜もう半年になるかなぁ、社長にやっていただいてるんだ。』

『あっ、そうだったんですね。すみません、僕が優柔不断なばっかりに。本当にすみません。』

『うううん、そんな事はないよ気にしないでくれ。社長にやっていただければ、それが一番良いんだから。今の社長は、去年までの社長とは比べられない程しっかりされているんでね。有り難う、大丈夫になったよ。』

笑いながら肩を叩き、専務室に戻る加藤の背中を陣内は見送った。残りの缶コーヒーを飲み干し、陣内は空き缶をゴミ箱に投げ入れた。

『・・・・・くそっ。』

陣内は、スマホを取り出し電話をかけた。

プププ・・・プププ・・・

『あっ、俺だけど。今、大丈夫 ? 』

『・・・・・。』

『やっぱ、そうだったみたい。気付かなかったよ。うん、うん・・・ 』

『・・・・・。』

『悪りぃ。遅れをとっちゃたみたいだな。』

『・・・・・。』

『ああ、そのつもりだったみたい。』

『・・・・・。』

『解った。言う通りにするって。』

『・・・・・。』

『あん ? 姉貴あねきだって一緒だろ?・・・・・じゃっ。』

陣内は電話を切り、ジャケットの胸ポケットにスマホを入れた。

『ちっ・・・・・。 』

舌打ちをして

『姉貴の言う事が本当だとすると・・・・・・』

そう呟いて、陣内はデスクへ戻って行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る