長崎倶楽部

木菟

第1話 始まりは長崎倶楽部

 橋本飛鳥はしもとあすか

貴方はこれまで、何をしてきたの ・・・・・?

ぼうっと帰宅しながら、仕事しかしていない擦り切れた自分に問いかける。


 私は、九州の片隅にある長崎という街で生まれ育った。街と地域の人達に育ててもらい、いつも笑顔の絶えない子供だった。

優しい両親と弟、そして友達にも恵まれた。人並に思春期の悩み等にも揺れながら、高校卒業までをごく普通に過ごした。

東京に憧れ、高二の夏からは脇目も振らずに勉強した。その甲斐もあって東京の大学行きを勝ち取り、夢のキャンパスライフを花の都大東京で過ごす事になった。

しかしその大学生活は、憧れていたものとはかけ離れたものだった。

東京という街は、経済的に余裕のない学生には残酷な街だったのである。バイトに明け暮れ、大した恋愛をする事もなく時間だけが過ぎて行った。ある程度東京の暮らしに慣れた頃には、必勝を期して就活に挑む羽目に。その甲斐もあって、在京の製薬会社に就職出来た。

それからは、結婚せずに働く女に対する世間の目に負けまいと・・・・・。

いや孤独を抱え、仕事に追われながらの六年が過ぎた。三十を前に主任を任され、才色兼備という周りからの評価も勝ち取った。

職場での期待以上のポストに、部署内での良好な人間関係と環境に何の不満も感じない。そんな中でも出逢いと別れを幾つか経験し、気付いてみると周りには誰もいなくなっていた。

仲の良い友達は皆結婚してしまい、それぞれの生活で悪戦苦闘している。そんな友人達が羨ましくもあるが、そこまで真剣に結婚を考えられない今は気付かないふりをしている。

それでも、寂しさは付きまとう。週末は特に・・・・・。

金曜日、いつも通り遅くなってしまった帰り路。いつもと同じ週末を迎えてしまった自分に、何となく腹が立ち心の中で言い捨てた・・・・。

『本当、孤独な女ねっ・・・・。』

憂鬱なまま帰りたくないと、ふと目に留まった店に飛び込んだ。



 筒井靖久つついやすひさ

お前は三十九年間、何をしてきたんだ ?

会社から帰り道、心身共に擦り切れた自分に問いかける。


 九州の片隅にある長崎という街で生まれ、母と姉との三人家族で何不自由なく過ごした。父親はいなかったが、貧しい訳でもなく中流家庭で育った。思春期になるとお決まりのヤンチャな感じになもなったが、高校を無事に卒業後直ぐに憧れていた花の都大東京へと旅立った。しかし闇雲に出て来た東京では、バイトも続かずに渋谷辺りをプラプラするだけだった。自分が何をしたくて何が出来るのか、自分の事さえ解らないまま時間だけが無駄に過ぎて行った。

そんな数年を過ごし、渋谷の街で出逢った彼女と付き合い結婚。たまたま彼女の父親が、会社を経営していた事もあってその会社に就職した。そして三年前、義父ちちが他界し会社を継ぐ事となった。一男一女を授り、俗に言う逆玉に乗って幸せな人生を過ごしているのであろう・・・・。

だが誤解を恐れずに言わせてもらえば、何も不満はないが何も満たされてはいない毎日。最近では妻も子供も遠い存在に感じ、家に居ても何だか草臥くたびれるのだ。

そんな、心休まる場所を見付けられない自分に言い捨てた・・・・・。

『人生ってのは、こんなにも孤独なもんなんだな・・・・・。』

金曜日の憂鬱な帰路の途中、目に留まった店に心の疼きを感じ飛び込んだ。

店の名前は、・・・・・「長崎倶楽部」。




 店内にはブルーズが流れていて、仕事終わりにゆっくりとした時間を楽しむ客で賑わっている。アイリッシュパブ風の店内に、飛鳥は思わず黒ビールとピスタチオをオーダーした。溜め息を吐きながら黒ビールを流し込んでいると、入口の方から何やら大きな音がした。

すると何かにつまずいたのか、入り口から飛鳥の足下に男が転がってくる。驚きの余り飛鳥が固まっていると、男はバツが悪そうに照れ笑いを浮かべゆっくりと立ち上がった。

『大丈夫ですか ? 』

少し戸惑いながらも、飛鳥が声をかける。靖久は、頭を掻きながら応えた。

『すみません、・・・・驚いたよね ? 』

『ふふっ。ええ、本当びっくり ! 』

さすがに飛鳥も、笑わずにはいられなかった。

『よくいらっしゃるんですか ? 』

『いや、初めてなんですよね。田舎が長崎なもんで、何となく・・・・ねっ。』

『えっ。私もっ・・・・』

靖久は、あまり東京では出会わない同郷の人と出会った事が嬉しくなった。

『驚かせて悪かったねぇ。お詫びにご馳走させてくれる ? 』

『じゃぁ、ご馳走になってあげようかなっ・・・・』

飛鳥は、故郷が同じだという事で気を許すほど脇の甘い女ではない。だが足下に転がってきた初対面の男に、何故か馴れ馴れしく話してしまった。

『あっ、すみません・・・・私・・・・ 』

『ははっ いいよ、いいよ。おっちゃんにご馳走させてくれんね。』

飛鳥は、懐かしい響きに、

『はははっ・・・・ じゃ、いただきますっ。』

っと微笑みながら言った。靖久が空いてるテーブルを目で探しながら、飛鳥と同じ黒ビールとピスタチオをオーダーしてると・・・・

『よかったら、御一緒しません ? 』

飛鳥は、自分でもビックリしながら靖久を引き留めた。

『んっ、い・・・いいの ? 』

飛鳥は、何も言わずに微笑んだ。

『 ・・・・。』

『じゃ、お邪魔しようかな。』

軽く乾杯をして、靖久が言った。

『驚かせてすみませんね。筒井と申します。この店にはよく?』

飛鳥は、ゴクゴクと小気味よく喉を鳴らす靖久を見ながら応えた。

『橋本と申します。いえ、私も今日初めてなんです。』

『長崎倶楽部っていうから、郷土料理の店かって思ったけど全然違うんやね。』

『本っ当、超洋風!』

『これじゃあ、角煮まんも豚まんもないか?』

『筒井さん、それ長崎の飲み屋さんにもなくない?』

故郷が同じだというだけで、構える事なく接する事が出来る。これは、万国共通の田舎者あるあるなのかもしれない。飛鳥は、普段とは違う自分を客観的に見ながらそう思った。故郷の名前がかんされた店に、何かにすがる様に入ってきた二人。

お互いに、何かを感じていたのかもしれない。

そう、何かを・・・・。

ちゃんぽんに皿うどん、トルコライスにミルクセーキ。何処の店が良いだの好きだのって・・・・・、久々の故郷の話は尽きる事がなかった。

暫く忘れていた笑顔を、この夜二人は取り戻していた。だがそんな時間はあっという間に過ぎ、二人は軽く再会を約束しお互い家路についた。




 飛鳥は、鼻歌を歌いながらシャワーを浴びていた。何のストレスも感じずに、週末を迎える事が出来るなんていつ以来だろう。東京に出てきて以来、飛鳥は方言を直したりして田舎者と思われない様にしてきた。そんな自分が初対面の男と、無邪気に田舎の話しにふけった事を振り返った。

『大人になった・だ・け・で・す。』

そう自分に言い聞かせた。恐らく十歳位大人であろう靖久は、ずっと聴き役にまわってくれていた。

そして自然な笑顔で頷く姿に、彼の優しい性格が滲み出てるのが伺えた。良いタイミングで相槌を入れてくれ、いい感じで誉めてくれたりして。

『筒井さんかぁ〜、年上もいいかもねぇ〜。でもちょっと、上過ぎかなっ。』

初対面の靖久に、今まで出逢った男にはなかった包容力を感じていた。

『まぁ、どんな人なのかは解んないけどねぇ・・・・』

そう呟きながら欠伸をし、濡れた髪のままベットに潜り込んだ。


 一方靖久は、フラつきながらマンションのエントランスに滑り込んだ。朝も昼も食事を摂れないほど慌しかった挙句、結構な量を呑んだので普段よりも酔いが回っているのだ。オートロックの自動ドアがゆっくりとした開き方をする事に、少しイラつきながらエレベーターに乗り込む。居住階に着き、家族を起こさないようにそぉっと玄関を開けた。ドアガードが掛かっていない事に安堵あんどした後は、静かにソファーで横になるだけだった。明け方、ゾクっと寒気を感じ目を覚ました。何も羽織らずに丸まって寝ていたのであろう、肩から首にかけてコッチコチに凝ってしまった。靖久は首を回しながら起き上がり、飛鳥の事を思い出していた。

『かみさん以外の女性と、酒呑むなんてなぁ・・・・』

そう呟きながら、キッチンで大好きなカフェオレを淹れた。普段の自分からは、全く想像も出来ない自分を少し笑いながら。




 週が明け、日常の喧騒の中で二人はまた時間に追われていた。そんな中でも、二人は金曜日を心待ちにしていた。社交辞令の様な約束ではあったが、何となく二人はまた会えるような気がしていた。それを励みに、いつもの様に仕事に追われていた。

なんとなく、・・・・・トキメキながら。

 そうして迎えた金曜日。終業と共にデスクを離れた飛鳥を、職場はざわめきと共に見送った。昨日迄の飛鳥は自分の仕事は当たり前、上司や同僚に後輩のフォローまでをそつなくこなすスーパーウーマン。時間外も厭わず、チームリーダーとして凛とした姿を見せ付ける主任。そんな飛鳥が定時で帰る?周りは顔を見合わせた。

『何かあったのかなぁ主任、・・・・こんな早く帰るの初めて見た。』

『イケメン釣ったかなぁ?』

『あり得るわよね、主任綺麗だし。』

週末が近付くにつれ、どういう風に早く逃げるか。

飛鳥が知らない悩みを、チームは毎週抱えていたのだった。優秀な上司の部下は、それなりに悩み事を抱えているものである。

『主任帰っちゃたし、私達も帰ろ!』

飛鳥が帰ったオフィスは、あっという間に週末モードに突入した。飛鳥がこんなに早く退社するのは、チーム発足二年目にして初めての事なのである。そんな事など知る由もなく、飛鳥は「長崎倶楽部」へと駆け出した。

 一方靖久もこの一週間、金曜日が待ち遠しくて堪らなかった。只々先週の金曜日からワクワクしているだけだったのだが、普段よりも体が軽く軽快なフットワークで仕事をこなしていった。そんな靖久を見た社員達は、ニヤけながら陰口を叩いていた。

『おいおいっ、二代目どうしちゃったの ? 』

『妙に張り切っちゃってさぁ。』

『まるで別人じゃんかぁ。雷にでも打たれたんじゃねぇ ? 』

人は気持ちの持ち方次第で、如何様いかようにでも変われるようである。そんな職場の声なんて何処吹く風の二代目は、背中に羽根が生えたかの様に躍動した。そんな靖久を見て、専務の加藤がポソっと呟いた。

『二代目機嫌よさそうだなぁ・・・』

たった一度の、しかも二・三時間くらいの出逢いが二人の人生を変えていく。人生を、そして運命をクルクルクルクル変えていく。

ただその変化は、まだ始まったばかりだった・・・・・。




 飛鳥は小走りで来た事を悟られまいと、店先で大きく深呼吸を三回した。

『ふぅ〜、ふぅ〜、ふぅ〜、よっし。』

張り裂けそうな心臓の鼓動をうるさく感じ、思春期に戻ったかの様な錯覚に酔いながら店の扉を開けた。すると・・・・

『あっ、そちらの九州女子っ!御迷惑でなければ、ご馳走させてくれませんか?』

飛鳥は一週間前と同じテーブルから聞こえてきた声に、痺れる喜びを隠しながらそっと近づいて微笑みながら言った。

『ん〜っ。 ご馳走になって・・・・ あげちゃう 。』

『ハハハッハ。』

おもわず二人は笑った。飛鳥は、靖久が何を呑んでいるのかを見ながら言った。

『先週と逆になりましたねっ! 』

靖久の手元を指差しながら、飛鳥は同じ物をバーテンにオーダーしている。

その様子を見ながら、照れくさそうに靖久が返した。

『ん〜っ・・・・逆にしたかったから・・・・早く来たんだよねっ。』

飛鳥は、年上の男性に失礼かなっと思いながらも・・・・

『マジで ? 』

と聞いた。

『そう、マジでぇ。 』

靖久の顔がほのかに赤いのは、照れなのかアルコールなのは解らないが飛鳥の胸はときめいていた。

私を驚かせたかったのかな?鼓動が高鳴る・・・・んん っ?

飛鳥は、恋心に似た感じを抑えながら言った。

『あっ、あのぅ〜御免なさい・・・・』

『アッ俺、 誤解し・・・ 』

『違うっ、違うんです・・・・。 』

飛鳥も、顔を真っ赤にしながら靖久を見て言った。

『えっと本っ当に失礼で、恥ずかしいんですけど・・・・』

飛鳥は、言い訳をする子供がする様にモジモジしながら言った。

『何をされてる方とか、お幾つなのかとか。何にもお伺いしてなかったんで、今更なんですけど・・・・』

『んっ・・・・?』

二人は、真っ赤顔を見合わせた。

『あっ そうだよっ、そうだったよねっ。舞上がっとったぁ〜。うん。俺も、何にも聞いてなかったね 。 アハッハッハッハ・・・・』

二人はまた笑い、軽く肩の力が抜けていった。

『俺は、筒井靖久 三十九歳。妻と子供が二人がいて、義理の父が経営してた会社を継いだ出来の悪い二代目です。』

『私は、橋本飛鳥。お嫁に行かない製薬会社のOLです。』

二人は、一週間越しの自己紹介をした。

『じゃぁ、飛鳥ちゃんねぇ。』

『はいっ。社長。』

飛鳥は、意地悪そうに言った。

『やめてよ飛鳥ちゃん。靖久でいいよ、靖久で。』

『うん。・・・社長。』

今度は茶目っ気たっぷりに。

『だからぁ〜っ。』

可愛い奴めっという感じで、

『じゃぁ〜ヤス君ねっ。』

『おうっ!』

飛鳥はわざと年齢を言っていないのに、聞いてこない靖久の気遣いが好きだ。

『ヤス君、田舎には帰ってるの ? 』

『あぁ〜全然帰ってないんだよなぁ。お袋の七回忌で帰って以来だからなぁ、五・六年は帰ってないや。飛鳥ちゃんは ? 』

『私も四・五年帰ってない。結婚しろってばっかり言われるから。全然っ! 』

『そっか〜。早く良い人見付けなさいよっ!』

さっきのお返しとばかりに、意地悪そうに靖久が言った。

『五月蝿いよっ。』

飛鳥も、笑いながら応える・・・・

自分の事を人間嫌いなんだと思っていた飛鳥は、靖久と話しながらこんなに親しく話せる関係が不思議でもあり嬉しかった。

『よぉ〜っし、今日は、呑むぞぉ〜!』

『はい。社長 ! 』

飛鳥の素早い仕返し・・・・

『飛鳥ちゃぁ〜ん、虐めないでよぉ〜! 会社で散々いびられてんだからぁ〜 。』

『ハイハイって、ヤス君実はお酒弱いでしょ。』

『えっ! 』

『もう、顔真っ赤だよ ! 』

『良いやろ!飛鳥ちゃんと呑む為に、一週間頑張ったんやからぁ〜 。』

『よしっ、なら許してあげるっ。』

『よっしゃあ ! 』

こうして二人は毎週金曜日この店で逢うようになり、プライベートな事も話しえる信頼関係を築いていった。




 飛鳥と靖久が出逢ってから一ヶ月が過ぎた頃、筒井ひとみは靖久の変化に気付き出していた。付き合っていた頃でも見た事のない笑顔、そして過剰な優しさと気配り。その一つ一つに、嫉妬を燃やし怒りを募らせていた。

『ねぇパパ〜、最近金曜日になると遅くなってるっぽいねぇ。』

『ん〜っ、そうなんだねよぇ〜 。最近加藤さんからさぁ、ゴルフだのなんだのって引き継いだのもあってさ。金曜どころか、休日も取り上げられてま〜す。』

右耳の耳たぶを、指でさすりながら話す靖久を瞳は見逃さなかった。

付き合っていた頃、靖久がキャバクラの女にハマって借金を作った事がある。その事を問いただす時に、見付けた靖久の何気ない癖。靖久本人は、全く気付いていない嘘を吐く時の癖。

『ごめんねぇ。お父さんが、しっかり引き継ぐ前に亡くなっちゃったからさぁ。苦労をかけますねぇ〜若社長。』

茶化しながらも、瞳の怒りは業火如く燃えていた。そして、疑いを確信に変えていた。

『・・・・・女だっ!』




 飛鳥と靖久は、楽しい時間を謳歌おうかはしてはいたが体の関係はまだなかった。というのも呑んで話して同じ時間を共有するだけで、何となく満足出来る子供じみた感じもまた心地が良かった。飛鳥は今までの恋愛経験を話し、靖久に「男の人ってさぁ」と愚痴っては困らせた。靖久も、家庭や会社での冷えた空気感や違和感を話した。お互いが心の扉を開き、二人でしか話せない事・二人でしか見れない物・二人でしか共感出来ない事を増やしていった。

待ち合わせは、いつも決まって長崎倶楽部。黒ビールから始めるのがお決まりで、バーボンなんか一杯ひっかけてから食事をしたり違う店で呑んだりした。二人の心が、お互いに求め合っているのは仕草や言葉に現れていた。肌が触れて指で突き、手を握りそして手を繋いだ。歩く時に飛鳥は靖久の腕に絡み付き、別れ際にはキスをせがむ。まるで思春期のカップルの様に、ゆっくりと距離を縮めていった。

 そして、出逢ってから二月ふたつきが経った雨の降る金曜日。二人は、いつもの様に長崎倶楽部で待ち合わせていた。

『七夕だって言うのに、雨降っちゃったねぇ。』

『うん、そういえば・・・・・。二人で逢う時って、いつも晴れてたのにね。私、雨降ると憂鬱になっちゃうから嫌いなんだよなぁ。』

いつもの様に長崎倶楽部でひっかけた後の道すがら、飛鳥はいつも以上に靖久にしがみついていた。靖久は話をしながら、すれ違う人の傘の露先つゆさきを気にしながら歩いた。いつもの様にうなずいていた靖久が、いつもとは違う飛鳥に気付いた。

『飛鳥ちゃんどうした? んっ。』

覗き込む様に靖久が聞いた。

『ヤス君。私ね・・・・』

と言って肩を震わせうつむく飛鳥。まるで雨にスイッチを入れられたかの様な飛鳥に、靖久は優しく頭を撫でながら言った。

『飛鳥ちゃん、寂しいのを隠さなくったっていいんだよ。』

『 ・・・・。』

『そんなに、頑張り過ぎなくっていいんだよ。』

『 ・・・・。』

『俺はどんな時でも、飛鳥ちゃんの味方なんだからね。』

『 ・・・・うん。』

飛鳥はあまりにも幼稚な返事をしてしまった自分が恥ずかしかったし、靖久はそんな飛鳥が愛しくて堪らなかった。靖久は、スマホのバイブに少しビクっとしてモニターを確認した。そして、何かを検索しながら飛鳥に言う。

『今日は、雨降ってるからちょっと肌寒いよね。このまま、温泉にでも浸かりに行きたくねぇ?』

靖久の腰に腕を回して、飛鳥が甘えながら返事をした。

『大賛成で〜っす。本当〜に、何処でもいいから温泉行きたぁ〜い。』

そう言った飛鳥の手を取り、靖久はタクシーを停めた。

『新宿まで。』

飛鳥を奥座席に乗せ、靖久が傘を畳みながら乗り込んだ。

バタンっとドアが閉まるなり、タクシーは新宿駅へと走り出す。

『運転手さん、八時二十分の電車に乗りたいんだけど間に合いますよね?』

飛鳥は、何をしたいのか解らないっという顔で靖久を見た。信号にも恵まれ、靖久がスマホをちょこちょこ弄っている間にタクシーは新宿駅に到着した。

時間は、八時十分。

『ヤス君、何処行くき?』

靖久は、意地悪そうな笑みを浮かべて飛鳥の手を取った。そして肝心な事は何も教えずに、改札口にスマホを当てて入って行く。

『ねぇ、ヤス君ってば!』

飛鳥が靖久の手を振りながら聞くと、靖久は微笑みながら優しく応えた。

『湯河原温泉に行くよ。ほら、早く!』

キョトンとしている飛鳥に、靖久は頭を撫でながらもう一度言った。

。』

『えっ!』

飛鳥は何も言えないまま手を引かれ、二人は電車に飛び乗った。胸の高鳴りを抑えながら、飛鳥は靖久を見つめて聞いた。

『ヤス君、・・・・・本気 ? 』

『ああ、俺はいつでも本気だよ。もう、宿も押さえたし。』

飛鳥は高鳴る鼓動に駆られ、人目もはばからず靖久にキスをした。

『おいおい、電車の中だぞっ。』

照れる靖久にいさめられて車輌を移り、空いてる席に手を恋人繋ぎで座った。一時間三十分程で小田原に着き、乗り換えのホームで電車を待つ僅かな時間。その僅かな時間でさえ、二人には永遠に感じられる程長かった。それほど早く旅館に着きたかったし、人目をはばからずに重なり合いたかった。電車を乗り換え湯河原までの間、靖久は飛鳥と出逢った日の事に想いを馳せていた。

 あの日、普段の自分に苛立ちを感じて店に入った。地元の名前に、何となく懐かしさと癒しを求めて。扉を開いた時に躓き、転んで起き上がる時に見上げた飛鳥の顔。初めて会ったあの日から、僕らはこうなる事を解っていたのであろう。照れ臭いが、運命とはそういうものなのだろうと思う。現代社会では、孤独を抱える人間など掃いて捨てるほどいる。特に大都会では・・・・・。

だが孤独なだけではなく、同じ匂いの様な何かが感じられる事など殆どないに等しいのだ。だって、そんな毎日を僕らは過ごしていたのだから。

 最近動画サイトで、「若者の主張」なる動画を見た。女子高生が弁論大会で、今の世の中を作った大人に対しての意見を声高らかに弁論している動画だ。

「この過ごし難い世の中を作った大人達よ、その全ての負の遺産を私達若い世代に押し付けてしまうのか!そんな自分達を、恥ずかしいとは思わないのか!」っと。

まさに、ごもっともな意見で御座います。若者の言う通りなのだ、我々大人が自分達の不始末を若者に押し付けているのだ。・・・・・だが、大人になれば解る。

 何も、今初めてこの様な世の中になった訳ではない。今も昔も、若者は上の世代の大人達に叫んできたのだ。当然靖久の世代も、そしてその他の世代でもだ。

「大人は、何故先送りにしたまま今を誤魔化すのか?」

「大人が勝手に作った、この国の暗い未来を若者に押し付けるな!」

と、叫んでいた世代など珍しくもない。

「自分達は、今までの大人達とは違うんだ!」

「迷惑で無責任な大人達が作った、この醜い世の中を自分達が変えるんだ!」

いつの時代も、若者は上の世代と戦う覚悟が出来ていた。

そうして、世の中に意気揚々と出て行ったのだが・・・・・。

 毎日の生活に仕事、そして恋をして結婚をする。子供を授かり、慌ただしく暮らしていく中で時間だけは過ぎて行く。気が付けば、日々の暮らしの中で牙を抜かれ自分がそこにいる。振り向くと若者だった自分は、いつの間にか若者に罵られている大人になってしまっていた。そして魂の抜けた抜け殻の様な自分が、家庭と仕事の中だけで生きている。人類は、これを繰り返しているのかという現実を目の当たりにするんだ。そんな人間に、明るい世の中が作れる訳がない。

そして、そんな人間が幸せを感じる訳がないんだ。夢や希望を、いつの間にかなくしてしまった若者の抜け殻。大人とは、そういう生き物なのだ。この大都会東京は、そんな大人で溢れかえっている。

しかし僕らはそんな街で出逢い、そして心を通わせる事が出来た。

それも、当たり前の様にだ。だって僕らは孤独を抱える人間を、嗅ぎ分ける事なんて当たり前の様に出来たのだから。同じ匂いのする飛鳥に、愛しさを感じずにはいられなかった。まるで、自分の分身みたいだと・・・・・

 靖久がそんな想いに耽っていると、電車は湯河原駅に到着した。

駅でタクシーに乗り、靖久は行き先の旅館名を運転手に伝えた。その間も、二人はずっと恋人繋ぎをしたままで。飛鳥は、靖久にもたれかかって車窓から外を見た。

数年前を思い返しながら・・・・・

 飛鳥が大学二年生の頃、バイト先の男子と仲良くなった事がある。バイト仲間数人の男女で、食事をしたりカラオケに行ったりしていた。数ヶ月が経った頃、違う大学だったが同じ年の男子に呼び出された。

「男子だけ、いつもと違うメンバーで遊ぼう。」と。

飛鳥は女子のメンバーはそのままで、男子だけメンバーが変わるものだと思って遊びに行った。ところが、行った先のカラオケボックスには知らない男が四人いた。

バイト先の同僚の女子は、一人も来ていなかったのだ。飛鳥は不快に思い帰ろうとしたのだが、同じ年の男子は先輩の手前カラオケだけでいいから付き合ってくれと言う。余りにも情けない感じで、懇願するその子の顔をててカラオケだけは付き合う事にした。だがこの判断が間違っていた事に、飛鳥は直ぐ気付く事になる。

ものの十分もしない内に、同じ年の男子はトイレに行ったまま帰って来なかったのだ。飛鳥はバイト先の同僚の知らない先輩、見ず知らずの男四人の中に置き去りにされていた。兎に角、この場を何とかいなして逃げないといけない。しかも、四人の男に気付かれない様に。飛鳥は自分は呑まずに、上手い事お酒を勧めて四人をいい気分にさせた。そして機を見計らって、トイレに行くと言ってカラオケボックスから逃げ出したのだ。兎に角怖くて々、生まれて初めて死ぬ気で全力疾走をした。夜の繁華街を必死に走っている飛鳥に、すれ違いざまにほろ酔いの男達が声をかけてくる。

「どうしたの?こっちで俺達と呑もうよ。」

飛鳥は苛立ちながらも、兎に角全力で走って逃げる。何度も々振り返りながら、必死に全力疾走した。そしてなんとか事なきを得る事が出来たのだが、飛鳥は安堵と同時に怒りが込み上げてきた。もうちょっとと考えただけで、飛鳥は身の毛がよだつのだった。

そして数日後、バイト先で同じ年の男子に会った。

「ふざけるな!」

と言ってやろうと思ったが、飛鳥は彼の顔を見て驚いた。まだ腫れの引いていない顔は、紫と黄色味がかった不気味な色をしていた。その顔で悪びれる事なく、自分は被害者だと言ってきたのである。

『橋本、勘弁してくれよ!お陰で、先輩達にボコられちゃったじゃん!』

その時に飛鳥は男の醜さを、いや・・・・・人間の醜さを知った。そうこの男は、自分の保身の為に私を売ったのだ。自分が先輩に虐められない為か、可愛がられる為にかは知らないが飛鳥を生贄に差し出したのだ。だだのバイト先の同僚の私を、自分の身の安全の為だけに差し出したのだ。

 この件があって、飛鳥は男女問わずに人を観察する様になった。その人が何を考えているのか、何をしようとしているのかを。疑り深くなったとも言えるが、飛鳥はこれが当たり前だと思っている。自分を守る為に、当然の事だと。だがコミュニケーションが肝心な現代社会で、飛鳥のこういった身の構え方は相手に伝わるものだ。社会人になって交際した男性もいたが、自然と気薄な関係になり消滅していった。

「仕事は出来るんだがねぇ〜・・・・・」

聞こえてきたのは、職場の上司や同僚のこういった声である。こんな事に負けたくなかったし、「負けまい」としている自分を悟られたくもなかった。だからこそ頑張って来れたと思うし、結果や評価も望んでいる以上のものを得ていると思う。

だがそうして生きていると、自分が擦り切れていっているのがよく解る。しっかりとした自分を、無理をして演じている自分に気付くのだ。そんな自分に嫌気が差した時に、故郷の名を冠した店に救いを求めた。

「助けて!私、もう苦しい!」と。

その店に、転がり込んで来た一人の男。バツが悪そうで、顔を真っ赤にして立ち上がった時に何かを感じていたんだ。そして一月二月ひとつきふたつきと、逢えば逢う程自分の鎧を剥がされていく感覚。自分の事を人間嫌いだとさえ思っていた飛鳥は、初めて感じる新たな自分を知ってしまったのだ。そして、逢えば逢う程気付かされるのだ。もう戻れないし、戻りたくないという事に。

そんな事を考えている内に、タクシーは旅館に到着しようとしていた。

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