【完結】アヴァンチュール(作品231019)

菊池昭仁

アヴァンチュール

第1話

 貨物船の二等航海士、#大場俊輔__おおばしゅんすけ__#はまるで養蜂家にでもなったかのように、積荷の粗糖に群がる大量のミツバチに辟易していた。


 中南米のコロンビアにあるバランキラ港から粗糖を積み、ここモロッコのカサブランカでハッチを開けた途端、この有様である。

 一体どこからこれだけのミツバチがやって来たのだろう。

 尤も、花の蜜を集めるよりも遥かに効率はいい。何しろ砂糖その物なのだから。

 彼らにとって蜂蜜は、冬場の保存食だと言う。春から秋に掛けて群れの中にだだ一匹だけ存在する女王蜂は、一日で2,000もの卵を産み、秋口には50万もの帝国になるという。

 そしてその集団のミツバチにはそれぞれ役割があり、花粉を集める者や蜂の巣を守る者。花の蜜を集める者や巣の掃除、子育てなどが分業されているらしい。

 あの六角形のハニカムコアの巣は、自らが分泌するロウで作るそうだ。

 



 荷役監督のゴンザレスは笑って言った。


 「セカンドメイト(二等航海士)、安心しろ。何もしなければコイツらは刺したりはしねえ、かわいいヤツらさ」

 「俺はクマのプーさんじゃねえよ、ハチミツなんていらねえからコイツらを何とかしてくれ」


 私たちはそう笑ってタバコに火を点けた。





 荷役当直を終え、私はカサブランカの街をぶらついていた。

 三週間ぶりの陸地である。今回の大西洋横断は長かった。


 カサブランカは学生の時に観た映画、『カサブランカ』の街だ。

 カサブランカとはスペイン語で「白い家」という意味だが、昔はここも漆喰の白い建物が多かったのだろう。


 

     as time goes by. 

    (時の過ぎ行くままに)



 長い間、フランスの占領下にあったカサブランカ。

 フランス外人部隊の拠点でもあったこの港町は、ベルべル人のイスラム都市でありながら、フランスのパリに似たエレガントな街並みと美しく調和していた。


 私は小さな酒場へ入り、ケバブをつまみにラム酒を飲んでいた。

 長い航海を終え、酒場で飲む酒の旨さは格別だ。それは海に暮らす者にしかわからない。

 私は独り、至福の中にいた。



 「Chinese?」


 女が話し掛けて来た。


 「Business?」

 「ねえ? 私としない?」


 長い航海の後だ、女が欲しくないと言えば嘘になる。

 哀しげな黒い瞳をした美しいアラブ人だった。

 

 私は娼婦とはしない主義だった。

 もちろん病気を貰うのも嫌だが、カネで女を買うことに抵抗があるからだ。

 あまり知られていないことだが、日本の船員には国から法定薬備品としてコンドームが支給される。

 ナマでは危険だし、そして外地のそれはまるで#ゴムサック__・__#その物だからだ。

 ここでも「made in japan」は健在だ。



 「さっきして来たばかりなんだ」


 私は嘘を吐いた。


 「クソ野郎!」


 女は捨てセリフを吐いて去って行った。

 今日私は、レストランのウエイトレスを口説くつもりだった。

 外地では中国人や朝鮮人の船員は嫌われるが、日本人船員は意外とモテる。

 気前がいいのと、ジェントルマンだからだ。

 ディスコに行くとドイツ人や中国人、朝鮮人は断られることもあるが、日本人は「名誉白人」として扱ってくれる。




 店を出るとサマータイムということもあり、まだ街には太陽の光が燦々と当たっていた。

 灼熱の太陽とラピスラズリ色の空。

 街には花屋の屋台が溢れていた。

 私はそんな花屋の屋台で、殺風景な自分のキャビンに飾る花を物色していた。

 辺り一面に漂う甘い薔薇の香り。



 「あのー、日本の方ですか?」


 私が振り向くと、そこにはジーンズ姿の若い女が立っていた。

 その日本人の女は美しい瞳、小さな顔立ちの八頭身美人だった。


 「フィリピン人に見えるか? よく間違えられるんだ」


 私は女から目線を外し、再び花を選んだ。


 「あ~良かったあ~!

 ごめんなさい、あまりにも現地の雰囲気に馴染んでいらっしゃったので。

 こちらでお仕事を?」

 「観光客には見えねえか? エロ観光客に?」

 「あはははは、なんだか旅慣れているというか・・・」

 「俺はただのペテン師だよ」

 「もー、からかわないで下さいよー。

 ペテン師さんはお花なんか買いませんよ」

 「花が好きなペテン師だっているかもしれねえぞ?

 気をつけな、ここは日本じゃねえ。

 日本人は戦争に負けてアメリカに占領されてから、白人はみんないい奴ばかりだと教えられて来た。

 特に英語すらロクに喋れない女ほど無防備だ。すぐに騙される。

 ディズニーもハリウッドも「強くて偉大な国 アメリカ」の宣伝媒体に過ぎない。

 日本みたいに安全で清潔な国は世界中どこにもないと思え。

 レイプされて殺されるか、アラブの王様に売り飛ばされるのがオチだ」

 「随分怖いことを平気で言うのね? もしかして本当にペテン師さんだったりして? あはは」

 「アンタは本当に日本人なんだろうな? 間抜けなポメラニアンみたいなカンジだけど?」

 「失礼ね! ポメちゃんはかわいいから許すけど、間抜けは余計よ!

 私は田中美奈子。よろしくね? 今朝、リスボンから船でカサブランカに着いたばかりなの」

 「そうか? でもよくもまあ日本からわざわざこんな所まで来たな? リスボンで十分じゃねえか? いい街だぜ、リスボンは」

 「この街に来ることが子供の頃からの夢だったの。

 映画『カサブランカ』って知ってる?」

 「ハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンのアレか?」

 「あの悲しい物語の舞台、カサブランカに来て見たかったの。ずっと夢だったの、カサブランカに来ることが」


 美奈子はうっとりした表情でそう言った。

 可愛い女だと思った。

 

 「夢が叶って良かったな?」

 「もう最高の気分よ! そうしたらあなたを偶然見つけて。何だかうれしくなっちゃってつい声をかけちゃったの。

 だってまさかこんなところに日本の男性がいるなんて思わないじゃない? すごくホッとした。

 心細かったから」

 「海外なんて女が一人旅を楽しむところじゃねえよ。俺はボギーじゃねえ。悪役みたいな顔してるだろう? 俺は? あはははは」

 「悪い人は自分を悪い人だなんて言いませんよ! いい人か悪い人かくらい、私でもわかります!」


 するとそこへドラッドヘアの黒人が近づいて来た。


 「中国人ですか?」

 「ほら来た、相手にするなよ」


 その男はオーバージェスチャアで話し始めた。


 「私はジャマイカ人です。タバコを1本下さい」

 「俺はブルース・リーだ。失せろ!」


 私が空手の構えをして見せると、そいつは中指を立てるあのサインをして戻って行った。


 「なっ? カサブランカはいい所だろう?」

 「空手が出来るの?」

 「キスも出来るぜ、女を口説くことも」

 「口説かれてもいいけど、私のガイドになってくれない?」

 「俺のガイド報酬は?」

 「私じゃダメかしら?」

 「遠慮しておくよ、後が怖いからな?

 じゃあその間の食事を奢ってくれ、それならいいぜ」

 「お安い御用だわ。じゃあ決まりね?

 私、英検4級だから困っていたのよ~」

 「それでよく一人でここまで来たな? 尊敬するぜ。

 でもここではあまり英語は通じねえ。スペイン語、ポルトガル語、そしてフランス語の方が通じる。

 その代わり俺にもやらなきゃならねえ仕事があるから、その合間でもいいなら引き受けてやってもいい」

 「お仕事って何? 商社マンさんとか、国家公務員さんとかなの?」

 「殺し屋だ」

 「ペテン師の次は殺し屋? もう、からかわないでよ~」

 「とりあえず、花を買って行くから一緒に付き合え。

 アンタを一人でここに置いていったら危険だからな?」

 「わかったわ、あなたを信じる」

 「俺のことは信じなくてもいいから自分を信じろ。

 俺がヤリチンではないと信じた自分をな?」

 「ヤリチンだと思ってた。あははは」



 私はバケツごと深紅の薔薇を買った。

 

 「これだけ薔薇を買ってもたったの5ドルなの?」

 「米ドルだからな? 現地通貨のレートは低い」


 私はタクシーを拾い、美奈子というその女と本船へ向かった。




第2話

 「とてもいい香り、タクシーの中が薔薇の甘い香りでいっぱい」

 「一本やるよ、ほら」


 私は一輪の薔薇を美奈子に差し出した。

 彼女はその香りに酔いしれた。


 「香水みたい。赤い薔薇を一本ということは「あなたを愛します、ひとめ惚れです、あなたしかいません!」

 という意味よね?

 もう、そんな回りくどいことしないで言葉で言いなさいよー。

 素直じゃないんだから! 私のこと、好きなんでしょ?」


 美奈子は少し顔をひしゃげて俺に微笑んだ。


 「いらねえなら返せ」

 「イヤだもん。ほら、似合うでしょ?」


 彼女は棘に気を付けながら薔薇の先端だけを折り、それを右側の髪に飾って見せた。

 もしそれが意図的にされたとすれば、やはり彼女は結婚してはいないようだった。


 「右に花を飾るということは、どうやら未婚らしいな?」

 「あら、よく知っているのね? そうゆう事には無関心なのかと思ってた。

 そうよ、私、ハワイが大好きなの。毎年お正月はハワイで過ごしているの。

 どう? かわいいでしょ?」

 「薔薇がな?」




 タクシーが本船の前で停まった。


 「ここってお船じゃない?『SUNNY ISLAND号』?」

 「流石は英検4級。英語、読めるじゃねえか?」

 「バカにしてるでしょ? ただのローマ字じゃない」

 「ローマ字ねえ? 飯でも食っていけよ。ご馳走してやるから。

 日本食、そろそろ恋しい頃だろう?」

 「いいの? よかったあ! 白いご飯が食べたかったのー!」



 私はアコモデーションラダーを美奈子を連れて上がって行った。

 まだ荷役が始まったばかりなので、吃水は深く、ラダーは比較的昇り易かった。

 現地のワッチマン(舷門警備員)が声を掛けて来た。


 「セカンドメイト、おまえの女か?」

 「いや、そこで拾って来た女だ」

 「おまえはラッキーな男だよ」


 そう言ってワッチマンはウインクをした。


 「あの人、何って言ったの?」

 「そのブス、どこのゴミ箱から拾って来たんだってさ?」

 「嘘ばっかり!」

 「じゃあ訊くなよ、いちいち」

 「なんて美人なんだとか言ってなかった?」

 「さあな?」

 

 俺は自分のキャビンの前まで来ると、ドアを開けたままにして彼女を部屋に招き入れた。

 それが船乗りとしてのマナーだと思ったからだ。

 外地で不安な女の弱みに付け込むほど、俺は下品な男じゃない。


 「へえー、冷蔵庫もあるのね? それにシャワーも」

 「船乗りは着る物も住むところも食事もみんなタダだ。

 つまり給料は全部小遣いというわけだ。

 どうだ、羨ましいだろう?」

 「いいなあ、憧れちゃう?

 いろんなところに行けて、お金も貰えるなんて」

 「仕事はそれなりに厄介だけどな?」



 美奈子をメス・ルーム(士官食堂)へ連れて行った。

 私はメス・ボーイに簡単な日本食を用意するように命じた。


 「セカンド・オフィサー、どこで見つけて来たんですか? あんなすげえ美人?」

 「いいから早くメシを出してやれ」

 「はい、はい」


 

 美奈子は久しぶりの日本食に大喜びだった。


 「うわー、ご飯だご飯。いただきまーす!」

 「いっぱい食え。お替りしろよ」

 「あなたは食べないの?」

 「俺はこれでいい」

 

 私は前の航海で買った、ヘネシーXOをグラスに注いだ。

 美奈子はうまそうに飯を食べていた。

 育ちの良さそうな食べ方をしている。

 食事の仕方に育ちが出るものだ。



 「ごちそうさまでした。お腹いっぱい」

 「少し本船の中を見学するか?」

 「うんうん。見たい見たい」

 「1,500円いただきます」

 「えー、お金取るのー?」

 「特別に今日は無料にしてやるよ」

 「ありがとう!」


 まず私は美奈子をエンジン・コントロールルームに案内した。


 「ここがエンジン・コントロールルームだ」

 「なんだか大きな工場の制御室みたい」

 「そしてここがエンジンルーム。

 このデカいエンジンで16,000トンの本船を動かしているんだ」

 「へえー、三階建くらいあるかしら?」

 「それ以上だ」


 私たちはエンジンルームから通信室へと移動した。

 

 「ここが通信室。昔はモールス信号が通信手段だったが、今では船もインターネット等で連絡が可能になり、通信長も事務長に鞍替えになった」


 そして階段を上がり、ブリッジ(操舵室)へとやって来た。


 「えー、初めて見たー、すごーい!

 機械がいっぱい、それにすごくいい眺めね?

 カサブランカの港が一望出来るわ!」

 「そしてここが俺の仕事場だ。俺は本船の二等航海士をしている。

 中南米のベネゼエラから粗糖を積んでカサブランカにやって来た。

 一週間後には地中海へ出て、スエズ運河を超えて太平洋を横断し、カナダのバンクーバーで菜種を積んで日本の清水港へ向かう予定だ」

 「私は三日後にここを出るわ。それまでの間、ガイドしてくれるわよね?」

 「いいよ、仕事以外の暇な時ならな?」

 「ごめんなさいね、忙しいのに私の我儘に付き合わせちゃって」

 「気にするな、俺も退屈しのぎになるしな?」

 「私が退屈しのぎなの? 失礼ね~。あはははは

 ところで、まだお名前を聞いていないけど」

 「大場俊輔だ、よろしく」


 私は美奈子と握手を交わした。


 「よろしくね? 私の素敵なガイドさん!」


 そして俺と美奈子のカサブランカの奇妙な3日間が始まった。




第3話

 「結構いいホテルじゃねえか?」


 私はタクシーで彼女をホテルまで送り届けた。


 「ねえ、少し飲んでいかない?」

 「アンタの部屋でか?」

 「それでもいいわよ、別に」

 「ホテルのバーで待ってるよ」

 「シャワー、浴びて来てもいい?」

 「ごゆっくりどうぞ、王女さま」

 「それじゃあ、行ってきまーす」

 

 私はホテルのバーラウンジに腰を据えた。



 階段を上がったり下がったりするようなジャズ・ピアノの演奏に、ここが日本から数千キロも離れた異国であることを忘れてしまいそうだった。

 飛び交う様々な言語。



 「ジンライムをくれ」

 「かしこまりました」


 地中海沿岸はライムやレモン、オレンジなどの柑橘類の宝庫だ。

 俺は深く、ライムの香りを吸い込んだ。

 疲れた頭の中に、爽やかなエメラルドの風が吹き抜けて行くようだった。

 今度の航海を終えれば、俺は日本で休暇の予定になっていた。

 そして真由美と結婚するつもりだった。

 俺は真由美から会社経由で現地に送られて来た、エアメールを開封した。



   My Dear, 俊輔


   お仕事ご苦労様です。

   今、あなたはどこにいるんでしょうね?

   アフリカ? それともヨーロッパの港かしら?

   私も今すぐ飛んで行って、あなたに会いたい。

   いつも考えるのはあなたのことばかり。

   5分に一度、いえ、3分に一度は俊輔のことを考え  

   ています。

   あと2か月で会えるんですね? もう2か月? ま 

   だ2か月?

   1年ぶりだね? 楽しみだなあ。俊輔に会えるの。


   最近、2キロも太っちゃいました。

   俊輔をがっかりさせないようにダイエットしていま

   す! 

   明日からだけど(笑)


   俊輔はどうですか? ちゃんと食べていますか?

   あんまりお酒、飲み過ぎないでね。

  

   この前、久しぶりに道代に会いました。

   「真由美、まだ俊輔君と付き合っているの?」

   と、驚かれちゃいました。

    1年も会えない恋。

   しかも会いたくても会いに行くことも出来ない   

   超遠距離恋愛。


   道代には絶対に無理だそうです。

   でも私は平気。

   大好きな人が自分の夢を追いかけているのを見て 

   いるのが好きだから。


   なんて本当は凄く寂しいです。

   帰国したら迎えに行きます。清水港まで。

   その時は骨が折れるくらい、強く抱き締めて下さ

   いね。


   お体に気を付けて。

   今度、会える日を楽しみにしています。

   大、大、大好きな俊輔に、たくさんの愛を込め 

   て。チュ


            あなたの真由美ちゃんより




 「彼女さんからのラブレター?」


 私は便箋を封筒に戻し、ジャケットの内ポケットに仕舞った。

 そこには昼間のジーンズにポニーテールの美奈子ではなく、髪を解いた、ロングスカートにピンヒールの彼女が立っていた。

 その美しさに私は言葉を失った。

 美奈子は私のテーブルの前に座ると、両手で頬杖をつき、


 「何を飲んでいるの?」

 「ジンライムだ」

 「美味しい?」

 「不味かったら飲まねえよ」

 「じゃあ私も同じ物を頼んで頂戴」


 美奈子はそう言って微笑んだ。

 私はギャルソンを呼び、


 「このセニョリータにもジンライムを。

 そして俺にも同じ物を」

 「シー、セニョール(はい、お客様)」

 「英語じゃないのね? 何語なの?」

 「スペイン語だ」

 「あなたってスペイン語も話せるの?」

 「世界中の女を口説くには語学は必要だからな?

 そして言葉は道具だ。教養じゃねえ。

 日本人は英語が出来るというだけで尊敬される。バカげた話だ。

 日本人と韓国人くらいだぜ、英語すら喋れないのは。

 ここでは小学生だってフランス語やスペイン語、ポルトガル語や英語、ドイツ語ですら話せるやつがザラにいる。

 公用語はベルベル語とアラビア語だけどな?

 言葉が多いということは、そこには侵略の歴史があるということでもある。

 俺も仕事柄アフリカ沿岸の国は殆ど行ったが、ヨーロッパの植民地では白人との混血がたくさんいる。

 混血と混血がまたヤレば、どんどん白人に近づいていくだろうな?

 そして言葉まで侵略されてしまう。

 「亡国の民、言葉忘れじ」とは言うけどな?

 フランス語やイタリア語、スペイン語にポルトガル語。切がねえ。

 世界は白人の物なんだよ。

 俺たちはその白人のおこぼれで生きるしかねえのさ」


 俺はカメルーンの酒場でフランス人と喧嘩をした事を思い出し、イラついた。

 俺はグラスに残ったジン・ライムを飲み干し、ライムを齧った。

 辺りに立ち込めるライムの鮮烈な香り。



 「マイケル・ジャクソンもいつの間にか白くなってるもんね?」

 「アイツら黒人は、白人に憧れているからな?

 黒人の夢は白いシャツを着て、白いキャデラックにの乗って、白い家に住んで、白人のような白い肌になることだ。

 元々、白人の奴隷やペットとして連れてこられて、笑える話だよ。

 世界には人種差別の根深い現実がある。

 アメリカはまだいい、ヨーロッパでの黒人は人としてさえ認められていない。人種区別だ。

 アメリカで黒人が白人の女と歩いていればリンチされるが、ヨーロッパではそれがない」

 「どうして?」

 「人間として扱われず、犬や猫としてのペット扱いだからだ」

 「いやな話ね?」

 「日本の少女漫画を見てみろよ、殆どがきれいな白人ばかりじゃねえか?

 あんなきれいな日本人なんているか?

 結局俺たちは白人に憧れて、いつまでも頭が上がんねえんだよ」


 酒が運ばれて来た。

 俺はテーブルに酒代とチップを置いた。


 「グラシアス(ありがとうございます)」

 「お金はその都度払うの? 私が出すわよ。

 タクシー代も払ってもらって、ご飯までごちそうになっちゃったんだから」

 「殆どの店はキャッシュ・オン・デリバリーだ。

 それにカネは男が払うもんだ。

 少なくとも俺たち船乗りはそうしている。だから気にするな、ダイヤやバッグを買う訳じゃねえ。どうせ端下カネだ」

 「なんだか悪いわ」

 「俺といる時は飲み屋の姉ちゃんだと思えばいい。

 俺は客じゃねえけどな?」

 「ありがとう。じゃあカラダで返そうか?」

 「もっと払わせられそうだな? あはははは」

 「うふふふふ」


 俺は美奈子とグラスを合わせた。


 「ようこそ、カサブランカへ」

 「ありがとう、セカンド・オフィサーさん」


 グラスの氷が溶けるように、ゆるやかに夜が更けて行った。




第4話

 「美味しいお酒ね? はじめて飲んだ」

 「酒も人生もシンプルなのが一番だ」

 「私ね、東京でファッション関係の仕事をしていたの。

 でも、なんだか疲れちゃって。

 会社、辞めちゃった」

 「疲れたら休めばいい。

 まあ、好きな仕事を辞めたんだ、それなりの理由があったんだろうな?」

 「何で辞めたのか訊いてよ」

 「面倒くせえ女だなあ?

 どうして辞めたんですか? 美奈子さん」

 「チーフから平社員に降格されちゃったの」

 「どうして?」

 「上司のパワハラを会社に訴えたら総務に飛ばされちゃって。

 それがね? その女上司のお気に入り君が、私を食事に誘ったからなのよ。

 もちろん、何もなかったわよ。くだらない話でしょ?」

 「俺たちの職場に殆ど女はいないからな?

 大変だな? 女の職場は。職場は婚活パーティじゃねえのによ」


 俺は両切りタバコのラッキーストライクに火を点けた。


 「でも女にとって恋愛は大切よ。

 私が迂闊だったわ。食事なんか断ればよかった・・・」

 「でもお前は断らなかった。そのイケメン君のことが嫌いじゃなかったから」

 「ホントはね、ちょっとタイプだった。えへっ」

 「女ってやつはよくわかんねえよなあ。

 本音と建前がややこしい」

 「でも、そこが女のカワイイところでしょ?」

 「そうかもな?」


 俺は否定しなかった。


 「ねえ? 大場君はどうして船乗りさんになったの?」

 「家が貧乏だったからだ」

 「なんだか意外。子供の頃から船長さんになるのが夢だったのかと思ってた」

 「そういう奴もいたが、俺は別だ。

 商船高専に入って初めて海を見たくらいだからな?」

 「そうなんだ?」

 「でも今は好きだぜ。この仕事が」

 「いいわよねえー。毎日が冒険で?」

 「命賭けのな?」

 「やっぱり海は怖い?」

 「怖いからやってられる。俺たちは決して海を甘く見ない。

 海はいつでも真剣だからだ。

 嵐の海も穏やかな海も、決して海は手を抜いたりはしない」

 「さっき読んでたお手紙、彼女さんからでしょう?

 キレイな字を書く人なのね?」

 「悪趣味な女だな? 勝手に見るなよ。他人の手紙を」

 「内容までは読んでないから安心して。 

 「私の親愛なる俊輔」しか見えなかったから。残念だけど。

 読み終えてから声を掛ければ良かった。

 彼女さんとはどのくらい会ってないの?」

 「1年」

 「すごいわね? その彼女さん。

 私には無理、絶対に無理。自信を持って無理。

 だって絶対に言っちゃうもん、「海と私、どっちが好きなのよ!」って暴れちゃう」

 「普通はそうだろうな?」

 「でもそれでも続いているなら、本当にあなたのことを愛しているのね?

 コノコノ。モテる男はツラいってか? あはははは」

 「辛いよ。待っている方も辛いだろうが、待たせている方はもっと辛い」

 「でもさあ、恋ってしようとしてするもんじゃないでしょう?

 運命って言うの? 何だか知らないうちに、気付いたら付き合ってたみたいな?」

 「お前、彼氏は?」

 「いるわよ、彼氏のひとりや二人くらい。

 嘘、もう過去形になっちゃった。

 正確には「いたよ」だけどね。

 ねえ、お願いがあるんだけど、いい?」

 「内容にもよるけどな?」

 「三日間だけ、カサブランカにいる三日間だけ私の恋人になってくれない?」

 「お前の滞在中にってことか?」

 「そう。だって旅にはアバンチュールがないとつまんないでしょう?

 やっぱり旅の思い出には美味しい物とキレイな景色と、そしてやっぱり「行きずり恋」がないと。

 もちろんあなたには彼女さんがいるから、お互いに連絡先は交換しない。それがルール。

 三日が過ぎらたもう他人同士。

 なんだかワクワクしない?

 ねっ? いいでしょう? お願い!」


 美奈子は俺に手を合わせ、お道化て見せたが、眼は本気だった。



 「いいよ、3日間だけお前の恋人になってやるよ」

 「ありがとう!」



 そして俺たちの「恋人ごっこ」の幕が上がった。

 俺と美奈子のひと時の儚い恋が。




第5話

 「おかわりー。今度はテキーラサンライズねー」

 

 バーラウンジはピアノ演奏も終わり、スタッフは後片付けを始めていた。


 「そのくらいにしておけ。それにもう、このBARも閉店だ。

 見てみろ、客は俺たちしか残っていねえ」


 俺はジンライムを飲み干し、席を立った。


 「もっと飲みたーい!

 もっともっと、お酒をたくさん飲みたーい!

 だって俊輔といると、凄く楽しいんだもん。

 こんなに楽しいお酒は久しぶりよ!

 じゃあさ、じゃあさ、外に飲みに行こうよ!」

 「ここは日本じゃねえ。こんな夜更けにアジア人の男と女が飲んでいたら、俺は殺され、お前もレイプされて殺されるだろうよ。

 それに明日、午後から俺とデートするんだろう? 二日酔いでどうすんだ? 折角のカサブランカだぞ?」

 「んー、それなら私のお部屋で呑もうよー。

 いいじゃん、いいじゃん、私たち恋人同士なんだからさー、ねえ?」

 「部屋まで連れて行ってやるから、今夜はもう寝ろ」



 俺はふらつく美奈子を支えながら、彼女の部屋へと向かった。

 捻挫する可能性もあったので、ヒールは脱がせて俺が持った。



 「やさしいのね? 俊輔。

 そういうところに惚れたんだろうなー? 彼女さんはー」 



 ホテルの廊下で美奈子が俺にキスをして来た。

 それはかなり本格的なキスだった。


 「どう? 私のキス。

 別れた彼からも褒められたんだからー。

 美奈子はキスが上手いなって。あはははは」


 それは蕩けるような甘いキスだった。




 美奈子の部屋はダブルベッドになっていた。

 枕がふたつ並べてあるのを見ると、長い航海の後だけに、真由美への想いが少しだけ揺らいだ。



 「あー、ふかふかのベッド、気持ちいいー」


 美奈子はベッドにうつ伏せになり、体を反転させるとすらりと伸びた美しい脚が露わになった。



 「ねえ、こっちに来てよー」

 「いいから着替えて早く寝ろ。明日は砂漠を見につれて行ってやる」

 

 美奈子の瞳から涙が零れていた。


 「さびしい・・・。さびしいの。

 だからお願い、私の傍にいて・・・」

 

 俺はベッドに座り、美奈子の頭を撫でた。

 すると彼女は私の手を取り、そのまま自分の隣に俺を引き寄せた。


 「ずっとひとりで寝ていたのよ、ずっと・・・」

 「俺はいつもひとりで寝てるけどな?」

 「ひとりで寝るのってイヤじゃないの?

 寂しくない? 怖くない?」

 「そうかもな? でも自由だぜ、ひとりって」

 「私、男の人の肌の温もりって好き。

 安心するんだよねー。 私、ひとりじゃないんだなあーって思っちゃう・・・」

 

 俺は真由美のことを想い出していた。

 明日、成田へ発つという夜は、決まって真由美は俺にせがんだ。



 「もっと強く抱き締めて。

 あなたのことを忘れないように」


 俺は真由美を強く抱き、キスマークをたくさん付けた。




 服を着たまま、俺は美奈子をやさしく抱き締めた。


 「抱いて・・・」

 「こうか?」


 私は少し強く美奈子を抱きしめた。


 「そうじゃないでしょ? ここを使って抱いて・・・」

 

 彼女のしなやかな指が、すでに硬くなった俺のそれを、スラックスの上から触れていた。


 「溜まっているんでしょ? もうこんなになってる」

 「今夜はここまでにしておくよ」

 「どうして? こんなにいい女が誘っているのよ? 私が嫌い?」

 「いい女だからこそ、このままでいい」

 「据え膳食わぬは男の辱。女の屈辱よ?」

 「いい据え膳だからこそ、このままでいいんだ」

 「彼女さんのこと、愛しているんだ?」

 「そうかもしれない。そしてもうひとつ、寂しそうで悲しそうなお前を見ていると、守りたくなるからだ。 

 男ならお前を抱きたくない奴はいない。 

 だが、お前とそうなってしまったら、俺はお前も愛してしまいそうだからだ。

 海で遭難し、救命ボートの水も無くなる。

 目の前には海がある、だがそれは海水だ。

 どうしても喉の渇きに耐えきれず、その海水を飲んでしまう」

 「海水って飲めるの?」

 「海水を飲んだら最後、狂い死ぬそうだ。

 海水は塩水だろう? ラーメンのスープを飲んだ後、水が飲みたくなるよな?

 海水を口にした途端、さらに激しい渇きに襲われる。

 俺にとってお前は海水なんだ」

 「私はあなたにとって海水なの?

 いやだなあー、海水なんて。

 私はあなたの美酒になりたい。あなたを酔わせる美味しいお酒に。

 ヘネシーとかドンペリとか」

 「それでも喉は渇くけどな?」

 「そうか。あはははは」


 美奈子がまたキスをしてきた。

 今度はやさしい口づけだった。


 「そんなあなたが好き・・・。

 ねえ、お願いを聞いてくれる?」

 「どんな?」

 「何もしなくていいから、ただ裸で私を抱いて欲しいの。

 私が眠るまで・・・」



 俺は無言のまま服を脱ぐと、シャワーを浴びるためにパウダールームへと向かった。

 熱いシャワーを浴びながら、俺には様々な想いが去来していた。




 ベッドに行くと、美奈子の着ていた服がソファに丁寧にたたまれてあった。下着もすべて。

 

 「来て」


 彼女はシーツを首のあたりまで引き上げ、笑っていた。

 私は部屋の照明を落とし、窓のカーテンを開けた。

 そしてシーツをめくり、カラダを美奈子の隣に滑り込ませた。

 美奈子の小さな胸が俺の腕に当たる。

 俺は彼女の体を引き寄せ、俺の胸に彼女の頭を乗せた。

 彼女の髪から甘いトリートメントの香りがした。



 「あなたの心臓の鼓動が聞こえる。ドクン、ドクンって・・・」

 「生きてるからな?」

 「生きてるって、すごいね?」

 「すごい嵐になるとな? ビルの10階くらいの高さの波が押し寄せて来る。それで船体がみしみしと軋んでも、死ぬとは思わない」

 「どうして? 怖くないの?」

 「人は本当の命の危険にさらされると、死ぬとは考えない。

 恐怖も忘れてしまう」

 「じゃあ何を考えるの?」

 「どうしたら生きられるかを考える。

 どうしたらこのピンチから生き残れるかを」

 「死ぬことを考えずに、生きることを考えるのね?」

 「それが生きるということだ」

 

 彼女の寝息が聞こえて来た。

 窓から差し込む外灯の灯りに照らされた、あどけない美奈子の寝顔。

 私のミッションが終了した。


 少しの間、俺は彼女の寝顔に見惚れていた。

 このまま、朝が来なければいいとさえ思った。


 俺はひとり、後ろ髪を引かれるように本船へと帰って行った。




第6話

 テーブルにメモを残して来た。



    美奈子王女様

   

    13:00に迎えに来ます 

    昼飯は何が食べたい? 

    考えておいて下さい

    なお、夕方は砂漠に行くから

    汚れてもいい服装で

    ジャケットがあればそれも用意

    しておくように


     「眠れる森の美女」の小人より




 13時ジャスト。俺は荷役当直を終え、彼女のホテルにやって来た。

 船乗りや日本の自衛官は「5分前精神」を徹底的に叩き込まれる。

 時間に遅れることは許されない厳罰だ。

 俺は女との待ち合わせにも遅れたことはない。

 仕事に関わらず、プライベートも時間厳守だ。それが相手に対する礼儀でもある。

 時間を守ることは約束を守ることであり、信用と思い遣りなのだ。

 フロントから美奈子の部屋に電話を掛けてもらい、私はロビーのソファアで彼女を待った。



 5分ほどして、息を弾ませて彼女がやって来た。

 

 「ごめんなさい、待たせちゃって。

 時間に正確なのね? そんな彼氏はあなたが初めてよ。みんな時間にルーズな人ばかりだったから」

 「俺は船乗りだからな? 例えば本船の出港に遅れたとする、すると岸壁を離れた船のキャプテンはこう言うんだ。「次の港で待ってるぞ-!」と。だが会社からはこんな書類が届く、「以後、出社するに及ばず」とな? 解雇通知だ」

 「厳しいお仕事なのね?」

 「仕事に遅れる事自体、能力も誠意もないということの証明だ」

 「なるほどね? 私の職場にも何人かいたわ。時間を守らない人が。

 えへっ、そういう私もそうだよね? 遅れてごめんなさい」

 「心配するな。女は許される」

 「どうして?」

 「女は#おめかし__・__#が必要だからな?」

 「うふっ、ありがとう。服装はこれでいいかしら?」


 彼女はジーンズにTシャツ、サマーカーディガンに白いスニーカーというスタイルだった。

 髪は髪留めで押え、キャップを被っていた。


 「厚手のジャケットか、薄いウインドブレーカーはないのか?」

 「夏だからそんなの持って来てないよ。それに砂漠に行くんでしょ?

 砂漠って暑いんじゃないの?」

 「夜は意外と冷えるんだ。砂は比熱が高いからな?

 まあいい、念のため俺のジャンパーを用意して来たから、夜はこれを着ればいい。

 昼飯は何が食べたい?」

 「タジン鍋!」

 「じゃあ海の見えるレストランに行こう」





 コルニッシュ通りにあるレストラン。

 大西洋に面したシーサイドテラスに座り、俺たちはシャンパンを飲んだ。

 海から吹いて来る潮風と波の音が心地いい。

 そして流れるジョアン・ジルベルトのボサノヴァ。


 「風がとっても気持ちいいわー。

 冷えたシャンパンも最高。

 ハリウッド女優になった気分」


 美奈子は長い足を組んでご満悦だった。


 「この辺りにはアトランティック大陸が沈んでいるという伝説がある」

 「そうなの?」

 「だから大西洋を「アトランティック・オーシャン」っていうだろう?」

 「へえー、そうなんだあ」


 美奈子はそう言って微笑んだ。

 かわいい女だと思った。


 「アトランティスには高度な文明があったらしい。

 空も飛んでいたそうだ。円盤みたいなやつで」


 だが美奈子はそんな話には興味を示さず、

 

 「夕べはありがとう。添い寝してくれて」

 「凄いいびきをかいていたぞ。涎を垂らして」

 「うそっ!」

 「嘘だよ。きれいな寝顔だった、眠れる森の美女のようにな?」

 「それもちょっと恥ずかしいかも。寝顔を見られるなんて」

 「裸よりもか?」 

 「うん。男の人の肌の温もりって好き。なんだかすごく安心するの。「ああ、私はこの人に守られているんだなあ」って思っちゃう」

 「守りたい男と守られたい女か? いいな、そんな関係も」

 「するとかしないとかじゃなくてさ、昨日みたいなカンジって、エッチするよりも良かった。

 私、俊輔に大切にされているんだと思った。恋人同士だもんね? 私たち」

 「本当はお前とやりたかったよ。俺も男だから。

 航海中に女はいない。当然、性欲は高まるものだ」

 「そんな時はどうするの? 自分でするの?」

 「港に着くまで我慢するか、自分で慰めるかだな?」

 「宇宙飛行士もそうなのかな?」

 「パイロットも凄いらしいな? よくCAと機内でしちゃうとか言うからな?

 つまり、男の性欲というものは、命に係わる仕事には付き物なのかもしれない」

 「女にもあるわよ、性欲」

 「人の人生に関わる弁護士とか検事、裁判官もそうかもな?

 ムッツリスケベが多そうだろう?

 アイツらも相当なストレスを抱えているからな?

 そして政治家や芸能人も同じだ」

 「昔付き合ってた弁護士の男もそうだったわ。

 要するに男はみんなヤリたい動物なんだ」

 「電車に飛び込んで轢死すると、髪の毛が真っ白に逆立ち、ペニスが勃起したままになることがあるそうだ。

 死ぬ瞬間に自分のDNAを残そうとする本能がはたらくのかもしれない」

 「じゃあさあ、港に着いたら女の人をどうやって探すの?

 #そういう__・__#女の人にお金を出してするの?」


 そう言って、美奈子はシャンパンを飲み干した。

 俺はその空いたグラスにワインクーラーから取り出したシャンパンを、泡が立たないように気をつけながらシャンパンを注いだ。

 午後の日射しがシャンパングラスを輝かせ、黄金色に染めた。

 

 「そういう奴もいるが、俺は女をカネで買うことはしない」

 「じゃあどうするの?」

 「普通の女を口説く」

 「でもそれって矛盾しているわよね?

 昨夜ゆうべ、私を抱かなかったのは彼女さんに悪いと思ったからじゃないの?

 それなのに他の女は抱くの? それっておかしくない?」

 「商売女を抱かないのは、カネでやらせろというのが嫌なのと、性病が怖いからだ。

 日本の風俗でもそうだが、梅毒よりも雑菌性の淋病とか、毛虱の方が厄介だ。

 特に雑菌性の淋病の場合は完治しにくいようだ。

 疲労や飲酒で症状が出ることもあるらしいからな?

 船内医療は二等航海士の俺の管轄なんだ。

 昔は船医が乗船していたが、今では省力化が進み、クルーも減ったから船医もいなくなった。

 殆ど仕事をしなくてもいい高給取りだしな?

 だから俺たち航海士は船舶衛生管理者という資格を取らされて、看護師や医者のように緊急救命医療行為を行うことが出来る。

 海の上には医者も美人ナースもいねえからな?

 本船にも医療処置室があり、簡単な手術も可能だ。

 テトラサイクリン、ペニシリン、ストレプトマイシンなどの抗生剤はもちろん、注射器に縫合セット、メスまである。

 アスピリンにブスコパンなどが船舶法定医薬品として常備され、他にも様々な薬が保管されている。

 包帯にガーゼ、何でも揃っているんだ。

 だが怖いことに麻酔は無い。

 もっともそれは医者じゃないと使えないがな?

 病気を貰った連中に俺が注射してやることもあるが、今はめったになくなった。

 そして医療技術も格段に進歩したからな?」

 「ちょっと、私の質問を躱された気がするんですけど?

 他の女とはどうしてエッチするんですかあ? 私とはしなかったくせに。セカンドオフィサーさん?」

 「愛してしまいそうだったからだ」


 美奈子は俺のその答えに戸惑っていた。


 「それは私のことを愛し・・・」


 俺はそれを途中で遮った。

 なぜならその時、タイミングよくタジン鍋が運ばれて来たからだ。


 「さあ食おう。温かいうちに。

 あと、クスクスもくれ」

 「かしこまりました」


 美奈子もその先を言わなかった。

 この女は恋愛の本質をわかっていると思った。

 

 俺たちは何事もなかったかのように食事を続けた。




第7話

 食事を終え、俺たちは船会社のエージェントが手配してくれたジープでサハラ砂漠を目指した。

 最初ははしゃいでいた美奈子も、昨夜の深酒と先ほどの食事で腹が満たされたのか、私に寄り添い眠ってしまっていた。

 

 クルマは国道をひたすら走り、夕暮れ間近にサハラ砂漠に到着した。



 「おい、着いたぞ。サハラ砂漠に」


 すると美奈子はヨロヨロとクルマから降りると、大きく背伸びをして叫んだ。


 「すごーい! 何これ! これがサハラ砂漠なの! 信じられない! どこまでも砂漠が続いてる!」

 「だから砂漠と言うんだ。あははは」


 感激して喜ぶ美奈子に、俺は目を細めた。

 そして美奈子は観光ラクダのいるところへ走って行った。

 

 「寝起きでいきなり走るとケガするぞー!」


 そして案の定、美奈子は砂に足を取られて転倒してしまった。

 俺も慌てて彼女に駆け寄った。


 「ころんじゃった」


 美奈子は少女のように笑うと、俺に右手を差し出した。

 彼女のか細い腕を取り、彼女が立ち上がるのを助け、砂を払ってやった。

 それはまるで、恋愛映画のワンシーンのようだった。


 「あっ、お尻触った! 俊輔のエッチ!」

 「だったら自分で払え」

 「オッパイにも付いちゃったから払って」

 「自分でやれ」


 美奈子は悪戯っぽく笑った。


 「ねえ、ラクダに乗りたーい!」

 

 俺はラウダ飼いに金を渡し、ラクダを座らせると美奈子をラクダの背に乗せた。

 ラクダがゆっくりと立ち上がると、美奈子は歓声をあげた。


 「うわー、凄く高い!」


 俺はラクダには乗らなかった。

 それはすでにエジプトで経験済みだったからだ。

 コイツらの手口を。


 彼らはラクダに乗る際、意外と安い金額を言う。

 そしてこう言うのだ。


 「荷物は持っていてあげましょう」


 と、親切に言ってくれる。

 そしてラクダが立ち上がり歩き出すと、ここからが彼らのビジネスが始まるのだ。

 観光客が写真を撮り終え、飽きてくる。


 「もういいから降ろしてくれ」


 奴らは知らん顔をする。

 そしてこう言うのだ。


 「降ろして欲しければ、さっきと同じ額のカネを払え」と。


 ラクダから砂まではおよそ2mはある。

 飛び降りるには少し勇気がいるし、女性ならなおさら抵抗がある。

 だが、それに腹を立ててはいけない。

 それがイスラムの常識だからだ。



   「持っている者から奪うことは悪ではない」



 と、彼らは考える。

 それもまた、旅のいい思い出にもなる。

 そしてもうひとつ、いい商売がある。

 コーラ売りだ。


 「ペプシを飲みたくはないか?」

 「いくらだ?」

 「4ドル」

 

 この金額が丁度あればそれでいい。

 だが、意外とチップ等で1ドル紙幣が少なくなっているものだ。奴らはそこに付け込んで来る。

 砂漠では激しく喉が渇く。

 ここでのペプシは最高に貴重だ。

 すると客は10ドル札を出すか、より高額な紙幣を出す。

 そしてバケツの氷でキンキンに冷えたペプシの瓶の王冠を抜き、ペプシコーラを渡してくれる。

 日本でこそ、コーラはコカ・コーラのシェアが高いが、外地では半々か、ペプシの方がシェアが高い。


 客がコーラを飲み始めたのを確認し、コーラ売りの少年はこう言う。


 「釣銭がない」と。


 客の日本人観光客はすでにペプシを飲んでしまっているから返品は出来ないし言葉も話せない。

 やむなく高いペプシを飲む羽目になるのだ。


 俺はコーラを2本買い、ラクダから降りた美奈子にコーラを渡した。


 「ありがとう、ああ、冷たくて美味しーい!

 360°、すべて砂の地平線だなんて幻想的!

 夕日が燃えるように砂漠に沈んで行くわ!」


 俺はラクダに跨る彼女を収めたスマホを美奈子へ返した。


 「うわー、『アラジンと魔法のランプ』のジャスミンみたい!」

 「カメラマンの俺の腕がいいからな?」



 水平線に夕日が沈んだ。

 俺たちは並んで砂に腰を降ろした。

 やはり少し冷えて来たので、俺は用意して来た自分のジャンパーを美奈子に着せてやった。


 「ありがとう、男の人にこんなことしてもらったの初めて」

 「ちょっと目隠しさせてもらうよ」

 「えっ、何々? 変なことしないでよ、私、そんなプレイに興味はないから」

 「心配するな。この方がこれから始まる星空のショーを見るにはいいんだ」


 俺は彼女の後ろへ回ると、バンダナで彼女を軽く目隠しした。


 「何も見えないわよ、それに音も聞こえない」

 「暗くなるまで、少し天の川の話をしよう。

 美奈子は天の川を見たことはあるのか?」

 「ないわ、日本では無理でしょう? 天の川なんて?」

 「実はそうでもない。

 標高が2,000m以上の山や、空気のきれいな山村や島、日本の沿海でも見ることが出来る」

 「そうなの? そもそも天の川なんて、存在すら信じてなかった」

 「天の川には色々な伝説や神話があるが、いちばんポピュラーなのがギリシャ神話だ。

 天の川はギリシャ語の「乳の道」、ギャラクシーと呼ばれ、英語ではMilky Wayとも呼ばれている。

 これは母性の女神、全能の神、ゼウスの妃、ヘラの逸話だが、ある日、ゼウスはアルクメネと浮気をして子供が生まれてしまう。

 その子供がヘラクレスだ。

 当然ゼウスの浮気相手の子供など、ヘラは育てたくもない。

 当然、授乳を拒んだ。

 そこでゼウスは考えた。「それならヘラを睡眠薬で眠らせて、その間にヘラクレスに乳を飲ませてやればいいじゃねえか」と。

 ヘラクレスがヘラのオッパイを飲んでいると、ヘラが目を覚ましてしまい、ヘラクレスを払い除けてしまうが母乳は止まらずに天空に流れてしまい、それが天の川になったという神話だ」

 「なんだかすごい話ね? つまり天の川って継母だったヘラの母乳で出来た「ミルクの川」だったのね?」

 「まあそういうことだ。

 天の川が日本で一番良く見えるのは、丁度、夏の時期だ。

 ほら、夏の大三角形って中学の時に習っただろう?

 白鳥座のデネブと鷲座のアルタイル、そして琴座のベガを結んだ大三角形がそれだ。

 それが天の川に架かる。

 七夕の彦星が鷲座のアルタイルで、織姫が琴座のベガだ。

 天の川を挟んで1年に一度のふたりの恋が叶う」

 「ロマンチストなのね? 俊輔は」

 

 めずらしく美奈子はしんみりとしていた。

 今夜の月は三日月で、辺りはすっかり闇夜に包まれ、空にはたくさんの星が輝き始めた。

 準備は整った。


 「そろそろいいだろう、じゃあ目隠しを外すぞ。

 少しの間、そのまま目を閉じているんだ。

 暗闇に目が慣れるまで。

 そうだ、そして5つ数えろ。

 ごーお、よーん、さーん、にーい、いち!

 よし、ゆっくりと目を開けていいぞ。

 ほら、見てみろ、星空のカーニバルを!」


 彼女の瞳から大粒の涙が次々と零れ落ちた。

 またひとつ、そしてまたひとつと、涙が頬を伝って落ちてゆく。


 「きれ、い・・・。 天の川が、天の川が見える・・・。

 星に手が届きそうなくらい・・・」


 美奈子はそのまま俺に抱き付き、嗚咽した。

 

 「なんで? どうしてこんなことするの?

 本当に好きになっちゃうじゃない! 俊輔のことが・・・。俊輔のバカ!」



 俺はジャケットを脱いで砂の上に敷き、そこに彼女を寝かせた。


 「ほら、こうするともっと良く星が見えるだろう?」

 

 すると美奈子は狂ったように激しい口づけを俺にして来た。

 そして俺もそれに応じた。


 星が降り注ぐサハラ砂漠で、俺たちは一生に一度切りの織姫と彦星になった。

 満天の夜が、遂に真実の愛を暴いてしまった。


 宛のない俺たちの恋が、サハラの夜空を彷徨っていた。




第8話

 砂漠での余韻を残したまま、俺たちはホテルの近くにある中華レストランで食事をしていた。

 海外で食べる中華料理は日本で食べるそれとは違い、青椒肉絲や酢豚などは殆どなく、牛肉の炒め物と揚げ餃子、それから肉団子の入った春雨スープがテーブルに並んた。


 「中華なのにご飯もないのね?」

 「アフリカではコメに砂糖をかけて食べるからな?

 主食というより野菜なんだよ」


 俺はマテウスのロゼワインを美奈子のグラスに注いだ。


 「ありがとう。マテウスってポルトガルのワインだよね?」

 「ああ、マテウスはテーブルワインだが、このロゼはどんな料理にも合う。

 肉でも魚でもな?」

 「きれいなピンク色ね? 恋の色みたい」

 「恋に色なんてあるのか?」

 「だってよく言うでしょ? 恋はバラ色だって?」

 「ポールモーリアは『恋はみすいろ』だって言っているけどな?」

 「あれは悲しい恋だからでしょう?

 本当にしあわせな恋の色はバラ色なのよ」

 「バラ色の恋か?」


 俺はグラスのワインを空けた。


 「明日で最後ね? 私たちの恋人ごっこも」

 「明日は休みだから、美奈子の行きたいところに連れて行ってやるよ」

 「うん・・・」

 

 美奈子もグラスを空けた。


 「ホテルのBARで飲み直したい」

 「もう食べなくていいのか?」

 「うん、もうお腹いっぱい」


 


 ホテルのBARの今日の音楽は、黒人ギタリストの弾くボサノヴァだった。

 サンタナの『哀愁のヨーロッパ』のアレンジだった。

 俺は両切りタバコにオイルライターで火を点けた。

 前髪を掻き上げ、ワイルドターキーのロックを飲んだ。


 「タバコ、私にも頂戴」


 俺は美奈子の前にタバコを置いた。

 彼女が咥えたタバコにライターで火を点けてやった。

 彼女はやや控えめに煙を吐いた。


 「私もタバコ、吸うのよ。寂しい時だけ」

 「寂しいのか?」

 「寂しいわよ、とっても」

 

 美奈子はしなやかな指にタバコを挟んで、シンガポールスリングを口にした。


 「彼女さんと結婚するの?」

 「そのつもりだ。永く待たせたからな?

 それに今度の日本への航海を最後に、俺は船乗りを辞めるつもりだ」

 「お船の仕事、辞めちゃうの?」

 「ああ」

 「彼女さんの名前、訊いてもいい?」

 「真由美だ」

 「真由美さんはその方がしあわせでしょうね?」

 「どうかな?」

 「でも私はイヤだなあ。俊輔が船乗りを辞めちゃうのは。

 私ならそんなあなたを子供と一緒にずっとお家で待っていたい。

 そして会えなかった分、たくさんあなたに甘えるの。

 寝る前にはね、いつも世界中の話を訊くの。「それでそれで?」って子供みたいに」


 俺は酒を呷った。


 「1年も会えないんだぞ、それでもいいのか?

 こうして女と酒を飲んでいるかもしれないのに」

 「その人を愛していなければ許してあげる」

 「もし、愛していたら?」

 「それはイヤ・・・」

 

 俺は美奈子の前にドライフルーツの白イチジクを置いた。

 

 「白イチジクだ、旨いぞ」


 美奈子はそれをひとつ口に入れると、私に垂れかかって泣いた。



 「眠くなっちゃった。今夜も私に添い寝してね?」


 私はイエスの代わりに、美奈子の髪をやさしく撫でた。




 俺たちは一緒にシャワーを浴び、裸のままベッドに入った。

 キスはしたが、それ以上はしなかった。


 「ねえ? どこからが浮気なの?」

 「男の場合は「いい女だなあ」と思ったらそれが浮気だ」

 「私のこと、いい女だと思う?」

 

 俺は美奈子を強く抱きしめ、耳元で囁いた。

 

 「すごく思う」

 「私ね、初めてあなたをお花屋さんで見かけた時からそう思ってた。

 「ああ、この人に抱かれてみたい」って」

 「俺も思ったよ、「この女とやりてえなあ」って」

 「じゃあしてよ、私も真由美さんみたいにこれで愛して欲しい」


 美奈子は硬くなった俺のペニスを指でなぞった。

 俺の性欲を弄ぶことで、自分を納得させるつもりなのだろう。


 「美奈子はどう思う? 女からすればどこからが浮気なんだ?」

 「食事かな? 食事にふたりだけで行ったら浮気」

 「どうして?」

 「だって食事をするのってエロチックでしょう?

 お互いに口の中を見せるのよ? そして口に物を入れるじゃない?

 それってSEXしているのと同じよ。

 それが証拠に皇族が食事をするところは写さないでしょう?

 それは口に物を入れる行為が卑猥だから」

 「お互いに触れなくてもか?」

 「そう、だから手を繋いでも浮気じゃないの。

 私の浮気の基準はふたりだけのお食事。

 そしてそれをパートナーに黙っていたら即アウト」

 「じゃあもう俺たち、アウトだな?」

 「俺たちじゃないわ。だって私はフリーだもの。

 浮気しているのはあなただけ・・・」

 「俺は浮気をしているということか?

 俺は真由美を裏切っているんだろうな?」

 「でもね? 真由美さんを裏切らないと私が惨めな女になる。 

 あなたならこんな時、どうする?

 永く付き合った恋人と、3日間だけの行きずりの寂しい女。

 どちらを選ぶ?」

 「俺はどちらも選べない。お前に惚れたから」

 「だったら私を抱きなさいよ。真由美さんには黙っていればいい。

 普通ならそうじゃない?」

 「俺は普通じゃないからな?」

 「私はあなたを愛してしまった。もう誰にも渡したくない。

 だって今は私の、私だけの物だから」

 

 美奈子が俺にキスをした。


 「愛してるって言って、私を好きだと言って」

 「愛してるよ、好きだ」

 「どのくらい?」

 「このくらい」


 私はキスをしながら、美奈子の胸を強く揉んだ。


 「あんっ。私はこれくらい好き・・・」

 

 すると美奈子は顔を俺の下半身に移動させ、俺のそれを口に含んだ。

 やがてそれを一旦中断すると私の上に跨り、私を上から見詰めてこう言った。


 「いい方法があるわ。真由美さんも傷付けず、私も満足出来る方法が。

 それはね? これからすることは私の意志ですることで、俊輔の意志ですることじゃないと思う事。

 そう、これはただの夢の中の出来事なのよ。

 ねっ? いいアイデアでしょう?」

 「俺はもう真由美に知られても構わないよ。

 もちろんそれを言うつもりはない。なぜならこれは浮気じゃなく、本気だからだ。 

 真由美を悲しませる罪を背負ってもいい。

 俺はお前が好きだ」

 「もう二度と会えないのよ? 三日間限定の恋だから。

 本気になってどうするのよ?」

 「3日間の限定でも、「恋愛ごっこ」でもいい。

 俺は美奈子にカサブランカで出会い、お前に恋をした。

 それでも俺は本気でお前を愛すると決めたんだ。

 明日、地球が滅びる可能性はゼロではない。

 だから俺は後悔したくないんだ。

 たとえ出会ったばかりでその恋が終わろうとも、俺は美奈子を精一杯愛したい」

 「俊輔・・・」


 俺は夢中だった。

 明日、地球にデカイ隕石が衝突しようと、俺は本気で美奈子を愛する。

 そして美奈子もそれに歓喜し、別れの時が近づくことに涙を流した。



 俺たちは明け方まで激しく愛し合い、そして昼過ぎまで眠った。

 目を覚ますと裸のまま、美奈子がタバコを吸っていた。


 「おはよう俊輔。満足したSEXの後のタバコって、どうしてこんなに美味しいのかしら?」

 

 彼女の白い肌に、窓からの白い日差しが降り注いでいた。


 明日で終わる、俺と美奈子のアバンチュール。

 その終わりが始まろうとしていた。




第9話

 午前中の仕事を終え、俺は美奈子と遅めの昼食を摂り、ハッサン2世モスクへとやって来た。

 貧しい国ではイスラム教が普及し易い。ゆえにアフリカの殆どの国はイスラム化している。

 俺はイスラム教の教義をよくは知らないが、貧しい人々の希望の宗教なのかもしれない。


 「あの高い塔は何?」

 「あれはミナレットと言って、モスクには必ずあるが、ここのミナレットは世界一の大きさだといわれている」

 「あそこに鐘とかがあるの?」

 「鐘は無いと思うが、夜になるとメッカの方向に一筋の光が照射される。

 メッカに近い港がRed sea(紅海)にあるサウジアラビアのジェッダ港だ。

 俺が冷凍貨物船に乗船していた時、アフリカからバナナやパイナップルを運んでジェッダに行ったことがあるが、ムスリム(イスラーム教徒)の巡礼船や羊やラクダなどを積んだ家畜船が毎日のように入港して来た。

 ラクダ商に「一頭いくらだ?」って聞いたら、70ドルだと言われたよ」

 「ラクダって1万円くらいで買えるの?

 一頭買おうかなあ? ラクダの目ってかわいいじゃない? 睫毛が長くて」

 「日本に連れて帰るとなると、ベンツ1台分くらいの輸送費がかかるだろうな?」

 「それならベンツの方がいいわね? うふっ」


 美奈子は悪戯っぽく笑って見せた。


 「イスラム教では日の出前、昼前、午後、そして日没前と夜に一日5回の礼拝義務がある。

 そして金曜日にはモスクへ礼拝にやって来るんだ。

 キリスト教では日曜日が安息日で教会へ礼拝に行くが、アメリカ大統領ですら祈りを捧げる。

 それに比べると日本人には宗教心が少ない。

 子供が生まれたら神社でお宮参りをする。七五三もそうだ。

 結婚式では教会で挙式し、そして最後に死ぬ時は仏教で戒名をもらい、鬼籍に入る。

 こんな国は世界中どこにもない。

 キリスト教でもないのにやれバレンタインだ、イースターだ、クリスマスだ、ハロウィーンだと騒ぎ、浮かれ、困ったことやお願い事があると神社へ行き、小銭を投げて「大学に合格出来ますように」とか「どうか病気を治して下さい」とか、挙句の果てには「素敵な彼と結婚出来ますように」と平気でお願いをする。

 だが、殆どの国では一つの神様を敬う。

 イスラム教ではアラーが唯一の神であり、他教の神は絶対に認めないし偶像崇拝も否定する。

 だから歴史的仏教寺院も平気で破壊してしまうのさ。

 礼拝の時刻になると、あのミナレットからコーランが流れ、礼拝が始まるんだ」

 「カサブランカで流れるあのお経みたいなのがコーランなのね?」

 「そうだ。コーランはムハンマド、日本ではマホメットか? ムハンマドが天使から伝えられた預言を口述筆記した物だ。

 コーランはアラビア語で書かれており、その文字の美しさはユダヤ教のトーラー(経典)のように美しい文字で書かれている。

 余談だが、あのアップルの創業者、スティーブ・ジョブズはシリア系アラブ人の血を引いていて、日本の書道にも興味を持ったのは、コーランの影響があったからだと言われている。

 コーランは文字も美しいが、その韻を踏んだ読誦性からアラビア語以外の翻訳は出来ないと言われている」

 「豚肉とかお酒もダメなんでしょう?

 私には無理だなあ。どっちも大好きだもん」

 「諸説あるが、当時、アラビア半島では豚肉は疫病の原因だったり、酒はキリスト教徒が持ち込んで、飲酒によるトラブルが多かったからだという説もある。

 それより、ラマダーンの1か月間は辛いだろうな?」

 「何それ?」

 「断食だ。日の出から日没まで飲食が禁じられるんだ。

 そして」

 「そして何?」

 「禁欲。SEXも禁止だ」

 「えーっ! やっぱりイスラム教はイヤ!」

 「酒も女もダメなら生きている意味がねえよな? あはははは」

 「いっぱい食べて、いっぱい飲んで、いっぱいエッチしたーい!」

 「みやげとか買うなら、これからハッブースに行くか?」

 「友だちと両親に何か買って行こうかな?

 カサブランカのおみやげって何があるの?」

 「色々あるが、モロッコ革は有名だ。

 なめし技術に優れている。

 革ジャンとか、結構いい物がある。

 元々は蔵書の製本用の革としてモロッコ革が使われていた。

 でも、服だとサイズがなー。

 アイツら手足が長いから、日本人には合わないんだよ。

 袖が長いんだ。

 俺なんか手がひとつ分も長かった」

 「じゃあ私も無理かも」

 「美奈子は八頭身美人だから、もしかすると大丈夫かもしれないな?」

 「じゃあそこに連れてって」

 「わかった。じゃあハッブースに行こう」




 ハッブースにやって来た。


 「わあ、凄くおしゃれな街並みね? フランスみたい」

 「フランスに占領されていた時に作られた街だからな?

 色々見てみるといい」

 「うん。見ているだけで楽しいわあ」

 「これは銅製の皿に着色したものだ。

 日本の七宝焼みたいな物だな?」

 「ひとつ買おうかな? 思い出に。

 これがいい。これいくら?」

 

 俺は店主と交渉した。

 

 「いくらだ? 米ドルで払う」

 「いいとも。20ドルだ」

 

 相変わらずだった。

 

 「10ドル」

 「15ドル」

 「ダメだ10ドル」

 「旦那、そりゃないぜ」

 「じゃあ12ドルでどうだ?」

 

 少し考えたフリをして、店主はニヤリと笑った。

 

 「OK、12ドルだ」


 本当は8ドルでも売るだろうが、チップ代わりにそれで手を打った。

 イスラム圏で何かを買う時の交渉のセオリーは、相手の言った額の半額からスタートするのが決まりだ。

 大阪人の商売もイスラムと似ているのかもしれない。

 

 「いくらだって?」

 「12ドルだそうだ」

 「意外と安いのね?」

 「ネゴシエーターがいいからな?

 最初は20ドルだと吹っ掛けられたよ」

 「ありがとう、俊輔」


 美奈子は財布からカネを出そうとしたが俺はそれを制した。


 「プレゼントするよ。記念に」

 「いいの? うれしい! ありがとう!

 大切にするね?」

 「次は革ジャンを見に行こう」

 「うん、楽しみだなあ」

 


 革製品の専門店に入ると、革のいい香りがした。


 「日本の3分の1くらいの金額かしら? すごくお洒落で革の質もいいわ」

 「フランスに占領されていたからかもな?

 気に入った物があれば、試着してみるといい」

 「これなんかどうかしら?」

 

 店員に訊ねた。


 「試着してもいいか?」

 「もちろんです」


 黒い革ジャンに美奈子が袖を通した。

 

 「丁度いいみたい」

 「じゃあそれでいいか?」

 「いくらかしら? かなりするんじゃないの? これ?」

 「いいよ、俺が美奈子にプレゼントしてやるよ」

 「ダメよ、そんなの。

 彼女でもないのに・・・」


 美奈子は「彼女でもないのに」を弱々しく言った。


 「カサブランカでは恋人だったハズだぞ。うまく値切るから心配するな」

 「いいよ、自分で買うから」

 「失業中だろ?

 それにこれなら一生着られる。

 だから俺に買わせてくれ。

 俺がこの革ジャンになって、ずっと美奈子を抱いていたいから」

 「ヘンな人。うれしいけど・・・」


 美奈子はその革ジャンの入った袋を大事に抱きしめて歩いていた。



 買物が終わって、俺は美奈子をある場所に誘った。


 「もう1件、付き合ってくれないか?

 お前にプレゼントしたい物がふたつあるんだ。

 それを買ってあげるよ」

 「私もあなたにプレゼントしたい物があるんだけど」

 「いいよ、美奈子の履いたパンツで。

 頭に被って寝るから」

 「そんなのいくらでもあげるわよ。

 万年筆。お仕事でも使えるでしょう?

 真由美さんにもバレないし」

 「ありがとう。じゃあ、安いのでいいよ」

 「そんなに高いのは買えないから大丈夫」


 俺たちはまるで長年付き合った恋人同士のように、 手を繋いでとある店へと向かった。


 

 「きれいな石がたくさんある!」

 「これを見てごらん」

 「お花みたいな石ね?」

 「Desert Roseと言って、砂漠に出来る薔薇の形をした砂の結晶だ。

 薔薇の花みたいだろう?

 あのサハラ砂漠で出来る、めずらしい砂の結晶なんだ。

 そしてもうひとつ。

 これを君にプレゼントするよ」

 「綺麗な石。まるでお月様の石みたい」

 「これは Moon stone といって、月明かりのような神秘的に光る石だ。

 これは美奈子のお守りとして取って置いてくれ。

 このふたつをお前にプレゼントするよ」

 「ありがとう。すごくうれしい!

 これも一生大切にするね?」

 「俺はもう、美奈子を守ってやれないからな?

 だけどこの石が俺に代わって美奈子を守ってくれる筈だ。

 そしてこの「砂漠の薔薇」は美奈子だ。

 どんなに厳しい砂漠でも、輝き続けるこの薔薇のように、いつまでも可憐に咲いていて欲しい」

 「そうやって真由美さんも口説いたの?」

 「さあな?」

 

 俺は横顔で微笑んだ。


 「じゃあ次は私の番ね?

 今度は私ひとりで買ってくるね?」

 「大丈夫か?」

 「大丈夫、大丈夫」

 「じゃあ店の前で待ってるよ。

 何かあったらいつでも呼んでくれ」

 「じゃあ行ってくるね?」

 「悪いな? 俺の為に」

 「ううん、ガイド料の代わりよ」



 店の外から見ていると、身振り手振りで一生懸命店員と交渉している美奈子がいた。

 俺は胸が熱くなった。

 俺の万年筆を買うために、必死に店員と交渉している美奈子が愛おしかった。

 別れの時が刻々と近づいていた。


 カサブランカの街が、夕日を浴びて黄金に染まっていった。




第10話

 「ハイこれ。私からのプレゼント!」

 

 美奈子は弾むような声で、俺に小さな箱を渡した。


 「開けてもいいか?」

 「開けて開けて! 気に入ってくれるといいんだけど」


 俺はラッピングを丁寧にほどいた。

 なぜならそれは、美奈子が特別に依頼してくれたプレゼント仕様だったからだ。

 普通はラッピングなど、外地では日本のようにしてはくれない。

 俺はリボンと包装紙をポケットに畳んで仕舞った。

 それはモンブランの高級万年筆だった。


 「ありがとう。美奈子だと思って一生大切にするよ」


 俺はそのモンブランの万年筆を胸ポケットに差した。


 「ホテルに帰る前に、君と行きたい店があるんだ。

 そこで一杯、飲んでいかないか?

 美奈子に見せたい物があるんだ」

 「それじゃ一杯じゃなくて#いっぱい__・__#飲んじゃおうかなあ?」

 「いいよ、君は好きなだけ飲めばいい。

 君には俺というボディーガードがついているからな?」

 「うん、頼もしいボディーガードさんがね?」




 店の前までやって来た。

 

 「ここのお店って・・・」

 「そうだ、『Rick`s Cafe』 君の好きな映画、『カサブランカ』のリックの店を忠実に再現したカフェだ。 

 最後の夜は君とここで過ごしたかった」

 「あなたがハンフリー・ボガードで私がイングリッド・バーグマン?」

 「そんなカンジだ」

 「あなたって、女を喜ばせるために生まれて来た、罪な船乗りさんね?

 神様は残酷よ、別れるために私たちを引き会わせるなんて・・・。

 もっと早く、日本で会いたかった・・・」

 「さあ、最後の夜を楽しもうじゃないか?」



 俺たちは店内に入り、俺はギムレットを、そして美奈子はミネラルウォーターを注文した。


 「飲まないのか?」

 「折角の最後の夜を、忘れたくないから」


 俺はボーイからメモ用紙を貰った。


 「いい書き味だ。

 航海日誌や書類にサインする時に使わせてもらうよ。

 ありがとう」

 「よかった。喜んでくれて」

 「大切にするよ」

 「私も大切にするね? あなたから貰ったプレゼントと、そしてカサブランカでの俊輔との素敵な思い出を」


 美奈子はムーンストーンを取り出し、それを掌に置いて見詰めた。

 

 「本当に綺麗。私のことを俊輔に代わって守って下さいね」

 

 美奈子は石に願いを込めてそれを握った。

 俺も心の中で彼女と一緒にそれを祈った。



 「映画の最後でルノー所長がヴィシー水のボトルをゴミ箱に投げ捨てるシーンがあるだろう?

 当時、フランス本国がドイツの侵略政策に加担する目的で樹立したのが、もうひとつのフランス政府、ヴィシー政府だった。

 ドイツに忖度した政府だ。 

 だからルノーはその名の付いた水のボトルをゴミ箱に捨てた。

 ルノーはそんなフランスの傀儡政権を憎んでいたんだろうな?」

 「それがこの『Vichy Water』 なのね?」

 「パリで別れたふたりがこの店で偶然再会するが、ボギーはまだバーグマンがこの店に来ていることを知らない。

 バーグマンはピアニストに『As time goes by(時の過ぎ行くままに)』を弾くようにリクエストをする。

 最初はピアノ演奏だけのインストルメンタルだったが、彼女は言う、「歌って」と。

 それを聴いたボギーはピアニストに言うんだ、「その曲は弾くなと言ったはずだ!」と激怒し、ピアニストはその場を去り、バーグマンとボギーは再会を果たす。

 その曲はパリで幸せだったふたりの思い出の曲だった。

 グッとくる場面だったよな?」

 「バーグマンはその時すでに人妻。

 元には戻れない切なさが、バーグマンの無言の表情に泣けたわ」

 「俺も何度も観たよ。でも何度観ても飽きない。

 夫とバーグマンを逃がしてやる霧の空港で、ここにボギーと一緒に残りたいというバーグマン。

 それを拒絶するボギー。

 「あなたはどうするつもりなの?」とバーグマンは言う。

 するとボギーは言う。「俺には君とのしあわせだったパリでの思い出がある」と、涙を浮かべるバーグマンに向かい、あの有名なセリフを言うんだ。



    「Here's looking at you, kid.(君の瞳に乾杯)」



 あれはボギー以外には言えないセリフだ」

 「俊輔も言って。

 今、私の瞳にも涙がいっぱいだから・・・。

 私の瞳にも乾杯して・・・」


 俺はそれを言う代わりに、さっき書いたメモを美奈子に渡した。



     Here's looking at you, and me.






 最後の夜、俺と美奈子はお互いの体と心に、沢山の思い出を刻み付けた。



 夜が明け、長いキスの後、俺は彼女に言った。


 「今日は仕事があるから、君を港に送ることは出来ないが、気を付けてな?

 とてもいいカサブランカだった。

 ハンフリー・ボガードの気分にさせてくれて、本当にありがとう」

 「それは私のセリフよ。

 あなたのことは一生忘れないわ。

 これはふたりだけの秘密。

 真由美さんとしあわせになってね?」


 彼女は素肌に俺がプレゼントした、革のジャケットを羽織ってみせた。

 俺は美奈子を強く抱き締めた。

 

 「もっと強く、もっと強く抱いて。

 素敵なあなたとの思い出が逃げていかないように・・・」




 

 船で荷役当直をしていると、チョフサー(一等航海士)がやって来た。


 「いい天気だなー?」

 「はい、突き抜けるような青空ですね?」

 「すまんが、タバコを買って来てくれんか?」

 「えっ?」

 「キャメルだぞ」

 「わかりました。ワッチ(当直)が終わったら行ってきます」

 「今だよ今。今すぐ行って来い。あとは俺がやっておくから。

 彼女を見送りに行ってやれ」

 「・・・。 ありがとうございます!」



 俺は急いでキャビンに戻り、トランペットのケースを抱えて客船ターミナルへと向かった。





 美奈子の乗った船はまだ出港してはいなかった。

 美奈子がデッキに出ているのを見つけた。

 彼女も俺にすぐに気付き、腕がちぎれてしまいそうなほど手を振り、泣きながら私の名を叫び続けた。

 私はハードケースからトランペットを取り出し、『As time goes by』を演奏した。



 係留索が解かれ、船は出港の霧笛を鳴らした。

 美奈子は手を振り続け、私は船が見えなくなるまで演奏を続けた。

 

 船の別れほど残酷な別れはない。

 それはゆっくりと去っていくからだ。

 空も海も、鮮やか過ぎるほどにブルーかった。

 コバルトの海とラピスラズリの空。


 それが涙で歪んだ。


 俺と美奈子のたった三日間の映画、『カサブランカ』が今、幕を閉じた。




最終話

 あれから半年が過ぎた。

 俺は日本に帰国して航海士を辞め、東京の丸の内本社で陸上勤務をしていた。


 退社時刻になり、俺はオフィスを出た。

 東京駅に向かって歩き始め、横断歩道で信号待ちをしていると、俺はそこで幻を見た。

 向こう側で手を振り、微笑む美奈子が立っていた。


 信号が青に変わり、俺たちは走り出し、横断歩道の真ん中で強く抱き合った。

 それを好奇の目で見ている会社帰りのサラリーマンやOLたちがいた。

 だが俺たちにはそんなことは全く気にならなかった。



 「ねえ、私を俊輔のお嫁さんにして!」

 「これは夢じゃないよな?」

 「どうしても俊輔に会いたかったの。

 あれからあなたのことばかり考えて、頭がおかしくなりそうだった。

 だからあなたの乗っていた船を所有している会社を調べて、ずっとあなたに会えるのを待っていたの。

 そして今日、やっとあなたに会えた」

 

 やはり愛とは「惜しみなく奪うもの」なのだろう。

 たとえそれが多くの人を悲しませ、苦しませることになろうとも。

 俺は重い十字架を背負う覚悟を決めた。


 一度切りの人生を、後悔しないために。



 信号が点滅し始めた。

 俺と美奈子は運命の河を渡り、二度とは戻れない、茨の道を歩き始めた。


 共に手を携えて。


               『アバンチュール』完




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【完結】アヴァンチュール(作品231019) 菊池昭仁 @landfall0810

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