第17話 二つのいいこと

 どうやら美来には美来の事情があるようだ。

 そもそもそれがなかったら、こんなところに転がり込んだりはしないだろう。

 ほとんど見ず知らずの冴えない独身男の元になどは。


「なあ美来、そういうことなら、しばらくここにいてもらっていいよ、けど二つだけ訊いていいか?」


「なに?」


 美来の表情は不安げだ。

 自分が話をしたことに対して俺がどんな言葉を投げ掛けるのか、身構えているかのようだ。


「学校で何を勉強をしてるんだ?」


「デザイン学科にいるの。昔から洋服が好きだから、そんな仕事がしたいなって」


「へええ。それ、デザイナーになりたいとか?」


「それもあるけど、そっちの業界で仕事ができるだけでもいいかなって。イベントを企画したり、売り場に立ったりとか」


「そっか。それは素敵だな」


 自分の好きな話題になったからだろうか、美来の表情に明るさが戻った。

 それを見て、こっちもほっと心を落ち着ける。


「あとさあ、もし俺がやばい奴だったらどうしたんだよ? 信用してくれたのは嬉しいけど、いきなり家に上がりこんだりとか、無防備過ぎるだろ?」


 この先のことも心配なので真面目に質問をしたつもりだったけれど、美来は可笑しそうに頬を緩めた。


「あはは。だって、実際になにもなかったじゃない?」


「だから、もし俺がそういう気になったらっていう怖さとかは無かったのか?」


「……分からない。けど小暮さんは、私を止めてくれた人だったから……」


「止めた?」


 今までの美来とのことをさっと振り返ってみても、何をどうしたか、とくに思い当たるようなことはなくて。

 中空に目を泳がせる俺を、美来はじっと見つめながら、言葉を続ける。


「うまく言えないんだけど、最初に小暮さんと喋った時にね、小暮さんに言われたような気がしたの。『そんなこと止めとけ』って。その後たくさんの男の人に声を掛けられたけど、同じような感じのする人はいなかったし、みんな物を見るような感じで私のことを見てた。当たり前だよね、私の体が商品みたいなものなんだから」


 ……どうだろうか?

 あの時の俺は取材中で、そのことが目的ではなかったし。

 そもそも仕事に夢中で、余計なことを考える余裕もなかった。

 けど、この子にそんなことはして欲しくないなとは、心のどこかで願っていたようには思う。


「でも、小暮さんだけは違っていて、私のことを真っすぐに見てくれている気がしたの。だからその後は結局、誘いは全部断ってしまったし。初めてはやっぱり、そんな人と一緒がいいなって思ったりしたんだよ。だからもし小暮さんがその気になっていても、私はそれでも良かったんだけどな」


 ―― うまく言葉が出てこない、何を言ってるんだよ……?

 大人気なくも、心拍数がどんと跳ね上がっている。

 こんなに綺麗な子と二人きりの部屋で、潤んだような黒目でじっと見つめられて、そうなってもよかったっていう話をされているんだ。

 動揺しない方がおかしいじゃないか。


 そんな俺のことを、美来は可笑しそうに、相変わらずその澄んだ目に映している。

 見返すと、なんだかそこに吸い込まれてしまいそうだ。


「えっと、とにかくだ、何かあったら俺に相談しろ。あの場所に行くのは、もう無しだからな?」


「……はい」


 照れくさいし、綺麗な言葉なんか持ち合わせていないけれど、どうにか言いたい事はひねり出した。

 そんな俺に美来は、神妙に目を伏せながら、素直に頷いてくれたんだ。


「ちなみに私と一緒にいると、いいことが二つあります」


「ほお、なんだそれは?」


「昔から自炊をしているので、お料理はそこそこ得意です。なので、美味しいご飯が食べられます」


「うん、それはとってもありがたいな」


 今まで美来が作ってくれた飯は、本当に美味かった。

 ずっと独り身の身分としては、食事は外で済ませたり、買ってくる方が便利だ。

 けど時にそれは味気なくて、いつも通っているスーパーやコンビニの味にも飽きてしまう。

 なので、食事が充実するのはとても嬉しい。


「けど、そんなに気は使うなよ? そんなつもりでここにいてもらう訳じゃないし、お前は学生なんだから、勉強の方が大事だ」


「ありがとう。それともう一つは、私で気持ちよくなれます!」


 ……は? どういうことだ?

 それ、甘くて淫靡な大人の情景が浮かんできてしまうのだけど。

 顔を熱くして視点が定まらない俺を、美来は視線を投げてくすぐってくる。


「あ、もしかして、変なこと想像した?」


「いや、別に、そんなのは……」


「私は別にそれでもいいけど。でも言いたかったのは、マッサージだよ」


「へ? マッサージ……?」


「うん。昔からお母さんやお姉ちゃんにやってあげてたから、結構上手だと思うよ。なんなら試しにやってみる?」


 なんだ、そっちの話か……

 正直、びっくりした。

 ほっと息を吐きながら、にやにやと笑みを向ける美来に、少々腹立たしさを覚える。

 もしかして俺、からかわれた?


「お前、その言い方…… えと、今日はいいや。お前も病み上がりだろうから、また別の日に」


「うん、分かった。いつでも言ってね!」


 美来が今後変な風にならないように話をするつもりが、最後は逆に主導権を握られてしまった気がしてしまう。

 まあでも、美来にお願いできるところは、そうしようかな。

 きっとその方が、彼女もここにいやすいのではないだろうか、そんな気がしたんだ。


 けれど俺の中では、別の疑問が頭をもたげていた。

 お母さんやお姉ちゃんにマッサージをしていた、これって仲のいい家族の日常に思える。

 けど、そんな家族には頼れない?

 

 彼女たちに何があったのかは分からないけれど、でも今は、頬を少し紅くして缶を口にしながら笑う美来を、そっとしておきたいと思った。

 話したくなったら、きっとまた話してくれるだろう。


 何だかんだで彼女は、缶を丸ごと空けてしまいそうな感じだ。

 頬を朱に染めながら、屈託なく笑顔を繰り出してくる。


「お風呂にお湯を張ろうか? 漬かると気持ちがいいよ?」


「ああ、そうしてもらおうかな」


 美来が風呂場に向かって少し経ってから、軽やかな電子音とともに、「お風呂が沸きました」と、機械的な声が部屋に流れた。


「湧いたよ、小暮さん」


「よかったら先に入れよ。今日は荷物を持ってきたり、夕飯の準備をしたりで疲れただろ。飯は美味かったよ。ありがとう」


「ん。じゃあ先に入らせてもらうね」


 部屋の脇に置いてある鞄から着替えを引っ張り出して、美来は風呂場へと向かう。


「小暮さん、後から入ってきてもいいよ?」


「……お前、大人をからかうんじゃない」


「一応私だって、もう大人なんですけど! 一緒に来てくれたら、背中も流せるよ?」


 年齢的には、確かにそうなんだけれどもな。

 けどそれだって、一緒に風呂に入るなんて、倫理的にもまずいだろう?

 だって俺たちは、普通の同居人に過ぎないのだから。


「いいから、黙って入れって!」


「はあ~い。じゃあまた今度ね!」


 怪しげな視線を送ってくる美来からは目を逸らして、皿を持ってキッチンに移動して、スポンジと洗剤を手にしたのだった。

 自分の中で高ぶりつつあった熱いものを、静かにさせるために。



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