第16話 ここにいる理由

 デスクの上をさっと片付けて、パソコンやら直近の仕事の資料やらを鞄に詰めると、俺は足早に社屋を後にした。


 美来はどうしているだろうか、また熱が出てへたってなければいいな。

 そんなことをずっと思いながら、いつもよりは速足で真っすぐ家に向かった。


 普段よりも遠く感じる道程をきりきりと進んで、やっと見慣れた安アパートが見えてくる。


 部屋のドアの前で、インターホンのボタンを押した。

 自分の部屋に入るのにインターホン、初めての経験だ。


 「はあい」と返事が聞こえて、中からドアが開いた。

 そこには色白小顔の美来がいて、俺をお迎えしてくれる。


「おかえりなさい」


「ただいま。今日は大丈夫だったか?」


「うん、もう平気だよ」


 無事な姿を目にして、ひとまずほっとする。

 見慣れた部屋の中に入り鞄を床に置くと、何やら甘辛くて食慾をそそるような香りが鼻をくすぐった。


「お疲れ様。お風呂先にする? それともご飯?」


「え? ご飯?」


 キッチンの方に目をやると、フライパンや鍋がコンロの上に乗っていて、微かに湯気が立っている。

 先ほどからの鼻をくすぐる匂いは、そこから流れてくるものだった。


「もしかして、何か作ってくれたのか?」


「うん。近所のスーパーで安かったものを探して。ハンバーグとお味噌汁と、おひたしを作ったの」


 帰ってから美来が食べられそうなものを訊いて、自分が用意するつもりだったのだけれど、彼女の方が先に準備をしていてくれたようだ。


「お前、まだ病み上がりだろ? 無茶はよくないぞ?」


 無理をしないか心配もあったので、たしなめるように言葉を伝えると、


「大丈夫。もう熱も下がったし、結構元気だよ。明日からは学校にも行こうかと思うし」


 確かに、もう普通っぽく動けていそうだ。

 頬にもほんのりと赤みがさしているので、彼女の言葉に嘘はなさそうだ。

 思ったよりも早い回復にほっとしながら、


「そうか。ならいいけど」


「どうする? ご飯? お風呂? なんなら一緒に入る?」


 ……風呂? 一緒に入る?

 そんな男心をくすぐる気の利いた冗談が言えるのなら、本当に大丈夫そうだ。


「馬鹿言ってんじゃない。せっかくだから、先に飯にしようかな」


「りょーかい!」


 俺が応えると、美来はいそいそと動きだして、リビングのテーブルの上にはあっという間に皿やお椀が並んだ。

 チーズと赤いケチャップソースが乗ったハンバーグに、深緑色のほうれん草のおひたし、それにわかめや豆腐が浮いたお味噌汁と白ご飯だ。


「お酒どうする?」


「ああ、飲もうかな」


 冷蔵庫から戻って来た美来の両手に、缶が一つずつ握られている。


「お前、病み上がりで飲んで大丈夫なのか?」


「へーき。小暮さんも一人で飲むよりは楽しいでしょ? ほんの一口だけにしとくから」


「いやべつに、俺は一人でも……」


 だって、いつもは一人で飲んでいたのだし。

 軽くそういなすと、美来が軽くふくれっ面になる。


「もう。つれないんだから」


「……じゃあ、頂こうかな」


 ふっと魅せたアンニュイな表情に一瞬ドキリとしてから、

 ハンバーグに箸を入れて、一かけら口に入れてもぐもぐと動かすと、濃厚なチーズの旨味と甘い肉汁が染み出てきて、酸味のあるソースとの相性が抜群だ。

 たまらず白ご飯をかっこむと、米の甘みも加わって口の中がパラダイス状態だ。


「美味いな、これ」


「へへ、良かった。これでも結構お料理は得意なんだよ」


 俺が心からの言葉を口にすると、端正に整った美顔を崩して、嬉しそうに笑う美来。

 ふと部屋の隅に目を移すと、朝には無かったはずの大き目の鞄が二つ並んで置かれていた。


「なあ美来、その鞄はどうしたんだ?」


「あ、ちょっと自分の部屋に戻って、着替えとかを取って来たんだよ」


 そんな風に言われて、あらためて頭に疑問符が浮かぶ。

 自分の部屋があるのなら、なぜ今ここで俺と一緒にいるんだ?

 しかもしばらく泊めてくれって。


 よく分からないけれど、一先ず今は美来が作ってくれた晩ご飯に味覚を委ねて、ちびちびと発泡酒を口にする。

 肉の油を喉の奥へと流してくれて、また食慾を掻き立ててくれる。


 久々の三杯飯の食後に酔いしれていると、美来が食器を片付けて洗おうとするので、


「それは俺がやっとくから、お前も少しは休むんだよ」


「分かった。ありがとう」


 美来が俺の前にちょこんと座って、食後のなごやかな時間が過ぎていく。

 そんな中、彼女が静かに口を動かした。


「ねえ、どうして私がここにいたいって言ったか、気になるよね?」


「ああ、まあね」


「私もうじき、今の部屋を追い出されるの」


「は?」


 ばつが悪そうに上目使いを向けてくる彼女に向かって、思わず訊き返した。


「追い出される?」


「うん。家賃を滞納してそれでね。そんなに高いとこじゃないんだけど、それでも払えなくて」


 何か事情があるのだろうなとは思っていたけれど、そういうことだったのか。

 けどそれならそれで、別の疑問がつぎつぎと湧いてくる。


「家賃って……今まで生活はどうしてたんだ? 親からの仕送りとかはないのか?」


「親からは、大学の授業料は払うけど、後は自分で何とかしろって言われててね。貯金とバイト代で何とかしてたんだけど、ちょっと前にバイトをクビになっちゃって。食費と光熱費、通学代と教材代、それにスマホ代を払ったら、あとはほとんど残らなくて」


「……スマホ代は、しっかり払ったんだな」


「うん。だって色んな人と繋がれているのってそこだから。それが無くなったら寂しいじゃない?」


 確かに、それは言い得ているかもしれない。

 スマホがもしいきなり無くなったら、なにもできずに途方に暮れてしまうだろうしな。


「まあそれは分からなくはないけどさ。親にもう一度頼めないのか?」


 そう申し送ると、美来はきゅっと唇を噛んで、表情を暗くした。


「うん。できないし、頼みたくない」


 何かを拒絶する決意のような、そんな気持ちが乗った言葉だ。

 悲痛とも言える表情を浮かべる彼女にそれ以上は訊き返せず、別の質問を投げた。


「それはまあ、そうだとして。でもどうしてここが良かったんだ? 他にも友だちとか彼氏とかいないのか?」


 暗く沈んだまま、美来は儚げなほほ笑みを顔に宿しながら答えていく。


「あんまり親しい友達はいないんだ。学校の勉強とバイトが忙しくて、それどころじゃなくて。それに彼氏がいるんなら、未だに経験無しってこともないでしょ?」


 経験無し……確かにそれはそうかもしれないけど……

 

「ごめんなさい。小暮さんには迷惑だったかもしれないけど、小暮さんなら話を聞いてくれるかなって思ったの。だからお願い、別のバイトが見つかって落ち着くまで、ここにいさせて欲しいの」


 そう口にする美来は笑っていたけれど、黒くて綺麗な瞳の奥は悲し気で切実だった。




---------------

《作者よりご挨拶です》


暑い七夕の折、いかがお過ごしでしょうか。

お忙しい中、ここまでお読み頂きありがとうございます。

お陰様で、1万PVを突破できました。

あらためて感謝を申し上げます。


このお話もかなり進んできましたが、いかがでしょうか?

これから、ほぼダブルヒロイン(+α)の感じになっていくかとは思います。

よろしければ、ご感想やご評価、フォロー等も頂けると嬉しいです。


引き続き、どうぞよろしくお願い申し上げます。



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