第15話 影山瑠奈の回想

(まさか、あんなにばっさりと断わられるなんて……)


 影山瑠奈は自分のデスクへと足を進めながら、はあっと溜息をついた。

 別に映画が観たかった訳ではない。

 小暮と一緒の時間を過ごしたかったのだ。


 せわしなく帰り支度をする小暮を離れた場所から眺めながら、切ない気持ちになる。


(なんで私、こんなにあの人のことが気になりだしたんだろう?)


 それは多分、立ちんぼの人が集う公園での取材が終ってからのことだ。


 実は、瑠奈が小暮と出逢ったのは、彼女がこの会社に入るもっと前に遡る。

 彼女が大学四年生、指導教官である文学部の教授の研究室に所属していた春のことだ。


「カノカワ出版の記者さんが取材に来られる。学生の同席もOKとの了解をもらったから、興味がある人は参加して下さい。出版業界に興味がある人も多いと思うから、これからの参考になるかもしれないよ?」


 教授は、日本文学史の研究の第一人者で、関連する学会の理事長も務めている。

 なのでこの手の取材依頼は多くて、その都度学生にも声を掛けてくれる。


 瑠奈は教授に問いを投げた。


「先生、どなたが来られるんですか?」


「ああ、小暮隆一さんという方らしい」


 瑠奈はその名前には覚えがあった。

 旅や名店を特集する月刊誌である『ツアリム』は彼女の愛読書で、毎月欠かさず購読している。

 特集内容が面白いのもあるけれど、それ以外にももう一つ理由がある。

 

 色んな分野の著名人を取材して、その周りの名跡を巡り、時にはその人の思い出の場所へと赴いて紡ぐ記事。

 『心の旅路』と題されたそのコラムは、飾らないけれど読みやすくて優しい文体で、目にすると次々に心の表情や美しい情景が浮かんでくる。

 昔から大好きで、雑誌を買うとまずそこから目を通している。


(自分も将来、こんな文章が書きたいな)


 そんな事を夢想しながら。


 その執筆者として、いつも一番後ろに名前があるのが小暮隆一だ。


 きっとあの人だ。

 いてもたってもいられなくなって、瑠奈はその場で、教授に向かって同席の申し入れをした。

 自分が憧れる文章を紡ぐ人、どんな人なんだろう?

 期待が胸の中で膨らんでいく。


 取材当日、教授の個室には十人を超える学生たちが集まった。

 瑠奈はその後ろの方の席にひっそりと腰を下ろした。

 ワクワク感とともに緊張と戸惑いもあって、自然とそうしていた。


「こんにちは、お邪魔します。これは大人数ですね」

 

 抑揚の無い普通の声で挨拶をしながら入って来たのは、風貌も普通の若い男の人だった。

 皺の残るチェックのシャツにはき慣らしたジーンズ、どちらかと言えば地味な印象だ。ただ、


(目が綺麗な人だな)


 それが瑠奈の第一印象だ。

 イケメンとは言えないけれど、曇っていない澄んだ目が、少し緊張気味にあちこちに向けられる。


 一瞬目が合いそうになったけれど、何となく恥ずかしくて、瑠奈はさっと目線を逸らしてしまった。


 教授との対談が始まって、小暮は教授の研究分野やそこを目指した理由とか、よくある普通の話題を取り出した。

 ただその内容が深い、話を聞いているうちに瑠奈はそう感じていった。


 小暮は凡庸な話し方ながら、教授の過去の経歴や研究成果、著書などの細かい部分に次々と触れていく。

 教授のことを自分なりに勉強しているようで、三年生の後半からずっと教授と一緒にいる瑠奈が知らなかったこともたくさんあった。


 時間が経つにつれて、それ程話し好きでもない教授がどんどんと饒舌になっていって、笑い声が部屋の中に湧き出していた。

 そして話題は教授の青春時代の思い出にまで至って、彼は過去を懐かしむように柔和な顔を浮かべていた。

 そんな顔は、普段の雑談でも研究室の飲み会とかでも、瑠奈は見たことがなかった。


 一時間ほどの予定時間を終えると、小暮は丁寧にお礼の言葉を述べて、教授室を後にした。

 学生たちも一人一人姿を消していく中で、瑠奈は教授に「どうでした?」と問うた。


「とても楽しかったよ。彼は私という人間に興味をもって、よく勉強をしてきてくれたようだ。付け焼刃ではあれだけの話はできない。だからついこっちも、喋り過ぎてしまったな」


 教授は満足げに口元を緩める。

 今日の取材を本当に楽しんだようだった。


 瑠奈はその理由をもっと理解しようとして、教授の言葉を何度も頭の中で反芻した。

 人間に興味をもって勉強――

 教授の実績や仕事、今の立場、そんな目立つ場所だけではなくて、教授という人間そのものに目を向ける。

 きっとそういうことなのではないだろうか。


 だから教授は楽しんで話ができたし、それを元にした取材記事は深みを帯びて、きっと読者の心を惹きつけていくのではないだろうか。

 自分が好きな文章は、多分そうして生み出されているんだ。


 大学生活最後の年の就活で、瑠奈はカノカワ出版に応募した。

 自分もそんな風になって、人の心に届く言葉を形にしていきたい。

 そんな思いからだった。


 いくつか内定をもらった中には幸いにもそこが含まれていて、瑠奈は迷わずにそこを選んだ。


 入社して最初に感動を覚えたのは、自分のデスクから少し離れた場所で、上司である織部綾子と小暮隆一とが雑談をしている光景を目にした時だった。

 

(まさかこの人とこんなに早く会えて、しかも同じフロアで仕事ができるなんて)


 でもそんな気持ちは、日々怒涛のように押し寄せる慣れない仕事の中で、どこかへと押しやられていった。


 織部と小暮は顔を合わせるごとに、色んな表情を作り合いながら言葉を交わしていた。

 小暮は織部には頭が上がらないようだけど、最後にはいつも苦笑いして、満更でもない様子だった。

 

(きっと二人は仲がいいんだな。いつか私も、その中に入れたらいいな)


 寂しさも感じ始めていた頃、織部から声を掛けられた。


「社会部の応援の取材に行ってくれないか? うちから一人出すことになったから、そいつをサポートして欲しくてね」


 その相手が小暮だった。

 入社して約三か月、やっと小暮との接点ができて、心が躍った。


 今回の取材の相手は、都内某所の公園に集まる女性たち。

 お金と性のやり取りをする、社会の暗部に光を当てる。


 小暮がどんな取材をするのか興味があったけど、公園での彼は冴えない印象だった。

 大学で見た人物とはまるで別人のようにはにかんで、最初に声を掛けた女性からは、あっさりとフラれたようだった。

 けれどそこが人間臭くて面白く感じて、自分ができることをやって、彼を助けてみたいと思った。


 取材を終えて焼肉店で肉の味を堪能しながら、瑠奈はどんな記事にしようかと、小暮に話を持ち掛けた。

 けれど彼はその話題にはあまり感心を示さないで、その日出逢った女性たち一人一人のことを喋り出した。


「あの子はホストにぞっこんみたいだったけど、ちゃんと振り向いてもらえたらいいな」

「あの子は新しい洋服なんかにお金を掛けなくても、十分綺麗なのにな」

「あの人の旦那さん、ちゃんと治療ができて、病気が治ったらいいな」


 しみじみと語る姿は、本当にそれら一人一人の事情を理解しようとした上で、心配もしているように映った。


「こういうのって、ダメだと言ってしまえばそれまでだと思うんだ。けれどこれって、きっと人の営みが始まってからずっと続いていて、人権やら法律やらが話し合われる今の時代になってもなくならない。そこが何なのかよく分からないけれど、でも少なくとも俺は、彼女たちが悪い人間だとは思えないんだ。だってみんな、いい子だったじゃないか」


 影山はこの時、大学の教授室で指導教官が話していた言葉を想い返した。


『人間に興味をもつ』


(やっぱりこの人はそうなんだ。今回は取材相手の勉強が前もってできていなかったから戸惑っていたのかもだけど、きっとそこは同じ。その綺麗な目で、目の前の人を見ていたんだ)


(こんな風になれるかな、もっと小暮さんのことが知りたい)


 取材後の焼肉店で、焼きたてのカルビを白飯の上に乗っけて口に運びながら、そんな風に思っていた。


 そして今、フロアを去ろうしている彼を見ながら思うことは、


(もっと私にも、興味を持ってくれたらいいのにな)

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