第14話 会社に行くから

 翌日朝、美来は万全ではないながらも、普通に動けるようになっているようだった。

 なので俺は会社に行く準備を整えてから、美来にこの部屋の合鍵と、食費として諭吉さんを一枚手渡した。


「悪いけど俺は会社に行くから。この部屋は自由に使ってもらっていいよ」


 合鍵をぽんと渡した俺に、美来は意外そうな顔を向けた。


「ねえ、これって、私が持っていていいの?」


「ああ。だってここにいるのに、鍵が無かったら不便だろ?」


「……信用してくれるの? 私のこと」


 ああ、なるほど、確かに。

 実は騙されていて、家の中のものを持ち去ってドロン、なんてのもあり得るなあ。

 けど、今まで美来を見ていて、そんなことをするようには思えないんだよな。

 本当に困って俺を頼ってきた、そうとしか思えない。

 もし仮に美来が詐欺師かペテン師だったとしたら、俺は騙された自分を怒らず、彼女のことを称賛してしまうだろう。


「ああ、細かいことは気にするな。お前だって俺のことを信用してくれて、ここに来たんだろ?」


 そう応えると、美来は嬉しそうに、大きくて黒い瞳を震わせた。


「ありがとう。でも、お金はいいよ。自分の分は自分で何とかしようと思ってたから」


「いいよ、金欠なんだろ? それより、早く大学に行けるようにならないとな。お前学生だったよな?」


 手短にそう伝えると、美来は申し訳なさげに長い睫毛を伏せた。

 

 俺もそんなに裕福ではないけれど、ずっと安アパートで倹しい生活をしているので、それなりの蓄えはできている。

 それに美来が思い詰めて、また件の公園に気持ちが行ってしまうようなことは、絶対に避けたかった。


「じゃあ行ってくるよ、美来!」


 そう言葉にしてから、はたと自分の大きな過ちに気づいてしまって、


「あ、行ってくるよ、美来さん」


 そういえばこっちも気が緩んでいたのか、ずっと彼女を下の名前を呼び捨てにしていた気がする。

 玄関先で言い直すと、美来はクスリと笑って、


「美来でいいよ、小暮さん。行ってらっしゃい」


 そんな言葉で俺を見送ってくれた。


 会社に辿り着いてデスクで仕事の準備をしていると、黒縁眼鏡の綾子さんがやってきた。

 ゆったりとした着こなしでも、ボリューム満点の胸もとだけは隠し切れずに、相変わらず窮屈そうだ。


「珍しいな、君が突発で休むとは」


「すみません。ちょっと身内に急患がでて、それで」


「何? それはいかんな。こっちでできることはフォローするから、何でも言ってくれ」


「ありがとうございます」


「それとな、頼みなんだが」


 ―― 何だろ? 恐い気もするけど、昨日突発で休んでしまった手前、今は嫌だとは言いづらいな。


「影山さんのこと、よろしく頼むよ。この前の取材旅行の件も嬉々としてやってくれているのでな。やっぱり君たちは、いいコンビだ」


「はい、分かりました」


 昨日は急に休んでしまったけれども、その間も彼女が執筆作業を進めてくれている。

 正直助かっているので、こちらも精一杯のことはしてあげるべきだろう。


 綾子さんとの会話が終ると、早速に影山さんがすっ飛んできた。


「小暮さん、おはようございます! 打ち合わせしませんか!?」


「ああ、分かったよ。影山さんはいつも元気だね」


「はい、それは取り柄ですので! せっかくだから会議室を予約してますから」


 別にわざわざ会議室でなくても話はできると思うけども……まあいいか。

 大部屋の横にいくつか並ぶ会議室の一つに入って、斜め90度で向きあって腰を下ろす。


「伊藤先生への取材の下りは大体できたと思うんですけど」


「ありがとう。昨日見せてもらった感じでは良かったよ。後は手分けしようか? 俺は周辺巡りの所を書き始めるよ」


「分かりました! それで、伊藤先生と奥さんの馴れ初めの部分なんですけど……」


「そこは影山さんのセンスでいいよ。影山さんが聞き出したところだし、こういう内容好きだろ?」


「あ、はい、じゃあそうします」


 大まかな分担を決め直して、細かい部分の表現やら文字数やらをすり合わせして、そこでしばらくお互いにキーボードをたたき合う。


「あ、そうだ。次の取材が決まったよ」


「え、どこですか?」


「湘南だよ。海南グループの仙崎社長だ」


「仙崎社長って……ええ!? 海南グループのトップじゃないですか!!??」


 影山さんはただでさえ大きめの目を飛び出さんばかりに見開いて、ぽかんと口を開けている。


「そんなの、どうやってアポを取ったんですか?」


「ここにいる先輩が以前取材したらしいから、そこから繋いでもらったんだよ。環境や慈善事業に熱心な会社風土とかを記事にしたいってお願いしてね」


「……すごおい、小暮さん……」


 海南グループはこの国の中で有数の物流・販売の事業グループで、『カイナン』と名の付くショピングモールや百貨店などを全国に広く展開している。

 仙崎信義せんざきのぶよし氏はそのホールディング会社の社長で、実質このグループのトップにあたる。

 この会社は環境保護や慈善事業への援助に熱心で、毎年多額の寄付を行っている。

 そこに注目してお願いをしたことが、仙崎社長の琴線に触れたようだ。


「湘南に別荘があるそうだから、そこが取材場所だよ」


「わあ素敵! 見て回るところもいっぱいありそうですね! それ、私も付いて行っていいんですか?」


「好きにしていいよ。無理にとは言わないし」


「行く!! ぜったいに行きます!!!!!」


 よほど心根に触れたのか、影山さんは上機嫌になって、笑顔の華をぱああっと満開にさせた。


「水着を持って行ったら、一緒に泳げるんじゃないですか?」


「だからあ、遊びに行くんじゃないからな?」


 その頃には丁度真夏を迎える。

 きっと海岸線は蒼に満ちて、目を楽しませてくれることだろう。

 だから彼女の言うことも、分からなくはない。


 それからお互いのデスクに移動して、記事の原稿書きや次の企画書の仕上げに没頭した。


 夕方になると、影山さんがまたこっちのデスクに近寄って来た。


「小暮さん、ご飯でも食べながら続きやりませんか? 大体できたから、意見聞きたいです!」


 中々の仕事の速さだし、仕事熱心だなとは思うけれど。


「そっか。じゃあ続きは明日にしないか? まだ締め切りには時間があるから。早く帰れる日はそうして、好きなことに時間を使うのも大事だぞ?」


「あ、そうですね。だったら小暮さん、たまには映画でも行きませんか?」


「悪い。俺も今日は、早く帰りたいんだ」


 家に美来を一人で残している。

 病み上がりというか病み中というか、どうしているか気がかりだ。


 俺が断りの返事をすると、影山さんはしゅんと凹んだ猫のような表情を見せた。

 別に仕事は明日でもできるのだから、そんなに落ち込まなくてもいいのに……


「……分かりました。じゃあ、お疲れ様です……」


「おう、お疲れ。映画楽しんでな!」


 なぜだか背中に哀愁を感じさせながらとぼとぼと自席に戻る影山さんを見送って、俺は自分のデスクの片づけを始めたんだ。



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