第10話 じゃあね
朝食を終えて身支度を整えてから、俺と美来は一緒に玄関の扉を潜った。
安アパートの階段を降りて駅へと続くいつもの道、傍らを歩くサラリーマンや学生風の男性連中の視線が、美来の方へと吸い寄せられている。
昨日はすっかり夜更けになっていたので、この道を通った時には人の気配はなかった。
けれど今は、会社や学校へと向かう面々が
すっと伸びた白い素足を前に進めるたびに、背中まで届く豊かな黒髪が揺れる。
白いシャツの胸もとは大きく隆起していて。上から二つ目のボタンが弾け飛びそうなほどの迫力だ。
頭の上に乗っかった赤いカチューシャが、陽光を受けて明るく光る。
「いいお天気ね」
そう取り留めなく言葉を口にしながら、どこかの神話にでも出てくる美神のごとくに、光輝くような笑顔を振りまいているのだから、どうしたって周りの好奇心をくすぐってやまないだろう。
俺もついちらちらと、ばれないように注意しながら横目を流してしまいつつ。
10分程の道程で、駅の改札の前に辿り着いた。
どうやら俺と美来とは、乗る電車が別々のようだ。
「じゃあ気を付けてな、美来」
片手を挙げてそう言葉を送ると、美来がぱっと顔をこちらに向けた。
「あ、あの、小暮さん……」
「何だ?」
「えっと、あの……」
「? 何だよ?」
話したい言葉が出て来ないのか、彼女はじっと時間をかけて視線をコンクリートの上に落とす。
何かを思いつめた、薄い陰が漂う表情を、その整った顔に乗せている。
その様子を瞳孔に入れると、俺の心の内に軽い痛みが走ったような気がした。
やがて美来はすっと顔を上向きにして口角を上げ、俺に告げた。
「ううん、何でもない。ありがとうね小暮さん、楽しかったよ」
「あ、あの、もし良かったら……」
思わず、中途半端な言葉が喉を突いて出て。
そこまで声に乗せてから、口をつぐんでしまった。
正直、彼女のことが気にならない訳ではない。
というか、無茶苦茶気になっていて、後ろ髪を引かれてしまっている。
友達になりたいのか? いやそれだと、その辺のナンパ師と大して変わらないだろう。
昨夜の彼女は、少なくとも、俺のことを嫌いではないように見えた。
でもきっとそれは、誕生日の夜の街で偶然出会った効果なのか、気持ちが高ぶっていたのかもしれない。
本当ならこんな子が、冴えないコミュ障男と一晩一緒にいる理由なんて無いんだ。
彼女のことが心配なのだろうか? それはYESだ。
昨夜は俺と一緒にいて、何ごともなく落ち着いていたのかもしれない。
今日はどうか、明日はどうだろうか、その次の日は……?
彼女がどんな風になっていくのかは分からない。
何かを言いたいけれど、それは彼女にとって意味を持つのだろうか?
きっと単なるお節介でしかないだろう。
そこに自分から首を突っ込む勇気と覚悟、責任感が、今の俺にあるのだろうか?
今できることは、彼女がこれから先も平穏無事であることを、祈ることくらいだ。
無責任かもしれないけれど、今の俺にはそれくらいしか……
「良かったら、何?」
「いや、うん、何でもない。じゃあな! 朝飯ありがとう、美味しかったよ!!」
そう返すと、美来は寂し気な微笑を俺に向けた。
「うん、じゃあね」
彼女が踵を返すのを見届けてから、俺も足早に自分が乗る電車のホームへと向かった。
これでいい、これでいいんだと、自分に言い聞かせながら。
会社に着いて自分用のデスクに腰を下ろすと、早速影山さんが俺を見つけて、少し離れた席から小走りに駆け寄ってきた。
「小暮さん、おはようございます! 昨日の記事のたたき書いてみたんですけど、見てもらっていいですか?」
「おお、早いね。分かった、メールで送っておいてよ。上手くいけば、今日中に社会部に確認してもらえるかもな」
「はい、よろしくです!」
それから彼女が書いた原稿を読んで、お互いの席を行き来しながら、パソコンの画面を覗き込んであれやこれやと話を詰めていく。
最近ではオンラインでの仕事やコミュニケーションも進んではいるけれど、細かい部分でお互いに納得し合いながら進めるのには、やはり対面が便利だと思う。
昼はコンビニのおにぎりを片手に言葉を交わし合って、細かい表現や誤字の直し、それにどういったことが言いたいのかについて織り込んでいく。
何とか勤務時間の中で間に合って、社会部の課長の席まで出向いた。
「いやあ、助かったよ。今日中には見ておくから、明日仕上げと入稿をお願いしていいかな?」
「はい、それでお願いします」
一仕事を終えてほっと一息つける時間。
自販機で買った缶コーヒーを啜りながら、次の取材旅行について頭を巡らせる。
偉人達と会い、その思い出の地や周辺地域を回るコラムで、俺がこの会社に雇ってもらってからずっと執筆をしている。
旅や名店を紹介する月刊誌への連載なのだけれど、幸いにも打ち切りにならなくて、未だに続いているんだ。
「お~い、小暮君!」
おや、綾子さんがお呼びだ。
また何か、面倒なことじゃないといいがな。
彼女のデスクは相変わらず綺麗に整頓されていて、まるで異世界に住む魔法使いなのではないかとたまに思ってしまう。
「何でしょうか?」
「社会部からの依頼の件ご苦労だったね。向こうの課長から、まだ途中までしか見てないけどよく出来ているって、御礼が届いたよ」
「そうですか、それは良かったです。今回は影山さんに頑張ってもらったので、そのお陰ですね」
「そうか、君たちは意外といいコンビかもしれないね。それでだね?」
綾子さんが眼鏡を鼻先でツンと上げて、にやりと口の端を緩めてくる。
まずいな…… これはいつも、無理難題を吹っかけてくる合図だ。
「来週から取材旅行だろ、陶芸家の先生の所へ? そこへ影山さんも連れて行って欲しいんだ」
「……ぐえ……」
やっぱり…… そんなことだろうとは思ったけれど。
今までずっと一人で気楽にやっていたので、同行者がついてくると正直面倒くさいな。
しばらく黙りこくって考えていると、綾子さんから追撃が入る。
「そう嫌そうな顔しないでくれよ。影山さんも今回、小暮君と一緒にやれて良かったって言っていたし、この調子で伸びていって欲しいんだ。それに君のためにもなるぞ?」
「え、俺のため?」
「うん。彼女が筆を進めれば、君の時間は節約できるだろう。それに新人育成に協力してもらえたら、ボーナス査定も変わってくるかもよ?」
前半は別にどうでもいいけど、後半は魅力的ではあるな。
流石は管理職、飴と鞭の使い分けを知っていらっしゃる。
「はい、了解です」
ひとまず承諾の返事をしてから、デスクに戻って旅の日程やら周辺の地理やら、取材対象の先生の経歴などに目を通していると、
「小暮さ~ん!!」
何だよ今度は……影山さんかあ。
「今度の取材旅行、ご一緒させて頂けるみたいですね、よろしくお願いします!」
「ああ、よろしく。今回みたいに、協力して頑張ろうね」
「はい! それでですね、今夜晩御飯、一緒に行きませんか!?」
「は? 何でそうなるんだ?」
「もうそろそろ夕方だし、ご飯でも食べながら打ち合わせして。あ、今までどんなとこ行かれたのかも、訊きたいです! 昨日のお礼に私が奢りますから!」
夕食は何か食べないとだけれども、後輩に奢られながら仕事の話をするのってどうよ?
それに昨日の事があって、結構疲れているんだけどなあ。
「いいじゃないですか、ちょっとだけでも! 行きたかった居酒屋、予約しちゃいますね!?」
結構押しが強いな、この子。
昨日もそうだったけど、飛び込みの取材なんかには向いているかもしれないな。
まあいいか、軽く引っかけて、今日は帰ろう。
そんなことを思いながら、そういえば昨日の夜、美来が居酒屋に行きたがっていたなって、ふっと頭をかすめたんだ。
でも、きっともう会うこともないのだろう。
この時はそう思っていた。
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