第9話 夜と朝
「えっと、美来さん……」
何をどうしていいのか分からなくて、そのままの姿勢で体を固くする。
一つしかないって…… 確かに、この状況で思い浮かぶのは、それしかないのだけれど……
けど、なにがどうなってそうなるのか、それが理解できなくて。
淫猥で桃色の妄想がどんどんと膨らんでいく。
すっかり目は冴えてしまって、胸の中で脈動がぐんぐん高くなっていく。
「ねえ、こっち向いてよお」
「ああ……」
身を捩らせて反転させると、ベットの上で横たわってこちらに瞳を送る美来が、青白く差し込む月光の中で浮かんでいた。
彼女は優し気な笑みを浮かべながら、甘い言葉を流してくる。
「こっちへこない、小暮さん? それとも、私がそっちへ行った方がいいかな?」
いやいや、ちょっと待とうよ。
心の準備も全然できていないし、どうしてそうなるんだよ?
今日は泊めるだけ、何も起こらないって、言ったじゃないか。
「美来さん、どうしてそうなるんだ……?」
慌てながらそう口にすると、美来は青白い光の中で微かに笑みを浮かべて、
「だって私、何もお礼ができてないし。小暮さんにこんなによくしてもらっているのにさ」
そういう理由なのか?
だったら、俺は元々そう言うのは期待していなくて。
そもそも、晩飯を奢って寝る場所を貸しているだけ。
その対価としては、美来の初めては大きすぎて、全然バランスが取れていないじゃないか。
……男としては、勿体なく思う気持ちは滅茶苦茶あるけれど……
「あのさあ、お前もっと自分を大切にしろよ。そういうのは好きな人とそうなるべきものだろ? それにお前、初めて……なんだよな……?」
「そ、そうだけどさ…… 恥ずかしながら、この歳になるまで……」
「だったら尚更だよ。それは大事な人のためにとっておけよ。それに俺は、そんなつもりでここへ上げたんじゃないんだ」
「……小暮さん……私は……小暮さんとだったら……」
美来は何かを言いたげだけれど、あまり話すと、そっち側へと堕ちてしまいそうだ。
ここは思い切って、
「さあ、もう寝ようぜ」
さらりとそう言って布団を被ってみせても、中々動悸が治まってくれない。
月明かりの中で瞳を輝かせる彼女は、やっぱり魅力的過ぎたんだ。
少なくても、大人げなくも甘美な想像を掻き立ててしまうほどには。
でも、これでいいんだ。
明日になったらまた別々、もう会うこともないだろう。
そう自分に言葉を送って、ぎゅっと目を閉じた。
そうして、何度か雑念と後悔が頭を過ったけれど、なんとか押し殺して、徐々に意識を手放していった。
美来の方からも、それ以上の言葉はやって来なかった。
『ピピピピピピーー!!』
寝る前にかけた目覚ましの音だ、もう朝か。
いつもの朝よりも眠い、昨夜は超イレギュラーがあったから、眠りが浅かったかな。
―― なんだ?
キッチンの方で何か音がしている。
薄目を開けてキッチンの方に視線を送ると、見慣れない人影が、いそいそと動き回っていた。
あれ、なんなんだろう、この光景?
半身を起こしてもう一度じっと確認すると、俺のスウェットを被った女の子が、何やら台所仕事をしている。
そんなことができるのは、今は一人しかいないはず。
「美来さん……!?」
そう声を掛けると、美来がこっちに振り返って、朝の陽ざしのように優しい笑顔を向けた。
「あ、おはよう小暮さん。起きた? 朝ごはんの準備、大体できてるよ」
「ふえ?」
「お布団を上げて、テーブルを出しておいてくれるかな?」
「ああ、はい……」
よく頭が働いていなくて、状況が呑み込めないのだけれど。
とにかく彼女の言うように、布団を押し入れに仕舞って、脇に置いてあったテーブルを元の場所へと移動させた。
すると美来は、キッチンに置いてあった皿を、こちらに運んでくる。
ハムエッグに生レタス、出来立てなのか、まだほわほわと白い湯気が立っている。
これもしかして、冷蔵庫の中で賞味期限ギリギリの瀕死状態だった食材かな?
「コーヒーとトーストももうじきできるから、顔でも洗ったら?」
「ああ、そうだな……」
言われるがまま、ユニットの洗面所で顔に水を掛けて部屋に戻ると、テーブルの上に香立つマグカップや小金色のトーストも並んでいた。
「なあこれ、作ってくれたんだよな?」
「うん、ごめんね勝手に。これくらいはできるかなと思って、残ってた食材を使わせてもらっちゃった。けど小暮さん、あんまりお料理してないね?」
「まあ、あれだ。正直一人分だと、作るよりも買って帰った方が、楽だし安かったりするからな」
「そうかな? 買い置きとか作り置きとかしてたら、結構そっちの方が安いよ?」
「そうかもだけど、そこまで手間を掛けられなくてね」
仕事をしながらの家事って、意外と時間と手間がかかる。
洗濯、掃除、料理、洗い物、ゴミ出し……
きっちりやろうとすると結構大変で、手を抜けるところはできるだけそうしているんだ。
もちろんたまには、どうしても何かが食べたくなった時には、自分一人のための料理を空しくすることはあるけども。
けどこれは、予想外に嬉しい出来事だ。
これだけまともな朝食を作ってもらったのって、前がいつだったか記憶にない。
高校までは母さんが作ってくれていたけれど、いつも朝はバタバタで、まともに味わってはいなかった。
「ありがとう。美味そうだ」
「さ、座って。 食べようよ!」
「これ、時間がかかったんじゃないのか?」
「まあ、最初にお目にかかったキッチンと冷蔵庫だからね。けど次からは、もっと上手に作れると思うよ?」
―― 次からはね、一先ず聞き流そう。
美来が作ってくれた朝食は美味しい。
くたびれた食材がこうも見事に変身してくれるものなのかと感動しながら、ふわふわの玉子の甘みに頬を緩くする。
窓辺からは朝日が差し込んで、爽やかな朝を演出してくれる。
こんな朝があるんだなと、一人で感慨を噛み締める。
「ねえ小暮さん、どうしたの? ぼーっとしちゃって?」
「あ、いや、何でもないよ。それより美来は、これからどうするんだ?」
そう問うと、美来は少しだけ笑顔を固く強張らせた。
「小暮さんは、今日はお仕事だよね?」
「ああ、これを食べ終えたら、会社に行くよ」
「……分かった。じゃあ私も、同じ時間にここを出るよ」
静かになった声のトーンでそう口にしながら、美来は白いマグカップを口にした。
その瞳には、どこか寂し気な陰を帯びているような気がしたんだけど。
でも、仕方がないよな。
ずっとこうしてることもできないし。
この時はそれ以上、気に留めようとはしなかったんだ。
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