第8話 何もしないの?

「お風呂場はそこだよ。タオルとかは置いてあるから、好きに使っていいよ」


「うん、ありがとう」


 美来はお風呂とトイレとが一緒になったユニットの中へ入っていって、パタンと扉を閉めた。

 少ししてから、水が流れる音がドア越しに聞こえてきた。


 不思議な感覚だ。

 無味乾燥なワンルームに、花が綻ぶような女の子が急に訪れて、シャワーを浴びている。

 同じ部屋なのに異世界にでもなったような、不思議な錯覚。

 何だか落ち着かなくて、妙にソワソワしてしまって、用事も無いのに部屋の中をウロウロと彷徨う。

 レベル上げのための目的もなくうろつく低レベル冒険者に似たり。


 ―― そう言えば思い出すな。

 実は、この部屋に女性が訪ねて来るのは、家族を除けば二人目だ。

 前の時にも確か、彼女はこんな感じでシャワーを浴びて、その夜は朝まで一緒にいた。

 そんなことがあったのは、結局その一回だけ。

 ほんの三か月だけの関係だったけれど。

 どうしているかな、今頃……


 そんなことをぼんやりと思い浮かべながら、ぱんっと自分の頬を両手で叩いた。

 今夜はそんな甘い場面じゃないんだ。

 美来は今夜一晩、寝る場所を貸すだけ、それだけなんだ。


 浮ついて火照った自分を落ち着けるため、冷蔵庫から発泡酒の缶を取り出して栓を開けた。

 簡素なテーブルの脇に座ってちびちびとやっていると、風呂場へとつながるドアがすっと開いて、


「あの、小暮さん?」


 そう俺に呼び掛けながら、ドアの隙間から美来が姿を覗かせた。

 俺は一瞬目が点になって、体がカチンと固まってしまう。


 濡れそぼった髪、水玉が乗っかった白い素肌、バスタオル一枚を体に巻いただけの姿だ。

 バスタオルが何とか覆っているたわわな胸元が今にもこぼれ出てきそうで、目のやり場に困ってしまう。


「な、なんだよ!」


「よかったら、着替えを貸してくれない? 着てきた洋服だとなんだか落ち着かなくて」


 それはそうかもしれないな。

 外行の服を着たままだと、寝心地もよくないだろうし。

 かといって、裸のままでうろうろさせる訳にも断じていかない。


「俺が普段着ているやつでもいいかな?」


「うん、それでいいからお願い」


 クローゼットを漁って、できるだけ新しくてくたびれていないスウェットを引っ張り出した。

 風呂場のドアの前にそれを置いてから、三回ノックして、


「着換え、ドアの前に置いとくから!」


「うん、ありがとう」


 つい先ほどのワンシーンがまだ目の前に貼りついていて、ドキドキと心音が高鳴っている。

 ―― ちょっと落ち着こう、うん。

 テーブルの脇に腰を沈めて、なぜかあまり味がしなくなった発泡酒を口に流しこむ。


 やがてドアが開いて、ダブダブのスウェットの裾をまくった姿で、美来が戻ってきた。

 美白で整った顔はそのままだけど、お化粧がなくなっているせいか、なんだか幼っぽく見える。


「ありがとう。気持ち良かった~!」


「うん、ならよかったよ」


「ねえ、それ私ももらえない?」


 そういいながら、俺の手元の缶に目を落とす。


「いいよ。風呂上りの一杯は気持ちがいいよな。あ、これってまだ、やったことないんだっけな?」


「うん、私の初体験」


 う~ん、どうもそのフレーズに微妙に反応してしまうのは、男の性なのか、それとも俺だけなのだろうか。


 冷蔵庫からもう一本を拾い上げて美来に手渡すと、彼女は栓を開けてくうっと煽って、喉を動かした。


「はあ~、美味しい。生き返るわ~!」


 まるで仕事あがりのキャリアウーマンか親父のような言葉とともに、満面の笑みを披露してくれる。

 どうやらもう既に、酒の味が分かったようだ。


「だろ? でもそのセリフ、何だか居酒屋の親父っぽいぞ」


「そうかな? 居酒屋かあ、お酒飲めるようになったから、また行って見たいなあ」


「ああ、いいんじゃないか? 酒が飲めるとまた、世界が違って見えるぞ」


「じゃあ小暮さん、今度連れていってよ」


 ……え? 何を言っているんだろう?

 俺は彼女に、今夜一晩寝場所を貸すだけのはずだろう?

 きっともう会うことは無い、今度っていつの話をしているんだ?


 いや、社交辞令、リップサービスってこともある。


「何を言ってるんだよ。俺みたいなくたびれた奴と一緒よりも、仲のいい友達とかいるだろう? 若人同士で行って楽しめよ」


 そうばっさりと伝えると、美来は表情を暗くして、小声で呟いた。


「そうよね…… 迷惑よね、そんなの……」


 いや、迷惑っていうか……

 今夜が終れば赤の他人なのだから、当然そうだろう?

 何かしらの罪悪感を感じてしまって、それから逃れるように、俺は腰を上げた。


「俺も風呂に入ってくるよ。そこのベッド、嫌じゃなかったら使っていいから。先に寝てていいよ」


「もしかして、一緒に寝させてくれるの?」


「違うって! 布団がもう一組あるから、俺はそれで寝るよ」


 家族や友人が泊りにくることもあったので、それ用に置いてあるんだけど。

 なんだかさっきから、美来の一言一言にどっきりさせられっぱなしだ。

 

 クローゼットから自分の着換えを取り出して、風呂場でさっと汗を流した。


 部屋に戻ると、美来はベッドに潜りこんでいて、壁の方を向いてこちらに背を向けていた。


 先に寝たのかな。

 テーブルを横にずらして、押し入れから布団を引っ張り出して、床の上に横たえて。

 目ざまし時計をセットして部屋の電気を暗くし、体を横たえた。


 既に日付は変わっている。

 後輩の面倒、慣れない取材、そして美来との時間…… 

 何気に濃密だった時間は既に昨日になった。


 悪く無い疲労感がじんわりと全身に染み渡り、ひと時の開放感に身を落とす。

 両目を閉じて眠りの世界へ足を入れようかとすると、


「ねえ、小暮さん」


 確かにそんな声が、ベッドがある方から聞こえた。


「……呼んだか?」


「呼んだ」


「何だよ?」


「本当に、このまま何もしないの?」


 そんな短い一言は、俺を眠りの世界から引き戻すには十分すぎるほどの、甘く強烈な破壊力があった。

 何もって……何のことを言っているんだ?

 まさか……


 布団の中で態勢を変えずに、内心の動揺を隠しなから、


「何だか知らないけど、もう寝る時間だろ?」


 ベッドの方から寝返りを打つ音が聞こえて、


「ねえ、本当に何もしなくていいの?」


 先ほどよりもはっきりした声が、背中越しに流れてくる。


「何もって、なんのことだよ?」


「なんのことって…… そんなの一つしかないじゃない。それとも私って、魅力ない?」


 途端に体中が熱くなって、眠くなりかけた目は完全に覚めて、頭が冴えわたってきた。




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