第5話 初めてなんだ
「誕生日で酒が飲めるって……それって、今日が二十歳の誕生日ってこと?」
「うん、そうだよ」
一瞬自分の耳を疑ってしまったけれど、もう一回訊き返しても、多分答えは同じだ。
二十歳の誕生日、それって、特別な日なんじゃないのかな?
俺なんかと一緒に、ここにいていいのだろうか?
俺が法律的に完全な大人になった日には、確かに周りには誰もいなくて。
コンビニで目を付けていた酒とつまみを買って、一人で住む下宿に引きこもって、普段と変わらない無機質な時間を過ごした。
別にそれで、いいとも悪いとも、寂しいとも寂しくないとも、感じなかった。
面倒くさく無くていい、そんなことを思いながら、酔いという初体験と一緒に寝静まった記憶がある。
けど、女の子にとっても、それって同じようなものなんだろうか?
やっぱり寂しくて、一人の部屋に帰るよりも、俺のような面白味のない相手とでも、一緒にいる方がいいのかな?
「なあ、そんな大事な日に、俺なんかとここにいていいのか?」
「うん。だって誘ってきたのって、小暮さんの方でしょ?」
それはそうかもしれないけど、今日がそんな大切な日だなんて知らなかったし。
もし嫌だったらなら、断ってもらってもよかったんだし。
それに、もしそういうことなら、もっと別の場所も考えたかもだけど。
……いや、この際深く考えるのはよそう。
俺が女の子の気持ちを理解しようだなんて、きっと百年経っても時期尚早なのだ。
「はい、ビールね」
注文を受けてくれたおばさんが、瓶ビールとグラスを置いていった。
良く冷えていて、手に取るとキンとした冷たさが肌を突き破ってきた。
「はい、どうぞ」
ビール瓶の先を美来の方に向けると、彼女はグラスを手に取った。
「ありがとう。これ私の
「……そうか。俺も二十歳になりたての子に酒を注ぐのは、初体験だよ」
お互いのグラスを金色の液体で満たしてから、こつんとくっ付け合う。
美来はそれをそっと口に運んで、こくんと喉を鳴らした。
「う~ん、苦いなあ。これって美味しいのよね?」
どうやら本当に飲酒は初めてのようで、ビールの旨味が分からず、何ともいえないしかめっ面をしている。
「うん、最高だよ。夏の夜の仕事の後とかには特にね」
そう先輩面をしてから、ぐっと一気にグラスを煽ってみせた。
至福の味と冷たさが喉の奥へと流れていき、
「はああ~~、美味い!」
つい大きな息を吐いてしまう。
先ほどまで焼き肉屋で結構飲んでいたけれど、何回やってもこれはいいものだ。
「じゃあ、私も」
美来もぐっとグラスを傾けて、中身を全部口へ流しこんだ。
「おい、無理しなくてもいいぞ。ゆっくり味わって飲むのも大事なんだ」
「苦くてよく分からない。けど、喉の中が冷たくて気持ちがいいな」
そう口にしながら、すっとグラスを前に出して、お代わりを要求してくる。
あっという間に一本空になったので、追加でもう一本注文を入れた。
「はい、おまちどうさま」
ゆらゆらと湯気が舞い立つラーメンと、ぱりぱりの焼き目が付いた餃子が運ばれてきて、都会の片隅でのささやかな宴が続いていく。
黒いプラスチックのお箸を手に取って、熱々のラーメンの中に突っ込む。
持ち上げると、褐色のスープが絡んだ乳白色の麺が目の前で踊る。
口を大きく広げて思いっきり啜ると、濃厚な旨味がさあっと味覚一杯に浸潤していく。
中太麺の硬さを味わいながら、ゴールドの液体をぐうっと喉に流しこむ。
トロトロに煮込まれたチャーシューと一緒にそれをやると、味がより濃厚になって頬が蕩けそうになる。
餃子に箸を向けようとした時に、ふっと美来と目が合った。
「どうかした?」
「ううん、別に。楽しそうに食べるなあって思って」
「まあ……美味しいね。ここ、スマホで検索して初めて来たとこなんだけど」
「ふうん。小暮さんにとっての、初体験なんだ?」
「まあそうだけど、そんな大げさなものじゃない。こんなことってよくあるだろ?」
初体験っていう言葉には、なんだか青林檎のように甘酸っぱくて、胸を熱くする響きを感じる。
仕事でも趣味でも、初々しく縮こまりながらその先の未来に想いを馳せる、特別な時。
それに、男女の間でも、そんな言葉を使うことはあったりして。
恥ずかしながらこの齢になっても、耳にくすぐったく感じてしまうんだ。
特に、輝くような笑顔を向けながら普通にしている、女の子の口から発せられると。
そうなんだ、美来は今、笑顔が綺麗なんだ。
寸刻前の路上で儚げだった表情は何処かに行ってしまって、今真横にあるのは屈託のない笑い顔を放つ女の子の顔。
年上風を吹かせながらも、胸の中が揺さぶられて、戸惑っている自分がいる。
「うわ、この餃子、滅茶苦茶美味しいな!」
無邪気っぽく笑みながら餃子を頬張って、くいくいとグラスを傾ける美来。
公園で「三万円でどう?」と、憂いの空気と一緒に持ち掛けてきた女性はここにはいなくて、ただ美味しそうにラーメンと餃子を口に入れて、ビールに喉を鳴らす普通の子がいる。
ふと気付いて、俺はまだ言えていなかった大事な言葉を口にした。
「美来さん、二十歳の誕生日、おめでとう」
「あ……」
美来ははっとして体を跳ねさせてから、「ありがとう」と嬉しそうに口にした。
「今日、小暮さんに会えてよかったよ」
「え、そう?」
「うん」
美来はグラスをくいっと口にして、空になったそれをこちらに向けてくる。
結構強いかもなと思いながら、彼女のグラスに向けて瓶を傾ける。
「ねえ、なんで私があそこにいたのか、気にならない?」
「あそこって、あの公園か?」
「そう」
正直、気にはなるな。
けれど、今はもう取材でもなんでもないんだ。
俺が気になるのは、単なる興味本位に過ぎないのではないか。
そう考えると、そこを問うのには躊躇を禁じえない。
「気にはなるよ。でももう、取材は終わっているんだ」
「あら、取材じゃなかったら、気にしてくれないの?」
……気にはなっているさ、仕事ではなくても。
やめとけよなんて、身勝手で責任のないことは言えないけれど。
きっとそこには、何か彼女なりの理由があるはずだから。
「そんなことはないよ。けど、言いたくないことは言わなくていい」
あまり気の利いた言葉は、コミュ障の俺の口からは形になってくれない。
けれどなぜが、彼女は嬉しそうな素振りで小首を傾ける。
「私、あそこにいたの、今日が初めてなんだよ」
「え、そうなのか?」
「うん。誰かいい人を見つけてお金をもらって、本当の大人になってもいいんじゃないかって思ってね」
……お金をもらって、本当の大人に……?
よく意味が分からず、俺は彼女の微笑みにじっと自分の両目を固定した。
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