第4話 今日は私の

 裏路地には両側に背が低い店や小規模のビルがずらりと並び、そこの窓から放たれる光やネオンサインが、行き交う人たちを明るく照らしている。

 顔を赤く染めて陽気に声を上げる男性、スマホに目を落としながら足早に過ぎていくスーツ姿の男性、楽しそうに腕を組んでそぞろ歩く男女、そんな隙間に、長い黒髪がそよぐ頭の上に赤いカチューシャを乗っけた女性がいた。

 

 ―― 公園で、取材で話した彼女、だよな……?

 見覚えのある整った顔立ちは、少し離れていても、俺の脳裏に残る残照と同じだと分かる。

 それほど印象的だった。


 マリンブルーのミニスカートから覗く透明色の素足、白いシャツの一部をぐんと盛り上げる胸もと…… 今こうして眺めて、やっと影山さんが俺を冷やかした理由が分かった。

 

 取材っていう錦の御旗と、観察眼が無くなってしまうほどの緊張感がなかったら、こんな子には話し掛けられなかったな。

 コミュ障の根暗男子が関わることなど一生なかったはずの高値の花、そう思わせるほどの美麗ぶりだ。


 けれど彼女は、路面に目を落として、力無く歩いているように見える。

 ふらふらと足元が定まってなくて、夜の静寂しじまを彷徨っているような。


 お仕事を終えて、疲れているのかな?

 そんな下衆の勘繰りのような思念が頭に浮かんで、すぐにそれを振り払った。


 二人の距離が、段々と狭くなってくる。

 3m、2m、1m……

 目を合わさないように、今は興味の無いアジアンフード店の看板に目をやりながら。

 

 何も声を掛けない方がいいよな?

 もう取材も終わったんだ。

 きっと俺のことなんか、もう覚えてはいないなず。


 そう心の中で声にしてから、無言ですぐ横を通り抜けて――

 ぼんやりとまだ見ぬラーメンの味を想像していると、


「あの、お兄さん?」


 後ろから、そんな声が追い駆けて来た気がした。

 お兄さんという呼び方、微かに聞き覚えがある声、

 どうしようか……

 一瞬迷っていると今度は、


「小暮さん!!」


 と、今間違いなく俺を呼ぶ声がした。

 ちらりと首を後ろに向けると、


 数メートルの距離を間において、虚ろな目を湛えながら真っすぐに体をこちらへ向ける彼女がいた。


 俺もその場に立ち止まって、じっと彼女に目を落とした。

 何も言葉にしないでじっとこちらを見ているだけだけれど、何かを思い詰めたような視線を、力弱く流している。


 -- 何か話したいのかな、俺に?

 頭をぼりぼりと掻いてから、今度は俺の方から声を投げた。


「昼間、会ったっけ?」


 ぶっきらぼうにたった一言だけ、それでもその言葉は彼女の耳に届いたようで、ふっと口元を緩くして、コクンと頷いた。


「家に帰るの?」


 何を喋って良いのかも分からないので、ひとまず頭に浮かんだことをそのままに。


「……分からない……」


「分からない?」


「……家があるのかどうかも、よく分からなくって……」


 微かな笑みを浮かべながらそう話すのだけれど、それは軽い意味の言葉には感じなかった。

 俺は勇者でも聖人でも教師でもなくて、人に誇れるようなものは何もない。

 けれど今は、この子を放ってはおけない、そんな正義感のような感覚が胸を過った。


「そっか。よく分からないけど、腹は空いてない?」


 ついそんな言葉が、口を突いていた。

 変なナンパ? そうとられなくもない。

 でも、俺の方にはそんなつもりはなくて。

 何だか寂し気で不安気な彼女に、掛ける言葉が他に思い当たらなかったんだ。


「……空いてる」


 幾ばくかの戸惑いを自分自身に抱いていた俺は、その一言をもらって、肩の力がふぉおっと抜けていく。


「ラーメン屋に行くんだけど、一緒に食べる? 今日のお礼に奢るよ」


「行く!」


 即答して頬を綻ばせながら足早に近づいて来る彼女に、俺の方も緩んだ表情を向けてしまう。


 二人で一緒に向かったのは、この場所で50年以上操業している、こじんまりとしたラーメン屋だ。

 お世辞にも綺麗な店だとは言えなくて、錆の浮き出た白い看板に、『大笑軒』の文字が浮かぶ。


 ガラリとガラス戸を開けて中に入ると、「へい、いらっしゃい!」と、カウンターの向こう側から活気のある声が迎えてくれた。

 

 店内は明々として盛況だ。

 ほとんどの席は、陽気な顔で話をしたり、無言で麺や餃子に向かい合う面々で埋まっている。

 二人で並んで座れるカウンター席が空いていたので、隣に座る中年男性に触れないように気を使いながら、すっと席に付いた。

 彼女もちょこんと隣に座って、持っていた鞄を足元の籠の中に入れた。


 面識のない若い女の子を連れて来る場所として、ここで良かったのかどうかは分からない。

 そこで頭が回る程器用な性分でもないし、何せ頭の中がラーメンの像で満たされてしまっていたんだ。


「なんにする?」


「えっと……煮卵ラーメンかな」


「餃子も美味そうだよ?」


「そうね、じゃあそれも!」


 短く会話をしてから、狭い店内を忙しく動き回っているおばさんに向けて手を挙げた。


「すみません、煮卵ラーメンとチャーシューメンと、餃子を二つ。それと瓶ビールで」


「はい。グラスはいくつで?」


 そう訊かれて、名前を知らない彼女の方にチラリと向くと、


「二つでお願いします」


 と、声を上げた。

 どうやら、お酒は飲める年齢のようだ。


 さて、これからどうしようか。

 気になってここへ連れてはきたけれど、何をどう喋っていいのか、全く分からない。

 でもそうだ、名前くらいは訊いてもいいかな。


「えっと、何て呼んだらいいのかな?」


 そう言葉にすると、彼女は整った顔に緩い表情を覗かせて、


「これって、雑誌の取材じゃないわよね?」


「うん、違うよ。今日はもう仕事は終わり。今は完全プライベートだよ」


「……美来、君島美来きみしまみくる。でも、上の名前は呼ばないで」


「美来さんか。上の名前は、呼ばない方がいいの?」


「うん、お願い」


 なぜだろう、あまり人に知られたくない理由でもあるんだろうか?

 気にはなるけれど、そう言うのだから、あまり突っ込まないほうがいいよな。


「美来さん、か。あらためて初めましてだけど、今日はここに呼んじゃってごめんね」


「ううん。一人で家にいたくなかったから、丁度よかった」


「え……どうかしたの?」


「今日は私の誕生日で、お酒が飲める年になったんだ。だから小暮さん、お祝いしてよ」


 そう言うと美来は、まだあどけない少女の面影を残す笑顔を、俺の方に向けたんだ。



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