第2話 そこにいた彼女
初夏が近い昼下がり、俺と影山さんとは一緒に肩を並べて、カノカワ出版のビルを後にした。
目指すのは某場所にある、都会のビル群に囲まれた公園とその周辺の通りだ。
そこに、毎日毎日大勢の女性が立ち並んで、男性たちが気ままに声を掛けるのだという。
噂には聞いたことがあるけれど、実際にそこへ足を向けるのは初めてだ。
「小暮さんは、綾子さんの後輩なんですか?」
そこへ向かう途中の電車の中で、すぐ横に座る影山さんが無邪気な空気を発しながら、質問をしてくる。
「ええ、そうですよ。大学の時からのね」
「綾子さんって素敵ですよね。仕事ができてあの若さで課長だなんて。しかも超が付くほど綺麗で。憧れちゃうなあ~」
それは否定しないけれど、入社してほんの数か月の新人が、上司の課長を名前呼びするのだって、只者じゃあないなと思うけどな。
俺なんか、先輩を綾子さんと呼べるようになるまでには、ほぼ二年かかったんだ。
「そうですね。昔からしっかりしていて、面倒見も良かったからね」
「でも最近、彼氏と別れたらしいですよ」
一体なんの話をし出すんだ、この子は。
俺は今、気が乗らない取材へのモチベを上げるのに、全力を注ぎたいんだけど。
「ふ~ん……」
全くその気がないそっけない返事だけを返すと、影山さんがぐいっと迫ってくる。
「小暮さんは、綾子さんに興味はないんですか?」
「……よく分らないけど、なんでそんな質問をしてくるんだよ?」
「だって…… 遠くから見ていて、二人仲良さそうですもん。それに昔からの知り合いなんでしょ?」
その質問への答えとしては、NOだ…… 今は。
大学時代は、綺麗で誰にでも屈託がなくて面倒見がいい綾子さんに、憧れた時間もあった。
知り合ってから一年後には、それが淡い恋心だと気付いたのだけれど、コミュ障の俺がそれを表に出せるはずもなく。
それに、何かにつけて気に掛けてくれる彼女との関係を、壊したくはなかった。
だから、結局は何も言えず終いで。
今の彼女は、俺に仕事を回してくれる恩人であり上司でもある。
それ以外の感情は持っていない…… つもりだ。
「まあその答えは、ノーコメントということにしておくよ」
「は~い、分かりましたあ! 全然興味なしって訳では無さげですね!」
……あのなあ、どこでどうなってそうなるんだよ?
まあ……今はいい。それより、取材の方が大事だ。
まず自己紹介をして、名前を訊いて、何してるの? て質問をして……
頭の中でぐるぐると、お粗末なシミュレーションを回していると、下車駅で電車が止まった。
夏を間近に控えているとはいえ、この汗は暑さからくるものではないだろう。
背中につうっと流れる冷たい感覚を味わいながら、目的の場所に辿り着いた。
そこは噂通りの場所だった。
大して広くもなくて、粗末なベンチくらいしか置いていない公園に、大勢の男女が屯している。
点々と立ち並ぶ女性たちは、みんな普通の子たちに見える。
じっとスマホに目を落としている子、隣の子と会話して笑っている子、落ち着きなくきょろきょろと辺りを見回している子……
中には、異国の顔立ちをした女性たちも交じっている。
そこに男性たちが、何やら声を掛けている。
「じゃあまずは、先輩のお手並みを拝見させて頂きましょうか?」
それまでと変わらない笑顔を宿しつつ、いきなりハードルを上げてくる影山さん。
―― 仕方ない、今の立場上、そうなるよな?
一応先輩社員としては、怯んでばかりもいられない。
誰から声を掛けようか……?
そう思案しながらぐるっと目を這わせてから、人が密集した場所から少し離れたところで、ぽつんと立って暇そうにしている女性に意識を持って行った。
暇なら少しは話をしてくれるかも、そんな単純な理由だ。
俺が歩き出すと、影山さんは少し距離を保ちながら、後ろを付いてくる。
見知らぬ彼女の前まで歩を進めてから、カラカラに乾き切った喉から、シミュレーションした通りの第一声を絞って出した。
「あ、あの…… 初めまして、ちょっとお時間いいですか?」
すると、それまで地面に目を伏せていた彼女は、ゆっくりと俺を視界にとらえて、
「あ、はい……」
と、少し震えるような小さな声で返事をしてくれた。
「えっと…… ちょっと、お話を伺いたくて……」
「お話……?」
「ええ。ここで、何をしているのかなって?」
すると彼女は、緊張をたくさん貼りつかせた俺の顔を睨んで、眉間に皺を寄せた。
「何って……お兄さんこそ、何をしに来たの?」
吸い込まれそうな大きな黒目に警戒の陰を乗せてくる彼女は、まだ若く見える。
きっと俺よりは年下だろう。
正面から見据えて、綺麗な人なんだと気付いてはっとさせられる。
背中まで伸びる真っすぐな黒髪がつやつやと照り光り、赤いカチューシャがそれに華を加えていて。
真っ白な肌の上に、ファッション雑誌の表紙から抜け出てきたのではないかと思うほどの整った目鼻立ちが乗っていて、赤いルージュの唇が艶やかさを添える。
「あの……雑誌の取材なんですよ」
正直にそう応えると、彼女は強張った表情を少しだけ緩くしてくれた。
「警察、とかじゃないのね?」
「ええ、全然違います。俺こういう者でして」
さっと名刺を取り出して渡すと、彼女はそれをひらひらとさせながら眼をやって、
「それで小暮さんは、私がここで何をしているのかが、聞きたいわけ?」
「はい、そうなんです」
「……お金を稼ぐためよ」
ふっと物憂げな表情を見せながら、それでもはっきりと聞き取れる声音で、そう口にした。
その一言に、今この場所に蔓延している喜怒哀楽や欲望、社会の闇、そんなことを感じてしまった。
いきなりの直球の答えに戸惑いを感じながら、更に稚拙な質問を繰り返す。
「えっと、それはどうして? 一体、どうやって?」
「どうって……」
寸刻の間、彼女は困惑の表情で言い淀んでから、すっと俺に目の照準を合わせた。
「知りたかったらお兄さん、三万円でどう? それで何でも答えてあげるし、私を好きにできるわよ?」
やっぱり、そういうことなんだ。
男性からお金をもらって肌を重ねる、そのためにここにいる。
分かっていたはずなのに、正直ショックだったし、何かが心に引っかかった。
人目をぐいぐいと惹くほどに綺麗で、街を普通に歩いているっぽいこの子が、そんなことを……
もちろんそれもあるのだけれど、そんな言葉を発した彼女が、決して喜んで、いや喜ぶことはないにしても、納得してそうしているようには映らなかった。
むしろ、心の奥の痛みに耐えながら平静を偽装しようとしている、一瞬だけだったけれど、彼女の儚げな表情がそんなことを訴え掛けている気がしたんだ。
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