第6話 天体観測
『このあと二時に、天流駅の踏切で待ってる』
僕は送信したそのメッセージを何度も確認する。
腕時計は、一時五十八分を指している。
深夜二時。
こんな時間に外に出たのなんて、はじめてのことだ。
しかも、家から二時間以上かかる登山鉄道の途中駅──深夜バスと折りたたみ自転車を駆使してどうにかたどり着こうと画策していたところを、兄貴に見つかった。
乗せてやるよ、と兄貴は言った。
毎週末いそいそと出かけていったり、望遠鏡を借りたがったりする僕の様子に、何か感じるところがあったらしい。
大学二年の兄貴は、課題が忙しいとかでほとんど家にいないのに、よく見ているものだな、と感心した。昔から、家族のちょっとした変化にも気がつく人だった。
ともあれ。
この夏に免許を取ったばかりの兄貴の運転で、僕はこうして天流駅にたどり着けたわけだ。
しかも、気を利かせた兄貴は「じゃあ、せっかくだからドライブしてくるから」と僕をひとりにしてくれた。
「……兄貴には、しばらく頭が上がらないな」
天体望遠鏡に、キャンプ用のランタン、明け方の冷え込み対策のブランケットに簡易的な椅子、それから兄貴が持たせてくれたトランジスタ・ラジオ。
全部リュックに詰め込んで、馬鹿みたいな大荷物になっていた。
こんなもの、とうてい一人では運べなかっただろう。
大きく深呼吸をする。
夜の湿った空気を吸い込んで、吐き出す。
夏とはいえ、真夜中の山は冷えていて、鼻の奥がツンと痛んだ。
待ち合わせの時間まで、あと少し。
何もない田舎駅の前は、信じられないほどの暗闇に包まれている。
──だから。
遠い暗闇にチラつく懐中電灯が、まるで一番星みたいに煌めいて見えた。
「……維麻」
僕は手に持っている懐中電灯を大きく振ると、遠くの星も左右に小さく揺れた。
たまらずに、駆け出す。
維麻は片腕が動かない。それに、僕には言っていないけれど視力も落ちてきているようだった。病は、確実に進行している。
少しでも早く、維麻の身体を支えてあげたかった。
パジャマ姿のままで歩く維麻が、僕の顔を認めてくしゃりと笑った。
たぶん……というか、ほぼ確実に維麻は無断で病院を抜け出してきたはずだ。僕の突拍子もないメッセージをよすがに、ここまでやってきたのだ。
「維麻!」
「和也……きみ、やってくれたね」
足元も覚束ない状態なのに、維麻はひどく楽しげで。
「むちゃくちゃな我が儘で人を振り回すのは、私の専売特許なはずなんだけどな?」
「それは誰よりもよく知ってるよ」
「うん、そうだったね」
だから、僕も思わずつられて笑ってしまう。
もしも誰かに見つかったら、補導まっしぐらだ。受験の天王山とかいう中三の夏を維麻との時間に費やしてきた僕だが、本格的に高校受験どころではなくなってしまうかもしれない。
「歩ける?」
「そうだね、気分がいいんだ。どこまでだって歩けそう」
満点の星空のもとを歩くパジャマ姿の維麻の手を取る。
そうしないと、本当に、どこか遠くに行ってしまいそうな気がして、怖かった。
ゆっくりと時間をかけて、僕たちは天流駅まで戻ってきた。
ここからプラネタリウム跡地までの四十分の道のりなんて、到底歩けそうにない。
維麻もそれをわかっているのか、駅前のベンチに腰を下ろした。
民家も商店もほとんどない駅前。
地上には暗い闇が満ちていて、空には満点の星空。天の川が横たわる夏の夜空は、じっと見つめていると怖いくらいだ。
空を、見上げていた。
ベンチに並んで座る僕らの周囲だけが、静寂に包まれていて。
「……夕方の雨、ほんと、なんだったんだろ」
維麻が呟いた。
頭上の星々には、ひとつの雲もかかっていない。
「ホントだね」
「でもさ、こうやって病院抜け出してさ、こんな真夜中に出歩いて……なんか、すごく楽しいね」
「肝が据わってるな。ていうか、病院、抜け出せてよかった」
「そりゃ、あの病院の患者でいちばんの古株だからね?」
つまり、維麻よりも前に入院していた患者たちはもう──。
維麻にまとわりつく死の匂いが、日に日に濃くなっていく。
僕は不安を振り払うように、首を振る。
兄貴から借りた簡易な天体望遠鏡を組み立てた。
望遠鏡の三脚の組み立ては難航した。
不慣れなうえに暗闇の中での作業に、手元が覚束ない。
やっと組み上がってからも、肝心の彗星を探すのに時間がかかった。
彗星とはいっても、アニメのように巨大で虹色に光っているわけではない。
満点の星空の中から見つけ出すのには、かなり骨が折れそうだ。
僕がスマホで彗星の位置を確認していると、維麻が出し抜けに言った。
「きみは、星って呼ばれてるあれが、本当は何か知っている?」
「え?」
夜空を見上げている維麻の横顔に、思わずみとれてしまった。
維麻の薄い身体が、呼吸に合わせて上下している。
「……星は星だろ。正確に言えば、恒星だよね。自分で燃えてる星の光」
僕は理科で習った知識を思い出しながら答える。
これじゃ、なんだか本来、僕が精を出しているべき受験勉強みたいだ。
「そうじゃなくてさ」
維麻はイタズラっぽく、歌うように言う。
「あれは、本当は『過去』なんだよ」
「……かこ?」
謎かけみたいな答えに、僕は首を捻った。
「星の光は、長い時間をかけて私たちのもとまで届くでしょ? 恐竜が生きてるときに宇宙を旅してた光とか、縄文人のカップルが初キスしたときに光った光とかが、今まさに私たちが見ている光なわけ」
わかるような、わからないような。
僕は黙って、維麻の講義に耳を傾ける。
「だからさ、こうして私たちが喋ってるときに宇宙を旅してた光が、何年後か、何十年後かに地上に届くんだよ」
「……たしかに、そうなるね」
「こんなに星があるんだからさ、色んな時間の色んな光が、ここに降り注ぎ続けてるんじゃないかなーって思うんだ」
維麻の口調は、なんだか祈るようだった。
「あの光は、ありとあらゆる『過去』が『今』に向かって光ってるんだ」
「なんか、壮大すぎて怖いな」
「そう? 私、そう考えるといつもホッとするんだ──私が死んだあとも、私の生きてた時間は光り続けるんだって思えるから」
ああ、なんで。
どうして維麻は、自分が死んでしまうことを軽々と口にするんだろう。
また何も言えずにいる僕が吐き出す沈黙が、夏の空気を重くした。
「ね、はやく彗星を見よう」
重くなった空気を吹き飛ばすように、維麻がはしゃいで見せてくれる。
僕は維麻に急かされるままに、また望遠鏡を覗き込んだ。
◆
ザネリ彗星は決して明るい彗星ではない。
肉眼では、いわゆる四等星に相当する明るさだとか。
視力が低下してきているであろう維麻にとっては、肉眼でとらえるのは難しい。だからこそ、この望遠鏡が必要だった。
だって、維麻にはちゃんと目に焼き付けていてほしい。
……一生、忘れられない思い出を。
「ああ、もう!」
それなのに。
全然、肝心の彗星が見つからない。
まったく、本当に格好がつかなくて嫌になる。
「あはは、どうしたの。和也がそんなにイライラするなんて珍しいね」
「ごめん。俺、そんなにイライラしてた?」
「わ、『俺』だって! まったく、大人になっちゃってさ」
「全然、大人じゃないよ」
悲しいくらいにいつも通りの維麻のテンションに、ちょっとだけ気持ちが落ち着いてきた。
「本当の大人なら、維麻をつれてどこにだって行けるのに」
偽りのない、僕の気持ちだった。
土日の僅かな時間しか、維麻に会えない。
深夜になれば家から出ることだっておっかなびっくりで、今夜ここまでやってくるのだって、兄貴の力にかかりきりだった。
「それは、大人を買いかぶりすぎかもね」
「……維麻だって、僕と同い年のくせに」
「大人にだって、ままならないことはあるんだよ。たとえば、謎の病気の治療法とかね」
僕は、ずっと思っていたことを、口にした。
今だったら、言える気がした。
「……維麻の、そういうところ嫌いだよ」
維麻は少しびっくりしたような顔をしてから、静かに呟く。
「そういうところって、どういうところ?」
「ほら、そうやって。なんだよ。その物わかりがいい感じ、こっちが困るよ」
「……ほんとは、物わかりなんてよくないよ」
僕のひどい言葉に、維麻は少しも怒らなかった。
「私もね、私の、何もかもわかってますって顔して悟ったようなこと言うところ、嫌いだよ……和也、ありがとう」
「……なにが」
「私の嫌いな私を、一緒に嫌ってくれて」
「うん」
「そんな私と一緒にいてくれて、ありがとね」
「……うん」
「私、きっとこの夏のこと一生忘れないよ。っていっても、一生っていっても残り少ないんだろうけど……さ」
「ほら、また!」
僕のツッコミに、維麻は口を開けて大笑いした。
維麻が心から笑っているのを見るのは、本当に久しぶりだ。
僕はまた、夜空に視線を戻す。
彗星を、見つけなくちゃ。
「……あった」
小さな楕円形の、ぼやけた点。
望遠鏡でやっととらえたそれは、拡大するとたしかに彗星だった。
短い尾っぽが、太陽の方向に伸びている。
「維麻、ほら見て!」
ブランケットにくるまっていた維麻が、もぞもぞと動く。
少し顔色が白くなっているような気がして、ハッとする。
「……寒くない? 大丈夫?」
「うん、ちょっとクラッとしただけ」
維麻は、ぐっと親指をたてて望遠鏡を覗き込む。
倍率の高い望遠鏡ゆえに、少しの揺れでも対象がズレてしまう。
そうならないように慎重に、維麻の肩を支えた。
「ほら、見える?」
「……見える。たしかに、ネットで見た写真と同じ」
維麻は望遠鏡を覗き込んだまま、黙り込む。
僕は維麻と同じものを見ようと、夜空に目をこらす。コンタクトレンズのおかげで視力は良好だ。
一度見つけてしまえば、もう見失うことはない。
「どう、維麻? あれがザネリ彗星。百年に一度しか見られない、フェアな彗星だ」
「……うん」
百年周期で地球を訪れる、周期彗星。
僕たちが今見ているアレが去ってしまえば、僕も維麻ももう二度とあの小さな天体を生涯で見ることはない。
きっともうすぐ死んでしまう維麻も、たぶん彼女よりも長い人生を歩む僕も、宇宙の周期のなかでは等しくちっぽけな存在なのだ。
「ねえ、和也。思ったこと言っていい?」
魅入られるように望遠鏡を覗いたまま、維麻が言った。
「何?」
「彗星って……思ったより、地味なんだね」
ぶっ、と思わず吹き出してしまう。
天真爛漫で、歯に衣着せぬ東条維麻の本領発揮だ。
小学生の頃、引っ込み思案だった僕をどこへでも連れていってくれた、僕の恩人。そして──。
「そういうとこ。ほんと、好きだな」
「お?」
「維麻のことが、好きだって言ったんだよ」
ずっと秘めていた言葉が、ぽろりと零れてしまった。
ああ、でも。
もういいんだ。
だって、目の前にいる維麻に伝えないでいる理由なんてないんだから。
「あの恥ずかしい手紙書いたときから、ずっと変わらず好きだよ。維麻」
「一途だねぇ」
「そこ、茶化す?」
「まさか」
維麻が、ゆっくりと、望遠鏡の前から立ち上がる。
「……私もずっと、和也が好き」
でも、と維麻は続けた。
「ごめんね……好きって認めちゃうと、死ぬのがもっと怖くなっちゃいそうだったから。和也とはもう、こうやって一緒の時間を過ごせないって認めるのが辛くなっちゃいそうだったから」
だから、ずっと言えなかった。
維麻は泣きそうな顔で、笑った。
「これさ、私たち両思いってことじゃんね?」
「まあ、そうだね」
「じゃあ、私はきみの彼女ってわけだ」
「そ、」
そういうことに、なるのか?
思考回路が焼き付きそうだ。
「で、きみは私の彼氏!」
維麻が声を弾ませる。
けれど、その声は震えていた。
「悪い彼女だから彼氏クンを置き去りにしちゃうよ」
「……一生忘れないよ」
だから、僕は何度でも伝える。
「どの思い出も地味だったし、彗星だってアニメで描かれてるみたいな虹色に輝く派手な天体ショーじゃなかったけど、それでも──」
僕は絶対に忘れない。
これから、誰とどんな思い出を作っても、絶対に今夜のことを思い出す。
……維麻と過ごした時間を、何度だって探し出す。
一息に伝えると、維麻は満足そうに笑った。
そうして、僕の頭をぽふぽふと撫で回す。
「……ひとつくらい奇跡が起きたらいいなって、ずっと思ってた」
奇跡でも起きない限りは治らない、彼女の病気。
自分の感情に殺されていく、理不尽な病。
運命を、きっと何度も呪ったに違いない。
それでも維麻は、いつだって笑っていた。
「でもさ、起きたわ。奇跡。あの弱虫の和也が、こんなに立派になってさ」
「それこそ、奇跡っていうには地味すぎるよ」
「そんなこと──」
維麻と僕の軽口のやりとりを遮るように。
星が破裂したかのように、明るくフラッシュした。
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