第3話 彗星がやってくる


 中学生の小遣いと、土日という限られた時間。

 僕と維麻は、毎週のように顔を合わせていた。

 図書館に行く、と言って出かけている手前、親には「もう受験モードになったのか」という変な期待を抱かせてしまっているのが申し訳ない。

 

 しょぼい山の展望台からの眺めを楽しんだ。

 ちいさな物産市をぶらついた。

 みかん畑に大量発生した蝶々をカゴ一杯に捕まえた。

 始発駅から終着駅まで、思い出を探して歩いた。


 けれど。

 僕たちの「一生の思い出」作りは難航したまま、六月を迎えていた。


 乗り込んだ登山鉄道の窓を開けると、外の空気が流れ込んでくる。

 僕はほっと一息ついて、維麻の隣に腰掛けた。


「蒸し暑いな……」


 半袖のシャツに薄手のカーディガンという服装でも、梅雨の湿気で汗が噴き出てくる。


「っていうか、何もなさすぎない?」


 ペールオレンジのストライプシャツの胸元をぱたぱたと仰ぎながら、維麻がぼやいた。


「いや、だから言っただろ」

「うっ。まー、あれだよ。『面白きこともなき世を面白く』ってやつだよ」

「……何、それ」

 

 ──面白きこともなき世を面白く、住みなすものは心なりけり。

 維麻が得意げに暗唱する。


「高杉さんって人の辞世の句だって。SNSで絡んでくるおじさんのプロフによく書いてあるから調べた」

「おじさんに絡まれるの!?」

「たまにね。それで調べてみたんだけどさ、昔の人の名言的なの、けっこういいこと言ってるんだよ」


 いいこと言ってるから名言なのだと思うけど。

 すばやく、維麻はスマホを取り出した。


「病院、つまんないんだもん。本読んでるか、スマホいじってるか」


 慣れた手つきで、通知をタスキルしている。

 たしかに、維麻からのメッセージはひっきりなしに届く。

 僕が学校で過ごしている間、維麻は病室でひとり過ごしているのだろうか……と考えてしまう。

 こんなに活発な維麻が、僕にばかりメッセージを送ってくるなんて。つまり、親しくやりとりをする間柄の相手は他にいないのか。

 それは、ちょっとだけ、優越感がある。


「……あ」


 スマホの画面をなぞっていた維麻の指が、ぴたっと止まった。



「ねえ、これ見て!」


 興奮をうっすら声に滲ませている維麻が、スマホ画面を僕に見せようと身体を寄せてきた。

 近い。近いって。

 小学校の時にはなんとも思わなかった価値観だけれど、変に意識してしまって、変な声がでた。

 なんか、いい匂いがするし。

 せっけんみたいないい匂いと──消毒液の匂い。

 それが、維麻の髪からふわりと香った。

 少しだけ悲しい気持ちになって、僕は「ちがうだろ」と心の中で呟いた。


 僕だけは病人としてではなくて、維麻として接したい。

 そう、決めたじゃないか。

 わざとらしくならないように、慎重に返事をする。


「見てって、何?」

「これ、これ。彗星だって、百年に一度の!」


 簡単なネットニュースだった。

 約百年に一度の周期で観測されるザネリ彗星が、今年の八月半ばに地球に接近してくる。

 日本からも観測できるそうだ。


「八月か」


 夏は受験の天王山。

 このところの学年主任の口癖だ。なんだか響きだけはかっこいい。要するに、中学三年の夏休みというのは受験勉強に精を出せというスローガンだ。

 

「いいね、すごくいい」


 維麻は一人で勝手に納得したように、何度も深く頷いている。


「いいって、何が」

「この彗星を、一生の思い出にしようよ。それがいい」

「なんだよ、それ。じゃあ、僕らのゲームは意味がなくなっちゃうよ」

「細かいことはいいよ。だって、このゲームの勝敗なんて、私の気持ち次第だし」

「それ、言っちゃう!?」


 思っていても、言わないでおいたのに。


「あはは。怒らないでよ。心なりけり、心なりけり!」


 昔の偉い人の辞世の句(よく考えたら、縁起でもない!)を口ずさんで、維麻は機嫌が良さそうだった。

 

「フェアでいいよ、百年に一度だもん」

「……フェア?」

「そう。すごくフェアだよ。だってさ、私はもうすぐ死んじゃうけど、きみは長く生きるでしょう?」


 僕は、上手に返事ができなくて黙り込む。

 かまわずに、維麻はおだやかな口調で続けた。


「私が経験しないものを、きみはこれからたくさん経験する。私にとっては一生の思い出でも、きみにとってはそうじゃない可能性が高いじゃん。こうやって登山鉄道にだって、きみはこの先、違う誰かと一緒にまた乗っちゃうかもしれないでしょ? それって、ずるいじゃん」


 いつも歯切れがよくて、ぽんぽんと会話が弾む維麻とのやりとり。

 こんなに長々と喋る維麻は、なんだか新鮮だった。


「そんなことない、と思うけど」

「そんなこと、あるんだよ。きみは生きて、いろんな思い出を上書きしていってしまう。それってフェアじゃないじゃん」


 淀みなく紡がれる維麻の言葉は、きっと今まで心のなかで何度も何度も繰り続けていたものだ。


「この彗星だったらさ、東条維麻と見たぞって思い出だけが和也の中に残るでしょ?」


 それって、とってもフェアだと思う。


「……そうだね」


 僕は頷いた。

 この世界から途中下車してしまうことを、維麻は深く悲しんでいるのだ。

 ──僕が始発から終点まで電車を乗ることが好きなのは、途中下車するのが嫌だからだ。この先で見える景色や、電車が走るカーブ、何もかもを味わうことができないから。

 終点で降りるときにはいつも、満足感で足取りが軽くなる。


 けれど、維麻は。

 彼女はこの先、遠からず人生という名の電車から降りていく。

 どんなに悔しいか、悲しいか。

 けれど、維麻はそんなことをおくびにも出さずに僕の隣で微笑んでいて。

 激情によって悪化する病気を患う彼女は、感情をコントロールする術に長けている──そうすることで、今日までを生きてきたのだろう。


 スマホを握る維麻の手に、僕はそっと自分の手を重ねた。

 心臓が痛いほどに脈打っている。


「え、ちょ、和也?」

「わかった。八月の彗星、ぜったい維麻と一緒に見る」


 維麻の体温が、少し上がったのを感じる。

 ……これ、「感情の昂ぶり」じゃないよな?


 そっと、維麻の様子をうかがう。

 体調は悪くなさそうだ。

 本当はもっと、強く維麻の手を握りたい。

 けれど、どうしようもなく気恥ずかしくなってしまって、そっと手を離した。これ以上こうしていたら、僕の手がみっともないくらいに手が細かく震えていて汗ばんでいるのが、維麻にバレるような気がした。


「ご、ごめん」

「別に謝るようなこと、何もないじゃん」


 維麻はいつもの調子、に見える。

 いつも怖いくらいに白い維麻の肌が少しだけ紅潮しているように見えるのは、僕の自惚れじゃないといいなと、神様に祈った。


「僕の家にさ、兄貴の天体望遠鏡があるんだ。安いやつだけど」

「いいね、八月が楽しみだな」


 八月。二ヶ月先の約束。

 それが、維麻にとって現実的な約束なのかは、考えないようにした。


「うん。いいね、すごくいい」


 維麻はまた、僕にはわからない理屈の美しさに納得している。

 そんな姿は、なんだか僕よりもずっと年上に見えて。

 あるいは、とても幼い女の子のようにも見えて。


「やっぱり……、夏がいいよ」


 すぐにでも、維麻が遠くに行ってしまいそうで怖くなる。

 蒸し暑いはずなのに、ひやりと涼しい風が肌を撫でたような気がした。

 







 ──八月十五日。

 その日、百年に一度やってくるザネリ彗星が地球にもっとも接近する予定だ。


 彗星がいちばんよく見えるのは、太陽の光を反射しやすい日の入り前の夕方と夜明け前の朝方らしい。僕たちは中学生なので、そして、維麻は病院住まいなので、もちろん朝方の天体観測はNGだ。


 いや、本当はそれだけが理由ではない。

 維麻の体調は、八月に入ってから目に見えて悪化していた。





 ……先週、維麻は待ち合わせをしていた電車に乗り込んでこなかった。

 僕はあまりにも心配で、勝手に維麻の入院している病院に行ってしまった。

 デリカシーがなかったし、自分の不安を拭い去ることにばかり意識がいっていて、維麻の気持ちを考えていなかったのだな、と今になればわかる。


 妙なくらいに清潔な病院の、最上階の一番奥。

 東条維麻、という名札のかかった病室。

 そこには、いつも鮮やかな色の服をまとって元気そうに振る舞っている維麻はいなかった。

 すっかり痩せて、薄っぺらい身体に病院の寝間着。

 嫌でも、思い知らされた。

 

 ああ、維麻は病人なんだ。

 きっと助からない、病気なんだ。

 

 僕の姿を見つけた維麻は、悲しさと絶望をない交ぜにしたような表情で息を呑んで──それから、怒って、怒って、怒りまくった。

 いつも静かに微笑んで、プラスの感情もマイナスの感情もけっして溢れてしまわないようにしている維麻が地団駄を踏んで怒っていた。


 どうして。なんで、来るんだよ。

 きみの前でだけは、ずっと元気な維麻でいたかったのに。


 そう、維麻は激昂していた。

 激しく感情を昂ぶらせて、僕を責め立てていた。


 だめ、だめだ。

 そんなことをしたら──。




「ねえ、ごめんね。和也」




 ひとしきり喚いて、維麻はぽつりと謝ってきた。

 ふらふらとした足取りで、僕の胸に倒れ込んできて。

 維麻の命がこぼれ落ちていくのが怖くて、その薄い身体を強く抱きしめることしかできなかった。


「わたし、こんなに怒ったの、いつぶりだろ」


 あはは、と。

 いつものような、ちょうどいい温度の笑い声をあげる維麻。

 僕はもう何も言えなくて、ただ彼女を抱きしめる。

 もっと僕の手足が長ければ、彼女をもっと強く、自分の腕の中に閉じ込められるのに。

 十五才の、中途半端な身体が、恨めしかった。


「なんか、生きてるってかんじするわ」

「馬鹿。なに、言ってんだよ」


 ずっと、我慢してきたんだろう。

 泣きたいことも、叫びたいことも、踊り出したいことも。

 同じ年の女の子なら当然持っているであろう喜怒哀楽を、この小さな身体に閉じ込めて、飄々と微笑むことを覚えて、我慢してきたんだ。


 そんな維麻が愛おしくて。

 維麻の努力を台無しにした自分が、本当に許せなくて。


「……和也、泣いてるの?」


 泣いてなんかないよ、だなんて見え透いた嘘はつけなかった。

 情けない僕を、維麻は笑った。

 騒ぎを聞きつけたお医者さんや看護師さんが病室にかけこんでくるまで、維麻はずっと、笑い続けていた。




 激情進行性脳機能不全症候群。

 感情を昂ぶらせるごとに、身体の機能を奪われていくクソッたれな病気。





 その日を境に、維麻の右腕は動かなくなった。




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