第2話 一生の思い出


 翌日、僕たちは昨日と同じ時間を楽しんだ。

 揺れる列車に、僕たちの笑い声が響いていた。

 電車の走行音もパンタグラフの擦れる音も車窓の景色すら気にならないことも、こんなに笑うことも、普段の僕からしたらありえない。

 けれど、維麻の隣にいることだけが当たり前のことに思えた。

 寝不足気味ではあったけれど、やっぱり維麻と過ごす時間はあっという間だった。


「ねえ、和也は本当に電車に乗ってるだけなの?」

「そうだよ、乗ってるだけ」

「観光も、お散歩もなし?」

「まあ、たいていはね」


 観光とお散歩が維麻のなかでどうやら別物らしいのがおかしくて、僕は思わずこみ上げてくる笑いをこらえるのに必死だ。

 もちろん、隣に座る維麻にはバレてしまって、不満げに睨み付けられる。

 上目遣いに頬を膨らませている顔には、やっぱり幼い頃の面影があって。


「ねえ、和也。きみ、今、私のこと笑ったでしょ」

「ごめん」


 それと同時に、気がついた。

 今の彼女は、僕よりもずっと背が低い。

 僕自身、クラスの中で大きいほうでもない。

 記憶の中の維麻は、僕よりも少しだけ背が高かったはずだ。僕らの間にある共有できなかった時間が、僕らの背丈の違いとして表れている気がした。


 維麻が僕の手紙への返事もなく姿を消してからの日々。

 そんなものはなかったかのように、維麻の隣にいることは僕にとって自然なことのように思える。


「観光はともかく、お散歩って」

「いいじゃん。お散歩」

「目的もなく歩くって、変なかんじなんだよね」

「……目的って、そんなに大切かなあ」

「僕が言うのもなんだけど、あったほうがいいものなんじゃない?」

「そんなものかなぁ」


 また、寂しそうな横顔。

 僕が声をかけようと息を吸ったタイミングで、維麻が口を開いた。


「別にいいけどさ。せっかく出かけるなら、色んなこと体験すればいいのに」

「体験、って言ってもなぁ」

「そっちは計画立てるの、得意なんでしょ? 何事も経験っていうじゃん」


 僕にとっては、始発から終点まで乗車して見聞きすることこそが「経験」なのだけれど。

 それを包み隠さず伝えると、維麻は不思議そうに首をかしげる。

 打ち明けた僕の乗り鉄趣味を、維麻は馬鹿にすることも軽んじることもなかったけれど、やっぱり少しばかりの食い違いは発生するのだ。

 そりゃあ僕だって、手頃で有名な観光名所でもあれば、時刻表の隙間に立ち寄ることもあるのだけれど。


「もったいないよ、ただ電車に乗ってるだけなんて」

「んー……そんなこと言っても」

「いいじゃん、ふらり途中下車の旅。思い出、作ろうよ」

「このあたりに思い出になるような特別な場所なんて何もないよ」


 何の気なしに呟いた、僕の言葉。


「始発駅があって、終点駅があって。その間にめぼしい観光名所も繁華街もない。目的地になるような場所がない……そういう路線なんだ」


 それが維麻を憤慨させた。


「それ、なんかやだ」


 頬を膨らませて、唇を尖らせて。

 なぜか泣き出しそうな顔で、そう言った。


「……ごめん」

「とりあえず謝るの、昔からの悪い癖」

「ご──」


 謝りたいという態度を示すための謝罪の言葉を突っぱねるのも、維麻の悪い癖だよ──とは言えなかった。


「許さないもん」


 ほら、でたよ。

 維麻はこうやって、僕をいつだって振り回す。

 分厚い電車の時刻表通りに電車がやってくるのが好きだ。

 そんなふうに計画通りにものごとが進むことに無情のよろこびを感じる僕が、維麻みたいな行き当たりばったりの、気まぐれとイレギュラーが女の子の姿になったみたいな子のふくれ面に──どうして、こんなに心がずくずくとするのだろう。


「なんだよ、許さないってさ」

「見つけてよ」


 み、つ、け、て、よ。

 ゆっくりと動く唇に、僕は目を奪われる。


「この路線にある素敵な場所、見つけてよ」


 素敵なものを、探そうよ。

 維麻は言った。


「あるかもしれないじゃん、一生の思い出にあるような素敵なものがさ。この路線にも」


 彼女の言葉が、なんだか、ひどく切実に聞こえて──僕は、無言で頷いた。


「そうだね、あるかもしれない」

「罰ゲームの覚悟は?」

「うっ」


 維麻は罰ゲームが好きだった。

 それはパピコ半分この刑とか、一緒に冒険の刑とか、とうてい罰ゲームにはならないものばかりだったけれど。

 

「よーし、決めた」

「……謹んでお受けします」

「和也。きみはこの寂れた登山鉄道で一生忘れ慣れないレベルのすーっごく素敵な思い出になる場所を、私と一緒に見つけてください」

「難易度高っ!」

「罰ゲームだから当然でしょ。そのかわり、ちゃんと見つけたら──」

「見つけたら?」


 維麻が、とびきりのイタズラを思いついた笑顔で僕の顔を覗き込む。


「……あの手紙、きみに返してあげる」

「い、」


 いいね。

 いいの?

 いらないよ。

 今更?

 

 ──どの言葉を吐き出すべきかわからなくて、ぐっと喉がつまった。


「ふふふん、黒歴史を握られている気分はどう? きみの誠意によっては、ちゃんと返してあげます」


 黒歴史って。

 別に、そんな風には思っていないけれど。

 でも、たしかに、あの手紙がうっかり誰かの目に触れたら……と思うと、かなり恥ずかしい。


「……維麻、性格悪くなった?」

「そう? まあ、色々あったからね」


 かつての維麻だったら、勝ち誇ったように大笑いしてただろう。

 目の前の美少女は、にまっと楽しげに笑うだけ。

 それが余計に、維麻の大きな猫目を魅力的に見せた。


「まあ、どうせ僕に断る選択肢はないんでしょう」

「もちろん。ふふ、いい罰ゲームだ。……死ぬまでの暇つぶしには、ちょうどいいね」


 喉につまったものが、つめたく冷えて身体の中に落下してきた。

 聞き捨てならないセリフが聞こえたのだから、当然だ。


 なんだよ、死ぬまでのって。



「死ぬまでのって、何それ」


 僕の質問に、維麻はしれっと返事をする。


「そのまんまの意味だよ。私さ、あんまり長く生きられないんだ」


 昨日の夜は眠れなかったんだ、くらいの軽やかさで維麻は言った。

 なんだよ、それ。


 僕が何も言葉を返せないで無様に口をぱくぱくさせていると、電車が止まった。終点まで行って、折り返してからしばらく経っている。


 もうすぐ、維麻の降りる駅に着いてしまう。


 あの駅には、難病の専門施設と終末期医療病院がある。

 それしか、ない。


 始発から終点まで乗っても二時間もかからない路線の、ほとんど誰も降りない途中駅だ。



「……げきじょうしんこうせいのうきのうふぜんしょうこうぐん」

「ゲキジョウシンコー……なに?」


 維麻は、聞いたことのない病名をすらすらと口にした。

 きっと彼女にとっては、日常的に触れる言葉なんだ。


「だから、激情進行性脳機能不全症候群。それが私の病気ね」

「そう、なんだ」

「治療法ないんだ。余命は平均して五年ってとこ」


 五年。

 僕は言葉を失った。


「簡単に言うとさ、感情が昂ぶると病気が進行しちゃうんだ。脳の……私の場合は、特に生命維持に関わる脳幹に不可逆的な症状の進行が現れるの」

「維麻は、いつからその……」


 その病気になったの。

 僕が最後まで質問する前に、維麻はぴしゃりと答えた。


「五年前」


 五年前といえば。

 小学生だった僕の前から、維麻が忽然と消えてしまった頃だ。


「じゃあ、アメリカに移住って嘘だったの……?」

「半分は本当。この病気、日本では全然治療ができない。薬もないし、積極治療もできない。だから、アメリカで治験に参加した」


 効果は、とは尋ねられなかった。

 ここは日本で、維麻がここにいる。

 それが、答えだ。


 維麻は、生まれた国に死を待つために戻ってきた。


「本当は、元の街に戻ろうかってお父さんが言ってくれたんだ。でも、そんなの余計に辛くなっちゃうだけでしょ」


 にや、と維麻は笑った。


「病気のこと、知り合いに話すのはじめてだ」

「……ごめん」

「だーから、謝るのやめてってば」

「うん、そう……だね」


 上手い言葉がみつからなくて、何も言葉にしないことにした。

 僕は、卑怯者だから。


「ああ。感情の高ぶりって言っても、特にマイナスの感情がよくないんだよ。楽しいとか、嬉しいとかなら、ちょっとくらいなら大丈夫」


 何が、大丈夫だよ。

 楽しいが、嬉しいが、維麻の命を短くするなんて。


 目を閉じる。

 電車の発する音がする。

 維麻が降りる駅が、近づいてくる音。


「……わかった」


 なんとか、それだけ口にした。

 僕が感じている絶望とか、理不尽さとか。そういうものを、とっくに維麻は感じてきたはずだ。

 その感情の昂ぶりすらも、病気を進行させるはず。

 維麻がこうして平気な顔をしているのに、僕が泣いたり叫んだりして何になる。むしろ、維麻の心を乱すだけだ。

 きっと、目の前で微笑んでいる維麻は──どうして、笑っていられるんだろう。


「わかったって、なにを?」


 維麻の声が、僕に問いかける。

 偶然の再会から、ずっと違和感があった。

 僕が知っているの維麻は、もっと大笑いする人だった。 

 日焼けがなくなっていたからでも、ほっそりと痩せていたからでも──はっとするような美人に成長していたからでもなかった。

 それだけでは、なかった。


 ……維麻が、ぜんぜん、笑っていなかったからだ。


「探すよ、この路線にある素敵なもの。一生の思い出になるような」


 維麻が、少しでも、嬉しそうにしてくれたら。

 僕がそう思うのは、エゴだ。

 だって、それは維麻の命を縮めてしまう。


「一緒に、探そう」


 やっと選び出した僕の言葉に、維麻が笑った。


「うん!」


 本当に嬉しそうに、維麻が笑った。

 彼女の命が心配になってしまうほどに。

 

「例の手紙、ちゃんと返してね」

「返してもらえるように、頑張ってくれたまえ」

「うん」


 僕がどうにか頷くと、電車が小さく軋んで止まった。


『……天流駅、天流駅』


 維麻が立ち上がる。

 明日は月曜日で、僕は学校に行かなくちゃいけない。


「また、来週。いつでもメッセしてね」


 ちょっとスマホをかざして立ち上がった維麻は軽やかに電車から降りて、振り返りもしないで去っていく。

 その足取りは、余命わずかな病人にはとても見えなかった。

 その背中を、僕はただ見つめることしかできなかった。





 ゴールデンウィーク明けの学校は、浮ついていた。

 僕たち三年生の教室はさすがに受験モードに移り変わろうという雰囲気がある。

 浮かれたざわめきとお互い探り合うようなチクチクした囁き声が混ざり合う汽水域に、僕は沈んでいた。


 昨日ベッドの中で延々と調べていたことを頭の中で何度も復習する。


 ──激情進行性脳機能不全症候群。


 人間の感情の昂ぶりが、脳機能を破壊していくという悪夢みたいな病気だ。

 維麻が発症した病気について、わかっていることはあまりにも少ない。

 発症するのは、何百万人にひとり。

 原因も治療法も、現在はわかっていないそうだ。

 だから、この病気に対してできることは、なるべく感情を動かさずに生活することだけ。残りは脳や身体の機能低下という、症状の進行にあわせて出てくる不調に対応することしかできない(対症療法、というらしい)。

 そんなの、死ぬのを引き延ばしているだけじゃないか──と、言いようのない胸の苦しさに、とうとう昨夜は一睡もできなかった。


「きゃー、かわいい!」

 

 隣のクラスの女子が、甲高い笑い声をあげた。

 それに釣られたように、女子たちが騒ぐ声がする。

 誰かがキャラクターグッズの新作をスクールバッグにつけてきたか、あるいは彼女たちの「推し」のグッズでも見せ合っているのか。


 ……激情。

 そう呼べるようなものではないかもしれないけれど、感情の昂ぶりには間違いないだろう。きっと、維麻は彼女たちみたいに無邪気に声をあげて笑うことはできない。


 この病気を発症してからの平均余命は、五年。

 維麻は、その五年目を生きている。


 あくまで「平均」だから、その五年から大きく外れて長生きする患者もいるようだ。もちろん、その逆も。

 ……維麻に残された時間は、わからない。

 きっと、このクラスにいる十五才たちとは比べものにならないくらいに、短い命であることだけがハッキリしているわけだ。



 授業が終わって、僕はすぐに帰宅する。

 自室の学習机に置いておいたスマホは、画面がほの光っていた。


 維麻からのメッセージだ。

 七十四件。僕が家を出てから届いていたみたいだ。

 急いで、遡る。


『チラッ』

『ねえ』

『ねえねえねえ』

『連絡くれるの待ってたんですけど?』

『もう学校?』

『こっちは採血終わって、二度寝してる』

『朝ごはんきた、今日は二食パンと白菜のびたびた』

『このゼリーはうまい』


 朝食の画像が添付されていた。

 薄ピンク色のトレイに、プラスチックの四角いお皿。

 トレイの端には、「東条維麻」と名前と一緒に何かの番号やバーコードが印刷された紙が乗っかっている。

 中学校の給食に似ているようで、全然ちがう。

 というか、朝が採血からはじまってるんだ。


 維麻は、何かにつけてメッセージを送ってきていた。

 七十四件のメッセージを遡ると、維麻に返信を送る。


『ただいま』

 

 迷いに迷って、その四文字を送信した。

 なんだか維麻がとても近くに感じて、むず痒い。

 すぐに返信がきた。


『おかえり、学校おつ』

 

 部屋の中でニヤニヤ笑っている僕は、はたから見たらだいぶ気持ち悪いかもしれない。

 学校にいる間に、あれだけ維麻の病気についてぐるぐる考えて悲劇的な気持ちになっていたというのに、我ながら現金だなと情けなくなる。


『土曜日、楽しみにしてるから』


 浮かれたスタンプと一緒に送られてきた。

 片道二時間弱の、僕たちの間にある距離──学校を休むわけにもいかないし、僕たちは会うことができない。


 まるで、天の川に引き裂かれたカップルみたいだねと維麻は言った。

 スマホがあってよかったよ、と僕は答えた。


 他愛のないやりとりをしながら、思う。



 維麻はきっと、同年代との関わりに飢えている。

 だから僕だけは──不治の病を患った女の子ではなくて、東条維麻として、彼女と接してあげたい。


 正直、迷いはあった。

 あまり感情を昂ぶらせるようなことをしてはいけないのかな、とか。

 体調を気遣ってあげないといけないのかな、とか。

 考え始めたら、きりがない。


 けれど。

 維麻はたぶん、そんなことを僕に望んでない。

 もしも僕が、彼女を「病人」扱いをしてしまったら、僕たちの間に決定的な溝が生まれてしまうような気がした。

 守られる人と、守る人。

 病人と、健康体。

 死にゆく人と、見送る人。

 それはたぶん、フェアじゃない。

 織り姫と彦星の間には天の川が流れているけれど、どちらが上とか下とか、そういうものはないはずじゃないか。

 

 それから僕たちは、平日にメッセージのやりとりをして、週末になれば登山鉄道に乗り込んであの登山鉄道の路線で「一生の思い出」を探した。

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