5.二日月


 閉店の直後、薄曇りの空が少しずつ明るさを失っていく頃、何の前触れもなしに愛美あいみ麻里衣まりいの母親がカフェを訪れた。


「……本当にいた! まさかこんなところに!」


「……ママ……!?」


「全く、こんな遠いところまで勝手に来て!」


 母親が喚く声が鬱陶しくてたまらず、愛美の手が耳を塞ごうとしてぴくりと動いたが、母親に見咎められないよう懸命に押さえつけ、何とか動かさずに済んだ。麻里衣は店の奥へと逃げ込んだ。それでいい、そのまま姿を見せないでほしいと強く願う。


「な……何で……」


「競艇場で拾った新聞に愛美の写真があったのよ。カラーのだからわかりやすかったわ。さ、帰るわよ」


 地域新聞の取材の日、ひとみに買い物の用事はあるかと尋ねに行った時に偶然撮られたのかもしれない、後ろ姿だったかもしれない、顔を載せなければいいと思われていたのかもしれない――様々なことが愛美の脳裏をよぎるが、それよりも今は――


「い、いや……、戻らない。黙って出てきたのはわるかっ……」


「何言ってんの! あんたの家はあそこしかないでしょう!」


「……あっ、えっと、外で話そう。ね?」


「はぁ? まあいいけど」


 どくん、どくんと、胸の鼓動が激しく大きくなる。自分の細い声が聞こえなくなるくらいに。それでも、愛美は声を出す。できるだけ冷静に、暴れ出した心臓のことなんか知らないとでもいうように。


「ママ、なにで来たの? 電車?」


 小さく痙攣するように震える手で扉を開けて店の外に出ると、海の上には細い月が顔を出していた。ここに来てからよく見るようになった月は、今日は大きく主張せず、控えめに浮かんでいる。そんな弱々しい光でも目に映ると冷静になれる気がすると、愛美は母親への拒否感が溢れ返る心の隅で思う。


「車だけど? それが何だっていうのよ」


「そう、雨が降るといけないもんね」


 瞳は一人で近所のスーパーに卵を買いに行っているはずだ。すぐに戻ってくるだろうが、それまでに何とか追い出したい、せめて店内では迷惑をかけたくないと、愛美はどうでもいいことを話しながら母親とともに扉の外に出て車五台分くらいの駐車場へ出た。今、停まっている車はない。店内に母親の大きな声が響くより、道路を走る車の音で軽減される方がいい。麻里衣が店の奥から出てきた様子はないからきっと今頃パントリーにいるだろうと思うと、少し安心する。


「ま、レンタカーだけどね。……で、あんた何でこんなとこにいんの? 早くうちに帰りなさい」


「……あたしと麻里衣は、もう帰らないよ。ママとは別れて、ずっとここで暮らすの」


「はっ、バカじゃないの」


「食べるものにも……、生理中のナプキンにも困る生活は……もう、嫌なの」


 愛美のこの言葉に、母親の目が見開かれた。一瞬気圧されそうになるが、負けじとその目を見ながら、愛美は続ける。月は細いけれど、自分を見ていると信じている。


「写真も、売ってほしくない」


「……何を、生意気なことを……あんたたち未成年なのよ? 親の保護なしじゃ生きていけないんだから」


「そう、未成年だから、成長するために栄養が必要なの。手続きとかは……」


「手続きって何? 誰があんたにそんな入れ知恵したの?」


「誰、って……」


「あんたがそんな難しいことわかるわけないのよ! 誰なのよ、よけいなこと言ったの!」


「だ、誰でもない! 自分で考えたの!」


「はぁ!? あんたそんなに頑固だったっけ!? もういいわ、これがあるんだから……! これであんたが言うこと聞かないなら、殺すしか……」


「……えっ?」


 のろいめいたセリフを言いながら母親がハンドバッグから取り出したのは、大きめのナイフだった。ナイフを覆っていた白無地のガーゼ布が、母親の手からはらりと地面に落ちる。すすけた防犯灯の仄白い光で鈍いきらめきを持ったその切っ先は、愛美にまっすぐ向かっている。愛美と母親との距離は約二メートル。女性とはいえ、刃物を持つ大人に立ち向かうなど、細身の愛美には不可能だ。


「こ、殺す……!?」


「誰があんたたちをたらし込んだの! 殺してやる! あんたはあたしのために金づるになっていればいいんだから!」


「だ、誰も、たらし込んだり、して……な……」


「……誰? 愛美、何やってんの?」


「瞳さん!? 来ないで! こっち来ないで!」


 愛美にとってはタイミング悪く、瞳が買い物から帰ってきた。隣には亮平りょうへいがいて、二人とも大きな買い物袋を手に持っている。


「……ねえ、ママ、お願い。そん、な……危ないもの……しまって……、ね?」


「……こいつらね、あんたたちに入れ知恵したのは!」


「ち、違う違う! やめて! 瞳さんは何も……!」


 母親は愛美の懇願する姿を一瞥してから、先端を前に向けたナイフを構えたまま瞳の方へ一歩を踏み出した。距離は四メートルほどだ。その鋭い先端は両手が塞がっている瞳へと一瞬で近付き、無防備な腹を――


「麻里衣……!? 麻里衣! きゃあああああ!!」


 瞳をかばうように割り込んできた麻里衣の腰にナイフが刺さったのと、愛美が麻里衣の名を叫んだのは、ほぼ同時だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る