3.赤い点滅


「お姉ちゃん、ひとみさん……おはよ」


麻里衣まりい、もう大丈夫?」


「うん」


 寝る前に飲んだ薬が効いたようで、二階から下りてきた麻里衣の顔色は良くなっていた。


「麻里衣も来たし、夕飯作ろうか。今日はスペシャルデザートも用意するから」


 瞳がにこりと笑って言うと、麻里衣が「わぁ、楽しみ」と声を上げる。


愛美あいみは? 楽しみじゃない?」


「あ、あたしも、楽しみ」


「そう。じゃあまずは……」


 言い淀んだ瞳に、愛美は冷凍庫から鶏肉を取り出し、「はい」と手渡した。


「何あんた、私がほしいものわかってたの? すごいわ」


「あ、はい、何となく……?」


「そういう気の利く子好きだね。ブラ買ってやるよ」


「えっ、ブラ?」


「でも悪いけど、まずは安いのを二枚ずつかな」


 「二枚ずつ」と瞳は言った。つまり、麻里衣の分も含めてということだ。愛美にはそれがうれしかった。麻里衣のことを気にしてくれるというだけで。


「本当?」


「本当」


 愛美が麻里衣の方を見る。どうやらテーブルを拭きに行っていて、会話は聞いていなかったようだ。


「……月は全部見てるからって 彼女が言うの だから大事にしなさいって あたしに言うの」


 麻里衣が歌を口ずさんでいる。こども食堂に設置されているテレビからよく流れていたコマーシャルソングだ。麻里衣はこの歌を気に入っていたが、家では歌おうとしなかったことを思い出す。


「麻里衣、今日お客さん全然来なかったから、使うテーブルだけ拭いとけばいいよ」


「あ、そうなの? もう、先に言ってよ、瞳さん」


 麻里衣が瞳の声に反応し、布巾を持った手を止めて微笑んだ。安心しきった、柔らかい笑い方だ。前に住んでいた町では見たことのない、かわいらしい表情。弾んだ声も愛らしかった。逃げる前には、聞けなかった声。


「ちょ、ちょっと、愛美泣いてんの? えー、ちょっと待ってよ」


「お姉ちゃん……? どうしたの?」


 うれしい時にも胸がぎゅっと詰まって涙が出るものだと、愛美は知った。逃げた先、たどり着いた先では初めて知ることばかりだ。


「……ったく、もう」


 呆れた風に言いながら、瞳は引き出しからタオルを出して愛美に手渡した。「席に座ってていいから」と言われるままに客席に移動すると、麻里衣が心配そうに愛美の顔を覗き込む。


「よかっ……、麻里衣、笑って……」


「お姉ちゃんが泣いてたら笑えないよ」


「……うん、そう、だね」


「瞳さんも心配してるよ」


「うん……そうだね」


 麻里衣が愛美の肩に手を置き、少しずれていたエプロンの紐を直してくれる。


「ありがと、麻里衣」


 それからしばらく、三人とも無言の時が過ぎていった。やがて愛美が泣き止んだ頃には、瞳の手は夕食を作り終えていた。


「さ、食べな」


「……いただきます」


「お姉ちゃん、このイカおいしいよ」


「私の料理の腕がいいんだよ」


 麻里衣の軽快な言葉と瞳のぶっきらぼうな言葉の取り合わせがおもしろくて、フォークを持った愛美の目がまた潤んだ。



 ◇◇



 瞳のカフェからは、片側一車線の道路を渡るとすぐに浜辺に下りることができる。愛美と麻里衣が生まれて初めての海を見た場所だ。


「うわぁ、大きい月が出てる。満月かな」


「ん、満月だね。雲が邪魔だけど」


 先頭を歩く麻里衣が声を上げ、すぐ後ろを付いていく瞳が答えた。小さな雲が梅雨時期であることを主張するかのように次々とまだ低い月を隠そうとしている。しかし雲は三人が砂浜に立って海と月を見ているうちに風に流されていき、淡く輝く黄色い月があらわになった。


「今日の月、あまり赤っぽく見えないですね」


「ああ、赤っぽい時あるね。ちょっと気持ち悪い感じ」


「……海って、広いですね」


「そうだなぁ、ここは湾だから狭い方だけど。あちら側は隣の県だよ」


 雨が降ったせいでまだ湿っている砂は、時折吹く強風にも巻き上げられずに地面に吸い付いている。ざざん、ざざんと音を聞かせる波を見ながら、愛美と瞳はぽつりぽつりと言葉を交わす。


「……あたしたち、あそこらへんから来たんです」


 暗くてよく見えはしないが、海の向こうの陸地に、大きな煙突の明かりがチカチカと赤く点滅しているのが目立っている。


「あの明かりは火力発電所だったかな、確か。古いやつ。もっと右の方にいくと工業地帯だね」


「そうなんですか。知らないことばかり」


「これから知っていけばいい。……ああ、そうだ、ちょっと電話しないといけないんだった。あんたたちはどこにも行かないで、ここにいなさい」


 そう言うと瞳は離れた場所で電話をかけ始めた。時々道路を通る車のヘッドライトが瞳の顔を照らし、その顔が少し微笑んでいるのが見える。


「瞳さん、あんなに長く電話するなんて珍しいね」


「そうだね。あ、あたしと麻里衣にもスマホ買ってあげたいんだけど全部解決してからだねって、瞳さん言ってたよ」


「ほんと? うれしい」


「あと、とりあえず生活費がいるから、地域新聞でカフェが紹介されるようにするんだって。あたしたちが映らないようにしてくれるって」


「そっか。すごいね。こども食堂に置いてあった小さい新聞みたいなのかな?」


「たぶん、そうだと思う。……麻里衣は、ずっとここにいたい?」


「うん」


「あたし、全部解決させるからね。がんばるから」


「……うん、ありがと、お姉ちゃん」


 何をどうがんばればいいのかなど、本当は愛美にもわからない。ただ、麻里衣を安心させたくて言ってしまった。現実としては児童養護施設に行くべきなのだろうと、わかっていても。


 考え込んでしまった愛美の隣で、麻里衣が「満月きれいだね」とつぶやいた。

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