2.不気味な月


 愛美あいみ麻里衣まりいの親は、母親だけだ。父親は麻里衣が生まれてすぐに家を出て行った。今どこにいるのか、誰なのかも知らない。母親は毎朝出かけて、ギャンブルで遊んで夜に帰ってくる。夜に帰らない日もある。ギャンブルで勝つとたまに菓子パンを買ってきてくれることもあったが、一袋しかもらえず、二人で半分ずつ食べた。母親はだんだん食事を用意してくれなくなったため、仕方なく片道徒歩三十分のこども食堂に通い始めた。


 ほぼ毎日、夜になるとスマートフォンで撮られる愛美の裸の写真は、母親の機嫌を良くした。麻里衣を撮らせたくなくて、愛美はいつも自分がやりたいと申し出、にこにこ笑いながら撮られていた。でも、本当は嫌で嫌で仕方がなかった。


 「細い体も良い」と、母親は言っていた。その時は気付かなかったが、きっと痩せている体も需要があって売れると言いたかったのだろう。写真がインターネットを介して売られていることに愛美が気付いたのは、十二歳の時だった。


 自分の裸体が知らない誰かの目に晒されていると知った時は急に気持ちが悪くなり、トイレに行って吐いてしまった。出てきたものはこども食堂で食べたワカメのかけらや黄色っぽい粘液だけだった。それでも、内臓まで出てきてしまうかもしれないと思うくらい、思い切り何もかもを吐き出した。涙と鼻水が顔を濡らし、便器や床に垂れた。吐き続けて吐き続けて、胃や喉が苦しくて痛くなった。


 気が済むまで吐いてから、愛美はいつか麻里衣を連れてこの家を出ようと決意した。こども食堂で「集まってくる子供をいつ売るか」などと大人たちがひそひそ話していたのを聞いてしまった直後だったから、というのもある。愛美が扉の影で息を潜めて聞いた話では、こども食堂のオーナーが、労働力を欲しがっている養護施設に一人一人子供を連れていっているということだった。かなりの金額が入ってきているというのに、出てくる食事やデザートはつましいものだ。デザートなんて缶詰の黄桃以外に出てきたこともないのにと思うと、怒りを覚えた。


「顔は写してないから、安心しなさい」

「あんたはこれくらいしか能がないんだから、せいぜい役に立つのよ」

「いいじゃない、それで学校に通えてるんだから」


 愛美が「写真が売られるのは嫌だ」と伝えた時の、母親の言葉だ。小さな子供の裸の写真はよく売れるため、子供たちの体が大きくなるにつれて母親の態度は冷たくなっていった。


 二人が初潮を迎えたのは、愛美が十四歳、麻里衣が十三歳の時だった。タイミングはほぼ同じだった。


「えっ、二人とも生理来ちゃったの? 体型が変わっちゃうじゃない。小さくなった服買い替えるのも嫌なのに」


 それを知った母親は、尖った口調でこう言った。ブラジャーも買ってほしいという言葉を、愛美は飲み込んだ。


 

 ◇◇



ひとみさん、ありがと。間に合ったみたい」


「ああ、いいよ、別に。ほら、食事にするから」


「うん。いい匂い」


 トイレから出てきた麻里衣が表情を緩めた。痩せてぎすぎすした印象の自分よりかわいいと、逃げる理由の一つになった麻里衣の笑顔を見るたびに愛美は思う。きっと母親は麻里衣が成長してきれいになったら体を売れと言うだろうと、確信していた。そうなる前に逃げたかった。どこでもよかった。ただ、海を見たことがないことに気付き、移動に時間がかかりそうなこの町を選んだだけだ。


 窓の向こうには、淡赤うすあかがかった不気味な月が低いところまで昇ってきている。黒い海の上にぽっかりと浮かぶ少し欠けた月は、人々のけがれで覆われているように見え、愛美は窓から目を逸らした。



 ◇◇



「午前中に買い物行ってよかった。こんなに降るなんて」


「お客さん、来ないかな……」


「今日は無理だろうね。ま、いいよ、たまには」


 麻里衣は二階の部屋で寝ている。ひどい生理痛で顔色も悪かったのに店を手伝うと言って聞かなかった彼女を瞳が叱り、やっと布団に入ったところだ。


「ねえ、聞いておかないといけないことがあるんだけど」


「……はい」


「何で逃げてきた? 何があった?」


 そろそろ聞かれる頃かもしれないと思ってはいても、瞳の直球の質問は愛美をどきりとさせた。うまく答えられるか不安だが、とにかく何か話さないといけないと、頭の中で懸命に言葉を考える。


「……麻里衣を、守るために……」


「守らないといけない何かがあったってことだろう? 虐待でもされてた?」


「あたしは……、裸の写真を撮られてました」


「裸? 誰に?」


「……ママ」


 愛美の小声の返答は窓ガラスを叩きつける雨の音にかき消されずに伝わったようで、瞳が眉根を寄せる。


「はぁ……、どうせネットで売られてたんだろう。で、麻里衣の方は?」


「そう、です。売られてて……。麻里衣は、まだ、そういうことはなくて、でもそのうち体を売れって言われるかもと思うと……。それに、あまりごはんもらえなかったから」


「なるほどね。あんたたちまだ未成年だからさ、どうしようかと思って」


 瞳の言う「どうしよう」は、『家に戻される』『養護施設に預けられる』という選択肢しかないのだろうと思い、愛美は下を向いて唇を噛んだ。しかし、瞳の次の言葉は予想外のものだった。


「私は二人ともここにいてほしいんだけどね。さて、どういう方法が一番いいかな」


「えっ、ここに、って……本当に……?」


 瞳は片眉を上げ、きっぱりと「本当だよ」と言った。それだけでうれしさがこみ上げてくる。


「……瞳さん、何か考えが?」


「んー、そうだね。まだちょっと考え中ではあるんだけど……。ああ、それより今は生活費のこと考えなくちゃ。もう少し売上伸ばしたいから、地域新聞の取材受けようかな」


「地域新聞?」


「うん、小さめのね、ローカルな情報が載ってるやつ。もちろん、あんたたちは写真に撮らないようきっちり言っておくつもりだよ」


「……はい」


 台風のような強風で、時々建物が揺れるのを感じる。こういう恐怖も瞳と一緒にいることでかき消されるのだと気付く。


「でさ、これも話しておかないといけないんだ。私があんたたちを置いておきたいと思う理由」


「あ、はい」


「私ね、流産したんだ。実の母親に階段から落とされて」


「……えっ……?」


「妊娠して幸せそうにしてるのが気に入らないなんて、くだらない理由だった。それが原因で子供ができにくくなって、夫とも別れて、一人でやってるんだよ。生きていればあんたたちと同じくらいの年齢だね。十五年前だったから」


「そうなんですか……」


「今は気楽にできてるからいいんだ。ただ、あんたたちのことは放っておけなくて。……流れてしまった子への罪滅ぼしを、あんたたちを使って、したいだけなのかもしれないけどね」


 視線を落としてぼそぼそとしゃべる瞳に、愛美は何と声をかけていいかわからず、黙り込む。すると瞳が明るい声で「雨が上がったら外に行ってみようか」と言い出した。


「あ、はい」


「麻里衣も連れてさ」


「はい」


 瞳がスマートフォンで調べた天気予報によると、雨は十九時頃上がる見込みだという。


「本当はあんたたちにもスマホ買ってやりたいんだけど、それは全部解決してから。楽しみにしてな」


 瞳のいたずらっぽい笑い方を見て、「楽しみにする」という感情を、愛美はほんの少しだけ、思い出せた気がした。

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