穢月祓 ―ミナツキハラエ―
祐里
1.丸い物体
海へ行こうと思った。波が寄せては引いていく海へ。この目では見たことがない、海へ。
◇◇
こども食堂でよく出てくる野菜炒めには、肉が入っていない。
「今日はデザート付きだよ」
食堂のオーナーの中年女性が、腹の肉を揺らしながら大きなトレイを運んでくる。脂身が多そう、まあ何の肉でもいいんだけど、という穏やかではない考えが浮かんだ。
「ありがと」
隣の席に座る妹の
とろりとした透明の液体に包まれた丸い黄桃は切り口を下にして盛られているため、いつ見てもただの丸い物体にしか見えない。こども食堂で教わった箸使いを駆使し、黄桃の真ん中に箸を刺す。そのまま箸を動かして半分に切ると、愛美の目に透明の液体がぎざぎざの断面を滑り降りていくのが映った。
「お姉ちゃん、何だか怖い顔してる」
「そんなことないよ」
麻里衣に指摘され、慌てて表情を和らげる。麻里衣は守っていかないといけない、汚い人間から――そう思うと、自然と気合が入る。
通っている中学校も、愛美にとってはつまらない場所だ。クリーニングに出すこともなくずっと着続けている制服のせいで、友達もできないのだから。
「麻里衣」
「ん?」
愛美はトーンを落として、麻里衣に声をかけた。
「一緒に逃げよう、ここから」
「……うん」
愛美が思っていたより素直に、麻里衣はうなずく。
「もう家には戻れないかもしれないよ。……いいの?」
「うん、お姉ちゃんと一緒にいたいから」
「……わかった。一緒に海見ようね」
普段はあまり表情を動かさない麻里衣が、深い笑みを見せた。
◇◇
電車賃は、真夜中に母親の財布から盗んでおいた。長時間電車に揺られてたどり着いた海辺の町。シャッターが下りた古い商店や曲がったまま錆び付いたガードレールが目に付き、華やかなものやきれいなものは見当たらない。
愛美には、町の住人も汚く思えた。ひなびた駅のベンチに座っているだけで、通りすがりのおじさんにじろじろ見られた。道を歩いているだけで、中学生くらいの男子が大声で笑いながらわざと自転車で二人の間をすり抜けていったりもする。腕に自転車のハンドルが少し当たったようで、麻里衣が「いたっ」と小さく漏らした。愛美は文句を言おうとしたが、彼はすぐに走り去ってしまった。
「麻里衣、大丈夫? 怪我は?」
「……ん、怪我はないけど、ちょっと痛い」
「そっか。痣になるかもしれないけど、すぐに治るよ、きっと。コンビニで何か買って食べよう」
「うん」
駅前の観光案内板はところどころ錆びていたが、とにかく海を見ようと、愛美は案内板の地図表示を頭に入れ、麻里衣を連れて駅から徒歩で海へ向かった。途中のコンビニエンスストアで菓子パンを一つずつ買い、二人で食べながら歩く。
十分ほどで海に着き、ざらざらの砂が積もった道路から浜辺に続く階段を降りる。海に面している町で育ったのに、二人は内陸部の狭い範囲しか知らなかった。初めて見る波は静かに、寄せて引いてを繰り返している。漁で使われていたのだろうか、放置された大きな網からは魚の腐敗臭が漂ってきた。そこを離れても潮の匂いが容赦なく目と鼻を襲う感覚に、愛美はめまいがしそうだった。
初めて見た海をただぼんやりと眺め、海の方から差す薄い西日を浴びていた時だった。「あんたたち昼間から何してんの? 補導されるよ。ていうか、これから雨降るって予報なのに、傘持ってないの?」と話しかけてきた女性がいた。彼女は名前を
「瞳さんのそばにいると安心するの。言葉は乱暴だけど」と、麻里衣は愛美に話した。その言葉で、愛美はこの町で暮らそうと決意した。
二人が瞳のカフェに居座るようになってから、二週間が経つ。梅雨の晴れ間には、多くの客が来る。「うち、値段は高めだけど人気があるのよ」と瞳は言っていた。
「今日は晴れてたからお客さん多かったなぁ。ああ、もう閉店だから扉閉めておいで」
「はい」
瞳の言葉に麻里衣が素直に返答し、さっと立ち上がった。木でできた素朴なデザインの扉がギイと音を立て、やがてパタンと気持ちの良い音で閉まる。
「七時過ぎたね。夕食にしよう」
「はい。……その、瞳さん、あの……」
「何? はっきり言いなよ」
「あっ、はい。生理……なっちゃった、みたいで……」
小さな声の麻里衣に瞳は「ああ」と軽く返してから、店の奥の小さなクローゼットを顎で指した。
「ナプキンならそこに入ってるから、好きなの使って……と言いたいところだけど、夜用のは買ってこないといけないんだった。明日は一緒に買い物に行ってもらおう」
「はい」
「今日はまだ夜用じゃなくて大丈夫だろう?」
「はい、大丈夫です」
二人のやり取りを見て、愛美はほっとする。逃げ出すまで一緒に暮らしていた母親は、娘が生理になると気が狂ったように怒鳴り散らしていた。おまえらが女になるなんて許さない、子供のままでいろと、何度も無茶を言われたものだ。ナプキンを買ってほしいなんて言い出せず、仕方なく役所の出張所までもらいに行っていたのを思うと、天国のようだと思う。
背の高い瞳は店のキッチンで洗い物をしていると腰が痛くなるとのことで、愛美は代わりに洗い物を担当している。麻里衣は客の注文を取ったり飲み物を運んだりする担当だ。
「体調は?」
「今は、まだ何ともないです」
「そう」
「早くトイレに行ってきな」と付け足すと、瞳はフライパンを取り出して夕食作りを始めた。愛美に冷蔵庫から出すカット野菜などを指示しながら、フライパンにオリーブオイルを入れる。
「好き嫌いするんじゃないよ。ま、あんたたち嫌いなものはなさそうだけど」
「……嫌いなもの、あります」
「へぇ? 何が嫌い?」
「黄桃。缶詰の。栄養があるフリしてそうだから」
愛美の言葉に瞳が「ははっ、栄養があるフリか」と楽しそうに言うと、フライパンに細切りベーコンを入れた。
「黄桃にも栄養は一応あるだろうに。ビタミン類とかさ。あと、糖分も取らないと、頭に栄養がいかないって聞いたことあるよ」
「……頭、なんて……学校にも行ってないのに」
「愛美が十五で麻里衣が十四だっけ?」
「そうです」
「ああ、愛美、そこの……そう、それ」
愛美が瞳に言われる前にアスパラガスが入ったバットを渡すと、瞳が「さんきゅ」と短く言う。
「あんたたちいると楽でいいわ。でもさすがにお金はかかるようになったから……ちょっと節制しないといけないんだ。そこらへんは我慢してよ」
「はい」
愛美の返答を聞いてニヤリと笑う瞳が動かしたフライパンからは、ベーコンのおいしそうな匂いがした。
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