第36話 がんばれのスタンプ
胸にほんのりと冷たい手が触れる。
それは小さくて、指の一つ一つが細くて、少し強い力で握れば簡単に折れてしまうほどの華奢さ。
その手は、厚みを確かめるように俺の胸を何度も揉んでくる。
そこに遠慮なんてこれっぽちもない。あるのは興味なのだと思う。
それにしてもくすぐったい。
他人に胸を揉まれるなんて当然初めての経験。顔では平静を装っているが、心の中はというと、緊張の線がひどく脈打っている。
というかどんな顔して立ってればいい?
パンイチの男が女の子に胸板を揉まれているこの状況。物凄く反応に困る。
何より保坂さんとの物理的な距離が近い。
シャンプーなのか、ほのかに甘い匂いと、俺たちだけしか居ない静かな教室だからこそハッキリと聞こえる保坂さんの鼻息。加えて、いつ見ても見惚れてしまうそのルックス。これらを間近で味わっているのだから、緊張しないわけがない。
そんなことを考えていると、胸に触れていた手が、ゆっくり下へと流れていった。やがて、少し緩んだ俺のお腹にたどり着くと、その一部をそっとつまんだ。
そして保坂さんは、俺のお腹をつまんだままこちらを見上げ一言。
「ぷよぷよしてる」
気のせいか、ダイエットを促されているような視線を感じる。
「ぷよぷよしてますよね」
「うん。将来有望」
「将来有望? ですか……どういうことですか?」
「翔はきっとマッチョになれるって意味」
「マッチョ……なれますかね?」
筋トレはいずれしようとは思っている。こんなだらしない体型では、保坂さんを振り向かせるなんて夢のまた夢。
本来なら、こうして関わることなんてあり得ない、高嶺の存在なんだから。
少しでも外見をよくしないと、保坂さんに釣り合うような人間にはならない。
今の俺では到底……。
この学校には保坂さんと釣り合えるルックスの生徒はけっこういる。
保坂さんが変人じゃなければ、今頃はその人たちに取られていた可能性だって十分にある。何度も言うけど、変人じゃなければ。
「なれる。夏休み明けの翔はマッチョになってると信じてる」
「そんな短期間でマッチョになれますかね。俺、絵の練習しないとですし」
筋トレよりも今の俺の最優先事項は少しでも絵が上手くなること。
漫画家になるには、絵の上手さの他にストーリーやキャラの魅せ方など様々な技術を習得しなければならない。
今の俺は漫画家になるという夢のスタート地点にすら立てていない状態だ。
保坂さんがマッチョに興味があるなら、筋トレして少しでも振り向かせたいとは思う。けど、やっぱり夢は諦められない。
幼少期からずっと追い続けている夢で、生き甲斐でもある。
「両立すればいい。筋トレする時間はあるはず」
「確かに時間はないわけじゃないですけど、絵を描くのって意外と体力使いますし、筋トレする体力が残ってるかどうか」
そもそもモチベーションの問題。
上手く絵が描けたら、その勢いで筋トレも捗るかもしれない。でも逆にあまり上手くいかなかったらシンプルに落ち込むし、そんな状態で筋トレする気になるかという問題がある。
なんとも情けないことだ。
保坂さんを振り向かせようとしてるのにこんな体たらくでは。
他人と比べても仕方ないけど、徳永さんは学校も部活も塾も両立させている。
一方で俺の生活は、大半は絵の練習。そこに筋トレが加わるくらいなんて事ない……と思いたいんだけど、現状、絵を描くことの計り知れない難しさに苦戦中なんだよね。
先の見えないトンネルに居るような感じ。
そう思考が少しネガティブに寄り始めた時、腹部に針で刺されたかのような痛みが走った。
俺のお腹の一部をつまんでいた保坂さんは、何を思ったのか、突然ギュッとつまむ力を強めたのだ。
全然我慢できる痛みだけど、痛くないわけじゃない。
「あの、保坂さん痛いです」
「うん、つねってるから」
「な、なんで急につねるんですか」
「翔がなんか悩んでるみたいだったから。正気に戻させようと思った」
「俺そんなに悩んでる顔してました……?」
「うん」
あっさりと頷く保坂さん。
つねってまで正気に戻させようとするなんて、どんだけひどい顔をしてたんだろうか。
「そうですか……」
気をつけないとな。
家族ならまだしも、他人に変な気を遣わせたくはない。
それに、悩んでいても絵は上手くならない。俺に出来ることはひたすら地道に描き続けることだけ。
頭ではわかっていても、気持ちがね。
でも今は保坂さんのために集中するべきだ。悩んでたって仕方がないんだから。
そう半ば強引に気持ちを切り替えた時だった。
不意に、左頬に冷たい感触が伝った。
保坂さんの華奢な手が俺の左頬にそっと触れている。その手は、先ほどまで俺の腹部をつねっていた手だ。
お陰で痛みは消えたけど、今度は逆にドキドキが止まらない。
そんな俺の気なんて知る由もない保坂さんは、真っ直ぐこちらを見つめてくる。
「悩みがあるなら言って」
相変わらず何を考えているのか、感情の起伏がない表情。それでも俺のことを本気で心配してくれていることだけは伝わってきた。
「保坂さん……優しいですね」
本当に優しい。
変人や奇人なんて呼ばれているけど、保坂さんは根はとても優しい女の子なんだ。
「これは優しいの?」
「はい。とっても優しいです」
優しいが何かをわかってないところ、実に保坂さんらしい。
だから、本当に心配して言ってくれているんだってわかる。
ほんと、気を抜いたら涙をこぼしてしまいそうだ。それだけ今の俺には、とても心に染み渡る。
「そう……翔、悩み事があるならいつでも聞くよ。基本的に屋上か保健室にいるから」
「ありがとうございます」
その気持ちだけで十分に救われる。
「もしどこにも居なかったら連絡して」
さらっと放たれたその一言に、思わず「え?」と聞き返してしまった。するとなぜか保坂さんも「ん?」と首を傾げる
「あの、俺、保坂さんの連絡先知らないです」
「交換してなかった?」
「いや、してないです」
「そう、なら今交換しよ」
そう言って保坂さんはスカートのポケットからスマホを取り出した。
一方で俺はというと、現在パンイチ姿なため、スマホは机の上のズボンに入れっぱなしだ。
「ちょっと待っててください。スマホ、ズボンの中なんですよね」
ズボンを広げ、ポケットを探ってスマホを取り出す。
「お待たせしました」
スマホを手に戻ると、保坂さんは既にQRコードを読み取る画面にして待っていた。
「どうぞ」
スマホにQRコードを表示して差し出すと、保坂さんはそれを読み取った。
パンツ一丁の男が女の子と連絡先を交換しているという、なんとも異様な光景。もし誰かに見られたら通報待ったなし。
少しして俺のスマホが軽く振動し、通知が表示された。
タップして保坂さんとのトーク画面を開くと、そこには、仁王立ちした腹筋バキバキのゴツいウサギが腕を組んで「ふんっ!」と言っているスタンプが出迎えてくれた。
こんなスタンプあるんだ。
可愛げの一切ない、厳つさに全振りしたウサギ。かなり強そうな見た目をしている。
保坂さんがスタンプを使っていることだけでも意外だったのに、こんなムキムキなウサギのスタンプだなんてギャップがすぎる。
お返しに、こちらは太った猫が寝そべって「起こしてみせろ」と言ってるスタンプを送った。
保坂さんは俺が送ったスタンプを見た後、相変わらずの無表情でこちらを見つめてきた。
「翔ってスタンプ使うんだ。意外……猫可愛い」
「ふてぶてしいですけど、なんか可愛いですよね。というか俺も保坂さんがスタンプ使うなんてイメージなかったです」
もっと淡々としてるのかと思ってた。スタンプも絵文字も一切なし、句読点だけで構成された、飾り気がなく喜怒哀楽の読めないメッセージを送るタイプだと想像してた。
いつも何を考えているのかわからないし、きっとメッセージでもそんな感じなのだろうと。
それにしても、俺ってスタンプとか使わなそうな感じなのかな。
保坂さんに意外と言われたのがどうも引っかかる。
スタンプはめちゃくちゃ使う方だ。スタンプだけで会話を成立させる程に。メッセージをカスタマイズできるスタンプは尚更だ。
簡潔に気持ちを伝えるのに、こんなに適した機能は他にないと思う。
「スタンプはよく使う」
そう言って保坂さんは一度スマホに視線を落とすと、ポンッとまたスタンプを送ってきた。
あの腹筋バキバキの厳ついウサギのスタンプだ。今度は親指を立てて「がんばれ!」と励ましてくれるやつだった。
そのシュールさに思わず笑いそうになったけど、何とか堪えた。
保坂さんは相変わらず無表情でこちらを見つめている。
未だに彼女の感情はあまり読めないけど、このスタンプからは優しさの温もりを感じた。
「このウサギ、俺好きです」
「ゴサギ」
「ゴサギ? もしかしてこのウサギの名前ですか?」
「うん。ゴツいウサギでゴサギ。ちなみに女の子」
「単純な名前……言われてみればこのウサギ、じゃなくてゴサギ、ビキニ着てますね」
厳つすぎて気づかなかった。よく見ると水色の水着を着ている。
「お気に入り。色々種類あってオススメ」
変わらずの無表情だけど、ほんの少し声色が弾んでいるように聞こえた。
「オススメされたら買うしかないですね」
「買わなくていい。あげる」
「いや買いますよ、ってもう送られてきたんですけど、早すぎますよ」
有無を言わさぬ早業で、スタンプのプレゼントが送られてきた。
もしかして布教したかったのかな。
「貰っていいんですか?」
「うん」
「では遠慮なく頂きますね」
数種類あるゴサギのスタンプの中で、保坂さんがプレゼントしてくれたのは『励ますゴサギ』というバージョンだった。
その中には、親指を立てて「がんばれ!」と励ましてくれるゴサギがいた。
がんばれ、か……。
ただのスタンプなのに、保坂さんから貰うと思わず頬が緩んでしまうくらい嬉しい気持ちにさせてくれる。
「保坂さんありがとうございます」
「うん」
保坂さんは相変わらず無表情で小さく頷くだけ。
彼女を知らない人からすると少し無愛想に思うかもしれない。けど、俺は知っている。彼女がとても優しい人だってことを。
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