第32話 記憶は残る

「もう大丈夫。描き終えたから」


 私がそう言うと、翔はふぅと息を吐いた。

 ずっと動かずに立ってもらっていたから、疲れたんだと思う。


「それ見てもいい?」


 翔は背伸びしながら私の後ろに立ち、スケッチブックを覗き込んだ。


「うん」


 翔はしばらく私の描いた絵を見ていたけど、一向に何も言わなかった。

 顔を見てみたら、なぜか難しそうに眉を顰めていた。


「感想は?」


 私がそう催促すると、翔はハッと我に返った。


「か、感想か……素直に言っていいの?」

「素直じゃない感想って意味ある?」

「……だよね……あ、決してダメとかそういうわけじゃないから。絵って正解とかないし」

「うん。それで感想は?」


 なかなか言おうとしないからまた催促した。

 普通に言えばいいと思うんだけど、何を気にしているのか私にはわからなかった。


 でも、二度目の催促で翔は言う。言いにくそうな苦い顔をして。


「なんか、寂しいなって思った。理由はわかんないけど、なんとなくそう思った」

「寂しい……? どこら辺が?」

「だって、君の顔が塗り潰されてるから。俺の顔はちゃんと描いてあるのに……」


 スケッチブックに描いたのは、公園の風景と、それを背にして立つ翔と、そして私。

 でも私の顔は鉛筆でぐちゃぐちゃに黒く塗り潰した。

 それは、私がこの街を去るから。この街の人じゃなくなるから。

 でも翔はこの街に引っ越して来た、この街の新しい顔。

 去る者と新しく来た者がこうして同じ空間にいる。それを表現しただけにすぎない。だから寂しいと言われてもよくわからなかった。


 だけど、翔は、私の顔が黒く塗り潰されているところに寂しさを見出した。

 そういう捉え方があるのかと興味が湧いた。


「どうして塗り潰してるの?」

「私、あと数日でこの街から引っ越す。この街の人じゃなくなるから、塗り潰した。でも翔はこの街の新しい顔。それを表現してみた」

「そういうことだったんだ。引っ越すってなんで……あ、いや、何でもない……」

「ん?」

「俺は、この街から君が引っ越しても、君が居たっていう記憶はこの街に残るって思うな」

「ふむふむ」


 翔は面白い考え方をする。

 引っ越しても私が居た記憶はこの街に残る……なるほど。それは考えてもしなかった。


「その、君の表現を否定するわけじゃないけど、これだと、君という存在自体を否定してるみたいで、なんて言うのかな、とにかく寂しいよ。俺、漫画家目指してるから、こういう表現もアリだとは思う。でも、俺としては、顔を描いて、せっかく隣に立ってるんだから手とか繋げないかな? お互い笑顔でさ」

「手を繋ぐ……笑顔で……」

「あ、ごめん! めっちゃ偉そうに言った。まだ全然絵なんて描けないのに」

「どうして謝る? 捉え方は人それぞれ。それに意見は貴重」


 こうやって意見を言われたの初めて。皆、口裏揃えたように凄いしか言わないから。


「翔に言われた通り描いてみる」

「それ見てみたい!」

「じゃあ明日、この時間にまた来て」

「わかった!」


 …………後日。


 私は昨日翔と会った時間、同じ公園の大きな木の下で待っていた。

 けれど、翔は来なかった。


 ⭐︎


 翔がホームセンターで購入した台車で家まで送り届けられた木乃実は、地下室で少し思い出に耽っていた。


 彼女の手には、少し色褪せたスケッチブックが握られていた。

 そこには、翔と木乃実が笑顔で手を繋いでいる絵が描かれている。


「……どうしてあの時来なかったんだろう」


 それがずっと気になっていた。

 いつもならすぐに興味をなくして忘れてしまうのに、あの時のことだけは今もずっと覚えている。


 知りたい。あの時来なかった理由。

 しかしこればかりは翔が思い出すしか知る方法はない。


 そしてもう一つ知りたいことがあった。

 それは、翔のことを考えた時、翔と一緒にいる時、胸がドクドクトと張り裂けそうになる理由。


「木乃実、ご飯よ〜」


 リビングから母親の声が響いた。


 木乃実はスケッチブックをそっと閉じると、机の上に置き、リビングへ向かうのだった。

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